その場所では、今でも雨が降っている

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 日本橋表通りにある材木問屋、北野屋(きたのや)は江戸で知られた大店だ。二代目店主の富蔵(とみぞう)は齢四十。やり手だった先代を思わせる新奇な商売で店を大きくしてきた。二代目はぼんくらが多いというが、彼は出来者だと誰もが誉めそやす。  しかし最近、富蔵は病に伏せているとかで店表に姿を見せてない。よいことばかりは続かぬものだなぁ、と人々は噂した。  その、病であるはずの富蔵。この日彼は北野屋の奥間で客と向かい合っていた。富蔵の頭は病の顔色を隠すためか、頭巾ですっぽり覆われている。客の娘はそんな富蔵を訝しむ様子もなく、視線は彼を通り過ぎてその背後に飾られた掛け軸に据えられていた。  娘は纏う着物も質素な、ごく普通の町娘である。歳は十代後半だろうか、どだい大店の主人が個人的に会う人物とは思えない。  娘が見つめている掛け軸は富蔵が古物商から昔買い求めたもので、雨の竹林が描かれている。青々とした竹、降り注ぐ雨、地面から揺らぐ靄。その場の匂いを感じられそうなほど見事な絵であった。  同じ絵が富蔵の前にも置かれている。こちらは四寸四方の小さな紙に描かれていた。  娘がようやく掛け軸から目を離し、富蔵に頭を下げる。  「訪いに応じてくださり、ありがとうございます」  緊張の滲んだ声だった。富蔵は自分の前にある竹林の絵を娘に返す。  「こんなものを見せられては、会わぬわけにはいかぬだろう」  娘は本日店表に現れると…この店の主に会わせて欲しい、この竹林の絵を見せたら必ず会ってくれるはずだと北野屋の番頭にかけあったらしい。事実、その通りになった。  「突然の訪い、申し訳ありません。 ただ…その頭巾の下、お顔はまだそこにありますでしょうか?」  富吉が唾ごと息を飲み込んだ。「娘さん」と今度は富蔵が緊張した声をだす。  「やはりこの顔は、絵と関わりがあるのか。だから娘さんはその絵を持って私を訪ねに来られた」    富蔵の背後にある掛け軸と娘が持って来た一枚の絵。  「雨が降りましたか?」  娘は自分が持ってきた絵を指して問う。富蔵が背後の掛け軸を振り返って頷いた。そうだ、絵であるはずの雨が降るのを見た。    「竹林の向こうから、誰かの声を聞きましたね」  問いではなく確信だった。この娘は全て知っていると悟った富蔵は頭巾に手をかけた。頭巾の下から現れた富蔵の顔には年相応の渋みがある。顔半分だけ。  右半分はそのままに、左半分が中心からぐにゃりと歪んでいた。目、鼻、口、まるで絵の具を水に溶かしたように曲がり、崩れ、輪郭がぼやけている。 娘は眉一つ動かさない。「娘さん」と富蔵の半分崩れた唇が淀みない声で呼びかける。  「どうかこの絵について、教えて欲しい」  娘は頷く。 さあさあ、ざあざあ、さわさわ、ざわざわ。富蔵の背後で、娘の指の先で…竹林の絵から何者かが囁く声が聞こえた。
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