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第二章 天啓(5)
日が暮れてからもヘリホルは、ランプの灯りの下で巻物の破片を広げていた。
内容が気になったのもある。朽ちた感じからしても随分古いもののようだが、一体いつ頃のものなのか。どうしてこの巻物が鉱山の跡に埋められていたのか。砂の下にあったからには、埋められたのは、おそらく鉱山が放棄された頃のことだったはずだ。巻物は、鉱山が隠されたことと何か関係しているのだろうか。
けれど、巻物にはほとんど読めるところは無く、あまりにも古い文語体で、書記学校で一通りの読み書き計算を習った程度の知識では、意味までは汲み取れなさそうだった。
(うーん…祈祷書かと思ったけど、違うかもしれないな。詩…物語? 誰かの覚書のようにも見える…)
神官の知識は無かったが、お祭りの時などに神殿で神官たちが唱えている経文の感じとは、随分と調子が違っている。
「紺碧の天の女神の躰に散りばめられた無数の子供たち、即ち星である」といった詩的な部分があれば、「生ける神の声を聴くための知恵」のような謎めいた呪文、さらには「神々と共にあるためには」といった心得のような部分まで、断片的に入り混じっている。
もしかしたら、元は複数の巻物にあった部分を写して繋ぎ合わせたものかもしれなかった。
だが、それがどうして「宝」として伝承されたのか、さっぱり分からない。
(もしかして、この巻物の他にも何かあったのかもしれないな)
細切れになってしまった巻物の断片が半分ほども溜まっている箱を見やりながら、ヘリホルは思った。
例えば、宝石を散りばめた黄金の護符とか。小さなものなら、巻物と一緒に箱に入れられる。そちらのほうが、州知事の欲しかった本命なのかもしれない。
きっとそうだ。
半ば自分を納得させるようにそう結論して、ヘリホルは手元にあった巻物と断片を箱に元通り収めた。油はもうずいぶん少なくなり、芯がちりちりと音を立てている。ずいぶん夜更かししてしまった。明日は朝いちばんにここを発つのだ。早めに就寝しなければ。
燈心を指でもみ消そうと腰を上げた時、彼は、ふと、表がやけに静かなことに気が付いた。
天幕の布を持ち上げ、外の様子を伺う。星の傾きからして今はちょうど深夜の頃だろうか。どこにも異常はない。崖の上には、夜を徹して見張りに就く兵士たちの人影があったし、州知事の天幕も、さすがに今日は寝静まっている。兵士たちや人夫たちの多くは、ここがまだ採掘されていた時代に使われていた横穴を寝ぐらにして床に就いている。
けれど、いつもと何かが違う。
しばらく考えていた彼は、ようやく気づいた。――いつもなら少しは吹いているはずの風が、消えているのだ。
生き物の気配に乏しく、命の息遣いも無いこの赤い土地では、風に吹かれる砂だけが、世界が動いていることを感じさせてくれる。それが消えた今、世界は死に飲み込まれたかのようで、細々と燃えている灯のほかに、動いているものは無い。
時の止まった世界。日の昇ることのない冷たい灰色の沙漠。――それは、冥界の書に謳われる「死後の世界」の風景そのものだ。
ふいに、背筋にぞくりと冷たいものが走る。死者の国の気配に飲み込まれまいと、慌ててヘリホルは寝床に潜り込んで頭から布を被った。
赤い土地の西の地平の向こうには、死者の行く冥界の入り口があるという。その世界は、今立っているこの大地の下にも、どこまでも広がっているのだ。
「……。」
朝になれば、太陽の光が照らせば、こんな嫌な想像も消えるはずだ。
無理にでも眠ろうと、目を閉じてからしばし経った時、ヘリホルは、違和感に気づいて瞼を開けた。
「ん?…」
妙に辺りが明るい。ランプの灯はさっき消したはずなのに…、そう思いながら顔を上げた彼は、枕元の小箱から漏れだしている光に気づいた。
「な、何だ?」
光と、それに微かな熱。蓋を開けると、さっきまで手にしていた巻物の一片が、ぼうっと輝いて見える。
(…め)
微かな声。足元に、ひゅうっと風が吹き抜ける。
(読め…)
「だ、誰だ」
辺りを見回しても、他には誰も居ない。はっとして、彼は小箱の中に視線を落とした。
まさか、喋っているのはこの巻物なのか?
