その場所では、今でも雨が降っている

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 娘の名は(すず)。  彼女の祖父は名の知れた画家だったという。父は祖父の弟子兼助手、母は鈴が幼い頃に亡くなり、家の中は祖母がきりまわしていた。  家は江戸から離れた村の一画にあり、どこぞの豪商の別宅だったものを、江戸の騒がしさを嫌った祖父が買い取ったという。家の周りは三方を畑に囲まれ、裏には大きな竹林が広がっていた。 この竹林は村の子供たちにとっては格好の遊び場で、鈴は彼らとよく駆け回った。鬼ごっこ、かくれんぼ、石けり。遊んでいるうちについ時間を忘れてしまうことも多かった。  ある日、竹林で遊んでいる途中で女の子が一人姿を消した。鈴の祖父や父も参加して村の大人たち総出で竹林を探し回り、夜が明ける頃にようやく女の子はみつかったが、突然いなくなった理由を問われると、彼女は誘われたのだと言う。  「竹林の向こうから、誰かがさわさわ、ざわざわ囁くの。「こっち」って」  『向こう』から『囁く』、というのはおかしな話だ。ちょっと妹に似た声だったとも女の子は言った。だが彼女の妹は前年に病で亡くなっている。女の子はなぜ大人たちが怖い顔をしているかもわからないようだった。  鈴はその話を聞いて、ふと自分にも覚えがあると思った。  竹林の笹と笹が風に揺られて擦り合わさる音。頭上でひしめく梢が一斉に鳴りだす様。よくよく聞いているとそれは人の囁きに似ている。ただ女の子の言うように明確な言葉で聞こえたことはない。  近くにいた祖母にそのことを話したら、彼女は笑った。  「大丈夫。あれはただの笹の音さね」  祖母の声は優しくて、鈴は安心した。    「ただねぇ、梢と梢の小さな隙間、竹の裏側、竹林の目の届かないずぅっと奥には、あるいはなにかがいるのかもしれない。そう思うことが、おばあちゃんにもあるよ。  だからね、鈴。もしなにかの声が聞こえたら、決して答えちゃあいけないよ」  鈴を撫でる祖母の手は暖かった。
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