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富蔵は今でこそ人から羨ましがられる立場だが、店を継いだ当時は酷いものだった。いつも見通しが甘く、儲けを出そうとすればするほど裏目に出る。店はあっという間に傾いて、古参の奉公人には逃げ出す者もいた。
そんな中だ、骨董屋でこの掛け軸をみつけたのは。ひどく惹かれる絵だと思った。降り注ぐ雨、揺らぐ靄、青々とした竹林。その一つ一つが鮮烈で気が付いたら寝床の板床に飾っていたのである。
父の声を聞いたのはその晩だ。さあさあという雨と、さわさわという葉擦れの音。それにまぎれて、ざわざわという囁き声。それは次第に父の声になった。
夢だと思った。情けない富蔵を叱りに父が夢枕に立ったのだと。
実際、父の声は苦言と…そしていくつか改善策を与えてくれた。その通りにやってみたら一気に店は持ち直したのだ。
掛け軸を飾った日に父の声を聞いたのだから、そこに因果を感じた。普通の絵ではないとは思ったが富蔵は絵を飾り続け、父からの助言も得続けた。
父がいなければ富蔵は店を守ることができない。また奉公人たちに馬鹿にされ、同業者たちに見下される日々になど戻りたくはなかった。
ある日、目が覚めたら…掛け軸の中で絵が動いていた。雨が降り、笹が揺れている。
次第、起きているときも、囁きを聞くようになった。
気が付いたら、顔半分が崩れていた。
今宵、奥間に掛け軸はない。鈴に渡したのだ。きっとこれで富蔵は助かるのだろう。
寝床に潜りながら、富蔵の胸にいまさら不安が沸いてくる。
助言をくれる父の声を聞ける絵はもうない。
まだこの顔は崩れ切ったわけではなく、鈴の父のようなのっぺらぼうにはまだ遠い。あと数か月、数日だけでも待ってもらった方がよかったのではないか。
それに、あの絵がもたらす声は父だけではない。優しかった母や面倒をみてくれた乳母のものも。
ふと、富蔵は自分が見知らぬ場所に立っていることに気が付いた。目の前に家が建っている。その背後には大きな竹林が広がっていて、背後を振り返れば見渡す限りの畑。
はて、もう自分は寝たのだろうか。これは夢だろうか。
音が聞こえる。雨音だ。
さあさあ、ざあざあ。家の中から聞こえてくる。その音に誘われるように、富蔵は玄関をくぐった。たたきを上がり、廊下を進む。
雨音に交じり、今度は葉擦れの音も聞こえてくる。さわさわ、ざわざわ。
次第にそれは囁き合う人々の声に。
くすくす。
懐かしい。なんて懐かしく優しいのか。富蔵の目の前にぴしゃりと襖の閉じられた部屋がある。声はこの向こうからだ。迷わず富蔵は襖を開いた。
それは四方を竹林に囲まれた部屋だった。正確には襖に描かれた竹林だ。絵の中で雨が降っている。靄が揺らいで、竹が揺れ、さわさわ、ざわざわ。絵が動いている。
ーおぅい。
父の声が聞こえた。厳しくもどこか温かみのあるそれ。
ーおぅい、富蔵。また泣いているのか。また嫌なことがあったのかぁ?
竹林の向こうから、囁くような声が聞こえる。聞こえてくる場所は遠いはずなのに、確かに耳元で囁かれているかのような。
ーおぉい。
ー富蔵ぉ。
ー大丈夫か。
それは父の声であり、母の声であり、乳母の声であった。富蔵は目の前の襖紙に触れる。滴る雨が絵の中から彼の腕を伝い、袖を濡らして足元までも濡らす。
懐かしい、優しい。ああ、俺もそちら側に行けたなら。
ずるん、と富蔵の体が襖の中に飲み込まれた。
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