そんな馬鹿なと思いつつ、ヘリホルは、赤く輝く巻物の断片から目が離せないでいた。もしかしたら、宝などというのは嘘で、この巻物は呪われた品ゆえに沙漠の奥の鉱山に封印されたのではないだろうか。だとしても――
(汝は…何を望む…)
断片の最初の部分に浮かび上がる神名に気づいて、彼ははっとした。そうだ。正しく神名が書かれているのなら、これが呪われたものであるはずがない。
ごくりとひとつ息を飲み込んで、ヘリホルは、慎重に、その部分に指で触れた。
「知恵の神」
最初の文字は、聖なる鳥である朱鷺から始まっている。
「どうか…我らに道をお示しください」
呟いた時、突然、猛烈な勢いで風が吹き込んで来た。天幕の入り口の布が大きく捲れあがり、巻物の断片が箱から零れだして散り散りに散らばった。
「う、わ…」
「敵襲だーっ!」
闇を切り裂く兵士の叫び。あちこちから、眠りに落ちていた人々の飛び起きる物音がする。風とともに時が動き出したかのようだった。
「盗賊だ! 弓兵もいる!」
「囲まれてるぞ、頭上に気を付け…ひっ」
ぐずぐずしてはいられない。
ヘリホルは散らばった断片を出来る限り拾い上げ、砂と一緒に急いで小箱に詰め込むと天幕を飛び出した。
外では既に、あちこちで戦いが始まっている。既にこと切れた盗賊の骸が足元に転がっているのに気づかず、つまずいて転びそうになった。寝起きとはいえ訓練を受けた兵士たちの動きは機敏で、脱走した農民上がり程度の盗賊では歯が立たないのだ。
問題は、戦うことに長けた腕利きの傭兵が、どこかに混じっているはずだということ。
小箱を抱えたまま、ヘリホルはウェンアメンの姿を探した。けれど、視界にある限りの戦場には、彼の姿は見当たらない。盗賊たちが狙うとすれば、州知事のパネヘシのはずだ。だとすれば、ウェンアメンもきっと、護衛のためにそこに一緒にいる。
風と戦いの巻き上げた砂煙のせいで、辺りは砂に煙り、視界は不明瞭だ。
目に砂が入らないよう手で顔を庇いながら、ヘリホルは記憶のままに谷間を走った。その道はかつて、彼が盗賊の矢に射抜かれた谷間の回廊だ。戦場から遠ざかるには、その道を行くのが最善と判断したのだった。
だが、包囲戦という罠を仕掛ける側にとっては、それはまさしく自明の理だった。わざと包囲に一か所の隙を作り、追い詰められた獲物がそこへ飛び出してくるのを待ち伏せるなど、造作もない。
「…あっ」
ふいに行く手を人影に阻まれて、ヘリホルは足を止めた。走り続けたせいで、びっしょりと汗をかいている。一歩、あとすさる足元に、ぽたりと汗が滴り落ちた。
「こいつぁ驚いたな。前にセティの奴と一緒にいたお役人じゃねぇか」
にやにや笑いながら目の前に立っているのは、忘れもしない、『西方のハイエナ』の統領ゲレグだ。そしてその隣には、頬に傷のある、あの男が立っている。残念なことに、どこにも怪我は負っていないようだ。
「やはり、本命はあんたか。」
頬傷の男は小さく呟いて、続きを雇い主に譲った。ゲレグは、余裕ぶった嫌な笑みとともに近付いてくる。
「久しぶりだなぁ、お役人さん。まさか生きてたとは。さ、て、と。その、大事そうに抱えてるもん寄越しな」
「これを?…」
聞き返してから、ヘリホルは気が付いた。盗賊たちはまだ、州知事があれほど吹聴していた宝の正体を知らないのだ。「これは…何でもないぞ」
「はぁん? そいつを判断するのは、こっちの役目でね」
ひったくるようにしてヘリホルの手から小箱を奪い、その場で蓋を開けたゲレグの顔が、期待から驚き、そして失望と蔑みへと、見る間に移り変わってゆく。
「うへ、何だこりゃ。古文書か何かだな。しかも切れっぱしときたもんだ。」
指でつまみ上げた巻物を、男は、乱暴に手で握り潰した。ぱらぱらと、細かな断片が風に舞い散る。微かに放たれる赤い光も、熱を帯びた文字も、無学なこの男には全く見えていないのだ。
「こんなもん学者でもなきゃ用は無ぇ。どうやら本当に、何でもなかったらしい」
