その場所では、今でも雨が降っている

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 鈴は淡々と語る。聞いている富蔵の方が、喉が渇いた。  「幸いにも、火は竹林や周りの田畑に燃え移ることはありませんでした。村の人が必死に消火作業をしてくれたおかげでしょう。  その中で、焼け残った僅かなものの中に襖紙がありました」  襖紙、と富蔵はまた背後の掛け軸をみやる。普通の画紙とは違うと思っていたが、なるほどあれは襖紙か。  「襖十六枚分。それは画室の襖の数と同じです。雨の竹林が見事に描かれた襖紙でした。襖紙を画紙代わりに、その全体に描き出された見渡す限りの竹林と、降り注ぐ雨。襖紙はしっとりと濡れていて、村人たちは消化用の水だろうと言いましたが…私にはそうは思えませんでした」  祖父が描いていたのはこれだったのだ。四方を襖に囲まれたあの部屋で、祖父はずっと雨の竹林を描いていた。今にも雨音と葉擦れの音が聞こえてきそうな見事な襖絵を。  「私は家であったことを村の人に訴えましたが、信じてくれる人はいませんでした。祖父が借金をしていた画商はむしろ襖が焼け残ったことを喜び、それを切り分けて売りに出すといいます。子供の私に、阻止する術はありませんでした」  あるものは掛け軸に、あるものは屏風に、あるものは普通の絵として。画商はいい儲けになったと鈴にも売り上げを幾許か包んでくれた。そのおかげで母方の親戚が鈴を迎えてくれたのだ。金の他に彼女に残されたのは、祖父が最初に見せてくれた試し描きの一枚だけだった。今日、彼女が持ち込んだものである。  「私はこの絵を捨てられませんでした。そのくせ努めて忘れようともしました。  成長するにつれ、あれは夢だったのではないかとも思い…よき縁に恵まれ、子宝も得て、このまま幸せな人生を送るのだろうと思っていたのに」  鈴は自分の下腹を悲しそうに撫でた。  「先に夫が、その音を聞きました。」  「それは」  「いえ、私も聞こえていたのに、気づかないふりをしていたのです。その間に夫はこの絵をみつけてしまった。  彼は、笑い声が聞こえると…赤子だったあの子の元気な声が、絵の中から雨音に混じって、葉擦れの音に紛れて。確かに、この竹林の向こうにいるのだと」  彼女の赤子になにがあり、そして夫がどうなったのか。富蔵にはとても聞くことができなかった。  「この絵は、世にあってはいけません」  やや赤くなった目で、鈴は富蔵を見据えた。    「私がここに行きついたのは、この店の奥から雨音が聞こえたからです。今だって、私の耳には聞こえています。  夫を失って…私は方々を訪ね歩き、この絵を浄化できるお寺を見つけました。どうかお願いです、あなたの掛け軸を譲ってはください。  お寺の住職曰く、顔が消えるのはそれが生者の証だからだそうです。顔は生きた感情を表す。その顔で私たちは見て、聞く。それこそ死者のものも」  「……」  「貴方の顔は半分、まだそこにある。きっとまだ間に合います」  富蔵は呻くように鈴に問うた。  「竹林から聞こえる懐かしき声は…我々を死出に誘っているのか?」  鈴はゆっくりと首を振った。  「死者の声は、いつだって優しく暖かい。生きていた頃そのままに。ただ生き残ってしまった私たちが、どうしようもなく懐かしいだけ。耐えようもなく惹かれてしまうだけなのです」
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