言い捨てたかと思うと、無造作に箱を足元に投げ捨てて、腹立ち紛れにぐしゃりと踏みつぶす。それで終わりかと思ったら、いきなり剣を抜いた。
「欲しいのはこんなもんじゃねぇんだよ。どこだ? 本物の宝のほうは、何所にある」
「無い。今、君が踏み潰したもので全てだ」
驚きは、次第に苛立ちに変わっていく。
剣の切っ先を突き付けられたまま、ヘリホルは、じっとゲレグの顔を見つめていた。
「鉱山に封印されていたものがただの古文書だとは、州知事どのもご存知では無かったのだ。黄金や貴石では無い。見つかったものは古えの叡智だったが、それも今、君自身が砂に帰した」
「ふざけるな! 小役人のくせに生意気な口を利きやがって。てめぇ、自分の立場判ってんのか? あ?」
「判ってるさ。君がその剣を一振りすれば私は難なく死ぬだろうな。それが望みなら好きにしろ」
言いながらヘリホル自身、不思議な気分だった。
ほんの少し前の自分なら、蛇に見竦められた子鼠のようにうろたえ、震えて、命乞いでもしていたかもしれない。でも今は、そうする気が無くなっていた。短期間に何度も死にかけたことで、危険に慣れてしまったのかもしれない。或いは考え込むようなことばかり連続して起きて、もう何も考えたくなくなっていたのかもしれない。
しかし、理由はそれだけではないような気がしていた。
この谷に入った時から、微かな気配を感じていた。
そうだ。信じて――知っていた。
荒ぶる砂まじりの風に乗って、赤い沙漠の獅子の足音が、すぐそこまで来ているということを。
「へえ、そうかい。そんなら望み通り、あんたの首――ぐあっ!」
剣を振りかざそうとした時、いきなり、頬傷の男がゲレグの体を乱暴に殴り倒した。同時に、空から降り降りた剣の一閃が闇を切り裂いた。殴り倒すのがほんの少し遅かったら、剣はゲレグの背を縦に薙いでいたはずだった。
背に庇うようにしてヘリホルの前に立ちながら、男は、纏っていた亜麻布をばさりと翻した。その下から沙漠の色をした髪が零れ落ちる。
「セティ!」
「悪ぃな、こいつらの仲間まくのに時間がかかっちまった」
ゲレグは足元に転がって、白目をむいている。それを見て、セティは微かに唇の端を吊り上げた。
「へえ、酷い傭兵も居たもんだなぁ。雇い主をこんな目にあわせちまって」
「邪魔者は居ないほうがよかろう? この者では、お前の相手にはならないのだから」
頬傷の男の手には、いつの間にか奇妙な剣が握られていた。刃はずんぐりとして黒く、真ん中が大きく弧を描いている。どこか遠方の国で造られたものだろう。持ち主と同じく得体のしれない、禍々しい気配を纏っている。
「その武器――やっぱあんた、よそ者か」
「よそ者、よそ者か。」男は、何故か薄っすらと笑みを浮かべた。「はみ出し者、異国人、外来者…我らはいつもそう呼ばれて来た。だが…それも、じきに終わる」
つ、と滑るように前に出る。甲高い金属音。吹きすさぶ風の中で、振り下ろされる剣を、セティが受け止めるのが見えた。何時の間にか、風は目を開けていられないほどの砂嵐になっていた。荒れ狂う風に体が押し流され、歩くこともままならない。
「ヘリホル! そこに伏せてろ、下手に動くな!」
風に切れ切れになりながらも辛うじて、セティの声が聞こえてくる。
「まさかお前たちが仲間だったとはな。役人と盗賊とは、妙な組み合わせだ。どういう関係だ?」
「うっせえな…んなこと、あんたが知る必要は無ぇよ!」
暴れ狂う嵐の中、辛うじてヘリホルに見えているのは、武器を打ち合わす二つの人影だけだった。組み合い、すぐに離れ、間合いを伺いながら交互に場所を変えていく。
だが遠目にも、圧されているのがセティのほうだということは判った。彼は確かに桁外れに強いが、相手はそれ以上なのだ。戦うことに慣れた百戦錬磨の狩人。対する獅子はまだ若く、経験も技術も浅い。
人影は、次第に崖際まで追い詰められていく。
(このままじゃ、セティが…どうすれば…)
頬に傷のある手練れの男は、常に風上のほうにいる。つまり、ヘリホルに背を向けている。ヘリホルなど、恐るるに足らない、居ないも同然の存在として認識されているのだろう。しかも今は砂嵐に阻まれて、視界も、気配も紛れている。
隙はあるのだ。あとは――。
セティは、風の中で思うように戦えず、いつしか防戦一方になっていた。
風上には常に相手がいる。つまりこちらから打ってかかるには、風に逆らわねばならず、顔にもろに砂を浴びることになる。対する目の前の男のほうは、叩きつける砂を背に、風を味方につけて楽に攻めて来られる。
相手のほうが一枚も二枚も上手なのは、打ち合ってすぐに気がついた。厄介な相手とは思っていたが、これほど力量差があるとは思ってもいなかったのだ。
手も足も出ないのは、初めての経験だった。仕留めようと思えば、すぐにでも仕留められるはず…なのに男は、どこか楽しんでいるような素振りを見せながら、いたぶるように剣を振るっている。
「くっ…」
打ち合った剣の先が震え、腕に浅く切り傷が刻まれる。滲みだす血は、風に流れて消えていく。
「どうした? 逃げないのか。あの役人が、そんなに心配か」
「そんなんじゃねぇよ。ただ、てめぇが気に入らねぇだけだ」
引き付けて距離を稼ぐつもりだったのに、ヘリホルの姿は、まだ視界の端にある。
頬傷の男は最初から、セティが囮になって時間稼ぎをしようとしとしていることくらい、お見通しだったのだろう。頼みの援軍も、谷の奥から誰も現れない。兵たちはこの風で動けないでいるか、州知事の護衛に手間取っているかだろう。
上手く誘導することも出来ないでいることに、セティは僅かに焦りを感じていた。視界の端で、ヘリホルが何かしようとしているのは気づいていた。こちらに向かってそれとなく合図しているが、意味がよく分からない。
(あいつ…何してる?)
攻撃をかわしながら後ろに跳んだ時、とん、と肩に岩が触れた。
ついに崖まで追い詰められてしまったのだ。
後ろは崖。もはや逃げ場はない。黒光りする剣が、彼の目の前すれすれまで突き出され、眼前にぴたりと寸止めされた。
「死んだな」
「…ふん、何の真似だ」
「お前はもう、逃げられない。だが、殺す前に考える時間くらいはやろう。ここで死ぬか、それとも仲間になるか、だ」
「仲間? 俺にゲレグの部下をやれってんのか」
「まさか。」
男はくっくっと小さな笑みを洩らす。
「あれにはお前ほどの器は無い。ただの目くらましにしかならん。あれらではなく、"我ら"の仲間になれ、と言っている。」
「……。」
セティは剣を突き付けられたまま、岩壁を背に、じっと男の浅黒い顔を見つめた。この男を含めた三人の傭兵たち。全員が手練れの、異国から来た傭兵たち。
「…傭兵になれ、というのか」
「当面はそうだな。だが、目的はそこではない。金と人手がいる。傭兵は、手っ取り早く集める方法の一つだ。」
「目的?」
「こちら側に来るというなら、教えてやろう。」
一歩近づいて、男は、セティに顔を近づけた。
「――お前は、こちら側の人間のはずだ。その魂に相応しい場所を与えよう。力が欲しくは無いか? 何者にも組み敷かれることのない圧倒的な力…自由に生きることの出来る場所が」
その言葉は、自信に溢れた力強い響きを持っていた。
だがセティは、微かな違和感とともに、ざらついた礫まじりの砂のような不快感を覚えた。この男が何を言おうとしているかは判らない。それでも、従うべきではないと本能が告げている。
「…俺は」
口を開きかけた、その時だ。何所からともなく、調子はずれの気合の入った掛け声が間に飛び込んできたのは。
「うおおおーー!」
視界の端から、砂を入れて重くした上着を掴んでぶんぶん回しながら、自らも回転しながら突進してくるヘリホルの姿が現れた。捨て身の突進だ。
「愚かな…」
「食らえー!って、うわっ」
当たり前だが、そんな攻撃など簡単にかわされてしまう。
呆れ顔すら作らずに、頬傷の男はヘリホルの前に足だけ出して転ばせる。誤算だったのは、空振りして無様に転がるはずだったヘリホルが、その瞬間、上着の端を手放したことだった。
結ばれていた裾がほどけて、中身の砂が男の顔めがけて散らばる。
「…ぐっ?!」
その瞬間を待っていたのだ。
不格好だろうが何だろうが、注意を向けさせさえ出来ればそれで良かった。ヘリホルのほうを振り返る時、男は風上に顔を向ける。セティからも注意が逸れる。
そこへ砂を浴びせかけ、ほんの一瞬の隙さえ作ることが出来れば――。
「セティ、今だ!」
声をかけるまでもなく、赤い髪がひらめいていた。
セティは素早く岸壁のでっぱりを蹴り、傷跡の男の頭上の死角から斬りかかる。相手も反応していたが、押し寄せる沙漠の風が、剣の刃一枚ぶん、ほんの僅かな遅れを生み出した。
攻撃を受け止めようと剣を翳した利き腕の肩のあたりに、浅い切り傷が刻まれる。
致命傷ではなく、相手の攻撃を止めるほどの深さもない。けれどそれは、セティが初めて、格上の男に負わせた傷だ。
彼はそれ以上は追撃せず、着地するなり素早く身を翻し、風上にいるヘリホルと合流する。
「無茶しやがって! フイ打ちすんのに声出してどうすんだよ」
「作戦だったんだ! 上手く行ったろ?」
「それは結果だろうが。ったく、また怪我させるかと思ったじゃねぇか」
立ち上がろうと足掻いているヘリホルの腕を掴んで引っ張り立たせると、彼は、白い歯を見せてにやりと笑った。だが、それも一瞬だけだ。
ことはまだ終わってはいないのだ。彼はすぐさま、剣を構え直し、目の前の敵と対峙した。
「ふ…」
頬傷の男は、砂つぶてを食らった片目を押さえながら笑っている。腕に負った傷から滲みだす血など、気にもならないようだった。
「二人がかりとは卑怯な、…と言いたいところだが、これもまた戦場だな」
妙に嬉しそうに呟くと、男は、二人の予想に反して武器を収め、ふいと背を向けた。
「答えを訊くは次の機会にしよう。ではまた、な」
「……?」
いつしか、砂嵐は収まりつつあった。
薄まりはじめた砂煙の中に、うっすらと、短剣の男がゲレグを担いで去って行く姿がある。弓兵も一緒だ。離れていても姿がはっきり見えているところからして、夜明けの時が近いようだった。
時間切れ、ということなのかーーそれとも。
何にせよ、今日のところは命拾いしたようだった。
砂の晴れた合間から、白んだ空の色が見え隠れしている。セティは、ようやく剣を鞘に納め、大きく息をついた。
「ふう…。何とか、生き残れたな。」
明るくなって初めて分かったことだが、彼は、腕や頬に無数の傷跡を負っていた。どれも浅いが、ほとんどが的確に急所に刻まれている。
つまりあの男には、それだけの回数、勝利する機会があったということ。手加減に手加減を重ねられた結果が、今夜の闘いだったのだ。
完敗だった。
それが判っているから、セティは硬い表情のままだった。そしてヘリホルも、恐るべき相手から二度も生き延びた奇跡に、まだぼんやりしたままだった。
どちらからともなく、二人は並んで鉱山跡に向かって歩き出した。
夜通し砂嵐の中に立っていたせいで体中、砂まみれになっている。服も、髪も、叩けば黄色い砂ぼこりが舞い上がる。セティの見事な赤毛も、今日は朝の光の中でくすんで見えた。
「そういえば、さっき、あいつが言ってた『答え』って?」
「ん、仲間になれとか言われたんだよ。誰があんなのと一緒に行くかっつーの。それよりお前、よくあの咄嗟に目つぶしなんて思いついたな」
「私に出来ることといえば、頭を使うことくらいだからね。」
笑って、ヘリホルは肩を竦めた。「多分、次はそう上手くはいかないだろう。次は無いことを祈ってるが」
「あー…その、何だ。」ぼそぼそと、セティは言った。「また、助けられちまったな」
「うん? 助けられたのは私のほうだろう?」
「いや、今回こっちが…待てよ、あんたが居なきゃとっくに逃げてたわけだしな、…うーん…」
「まあ、二人で協力したから二人とも助かったってことにしようか。貸し借りは無しだ。」
「そうだな。」
砂煙の薄れた合間から日が昇る。
足元にすうっと長い影が延びるのに気づいて、セティは手をかざしながら振り返った。太陽の光が谷間に一筋、まるで回廊を進むように差し込んでいく。
「夜明けだな。」
同じように顔を上げたヘリホルは、その時、はっとした。
「…見てセティ、あれを」
彼は、崖の上のほうを指さしていた。ちょうど、彼ら二人がたったいま通り抜けてきた、谷間の一番狭くなっている場所の上の方だ。
そこには、門の柱のように向かい合って立つ、直立した岩がある。岩の形はまるで、祈りの格好に両手を掲げ、東の地平から昇る太陽に拝礼しているかのように見えた。
「『太陽を崇めし しもべたち』だ…」
「なるほど。この岩のことだったのか」
それは風と砂が長年かけて作り上げた、自然の像だ。毎朝、太陽の光を受けたその時だけ、何の変哲もない岸壁は、生ける像となって父なる太陽に目覚めの挨拶をするのだった。
日が昇り、深い陰影が消えていくのとともに、像たちは命を失い、また元のただの岩に戻っていった。
「最後の謎も解けた。ただ、秘宝のほうは、欠片も残さずに消えてしまったな…。」
溜息とともに、ヘリホルは呟いた。
「で? 何が書いてあったんだ、その秘宝とやらは」
「さあ。古文書みたいなもので、私にはよく分からないことばかりだったよ」
小さく首を振って、ヘリホルは、赤い沙漠のほうに目をやった。
あれは、この世にあってはいけないものだったのかもしれない。だから多分…、これで良かったのだろう。
セティとは、『ロバの留まり場』と呼ばれていた広場の手前で別れた。
特別な別れの言葉は無く、再会の約束も何も無いあっさりとしたものだったが、それで十分だとヘリホルは思っていた。いずれ時が来ればまた逢える、という確信にも似た予感があった。
ウェンアメンは、砂まみれになって戻って来たヘリホルを見て驚いた顔をしながらも、彼が生きていたことに心底ほっとしているようだった。
「どこにも姿が見えないから、もう駄目かと思っていたぞ。酷い格好だが、夜通し逃げ回っていたのか?」
「ええ、砂嵐で道を見失って…。日が昇ったので、ようやく戻って来られたのです」
いつもの如く、半分だけ正直な答えだったが、ウェンアメンは、その説明で満足したようだった。細かい話など気にしてはいないのだ。重要なことは、何人が生き残り、何人が命を落としたのか、だ。
州知事は蒼白な顔のまま、子羊のように震えながら天幕の奥に座っていた。どこにも傷は負っていない。兵士たちの姿は減っており、傷を負って手当を受けている者や、顔に布をかけられたまま動かない者もいる。どんな方法であれ、生き残れたのなら、その者は幸運だったのだ。
「砂嵐が激しくなる前に、やられたのだ」
ヘリホルの視線に気づいて、苦々しい顔でウェンアメンはそう言った。
「嵐が来ると戦いは中断された。恐ろしい夜だった…風が吹き荒れ始めてからは、皆をここへ呼び集め、州知事どのの天幕を守るので精一杯だった。奪われた物資もあるが、それは仕方がない。奴らには必ず報いを受けさせてやる」
苦々しい表情で、彼は噛みしめるようにそう言った。
いずれ彼は部下たちの復讐と、州知事の権威を守るための軍を率いて、またここへ戻って来るのだろう。あの道化のハイエナは、これから復讐者の怒りと対峙せねばならないのだ。
掘り出された鉱山は砂嵐によって、一夜のうちに元の通り、砂の下に隠れてしまっていた。
まるで、地の底に封じられていたものをむやみに掘り返した人間たちに対する、沙漠の主からの警告のようでもあった。パネヘシは盗賊どもの襲撃よりもそのことに酷く恐れを為し、一刻も早く赤い土地を出なければ、と兵たちを急かした。
お陰で帰路は来た時よりも早く、兵や荷運びたちの早く帰りたい気持ちとも相まって、それから十日も経たないうちにヘリホルたちは、緑なす川べりの街へと帰り着いていた。
長い遠征の旅は終わった。
そして、ヘリホルの「ティスの街の役人」としての最後の務めの日々も、終わったのだった。
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