第二章 天啓(6)

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第二章 天啓(6)

 街に戻って何日も経たないうちに、ヘリホルは上司に退職願を出しに行った。  その頃にはもう、州知事の気まぐれで行われた遠征の顛末は街中に知れ渡っていたから、両親も、上司も、彼の決断には何も言わなかった。役人を止めて街を出る――そうまで言い出すからには、遠征で死ぬ思いをさせられたのが余程辛かったのだろうと、むしろ気を遣ってくれたくらいだ。  本当のところ、ヘリホルは死ぬ目に遭ったことなど何とも思っておらず、辞めると決めたのも遠征より前のことだったのだが。  退職願を提出した帰り、彼は、黒犬神の神殿を訪れていた。  沙漠に行っている間に川の増水する季節は過ぎ、水は、神殿の周囲から引いていた。農民たちは、次の種撒きのために牛に鋤を引かせ、畑にうねを作っている。川べりには新緑がそよぎ、花の間を蝶が舞っている。長閑なものだ。それに、今日は参拝者も少ない。短い農閑期が終わり、近隣の農民たちもそう足しげくは、神殿にお祈りに来られないのだろう。  祈りの間にジェフティメスを探しにゆくつもりだったのだが、今日は、老人は清めの池のほとりに立っていた。ヘリホルがやって来るのを見ると、顔を上げて皺だらけの顔に笑みを浮かべる。  「そろそろ、来る頃かと思っておった」 そう言って、近付いてきた教え子の肩をそっと片手で抱いた。  「危険な旅から、よくぞ戻った」  「…先生。」 ジェフティメスは、小さく頷いた。死者の魂を冥界へと送り届けるのは、冥界の審判を受け持つ黒犬神、この神殿の主の仕事なのだ。遠征で命を落とした兵たちの遺体もここへ運び込まれ、今ごろは、どこかで「崇高なる者(サフ)」へと変わるための七十日の秘儀を受けている頃だろう。  「行くのだな?」  「はい」 ヘリホルは頷いた。何所へ、とは、聞かずとも判っている。「そのご挨拶と――それともう一つ、伺いたいことがあったのです」  「というと?」  「州知事どのが探していた、失われた鉱山に埋められていた『秘宝』です。実際には、それは謎めいた古文書のようなものでした。小箱に入っていて」 ジェフィメスの目に、僅かに驚きの色が浮かんだ。  「中身を、見たのか」  「? はい」  「それで、お前は無事だったのか? 内容は読んだのか」 老人の奇妙なうろたえぶりには、ヘリホルも戸惑っていた。  「朽ちていて、読める部分はほとんどありませんでした。何かの詩のようなものや、呪文か何か…。冒頭には、知恵の神の名が記されていました。あれは、一体何だったのですか? 州知事どのは、かつて王だけが所有することを許されたものだ、などと言っておられましたが。」  「ああ、その通りだ。本物であれば、の話だが。」 深いため息とともに、ジェフティメスは杖に両手をかけて寄りかかった。  「知恵の神の呪文書。正しく読み解いた者には、神々の力の一部が与えられたという。かつて王たちが所有した秘儀の一部だ――。だが長年のうちに読み解くことの出来る者も、その資格をもつ者も失われ、いたずらに手にした者が命を落とすばかりの危険なしろものになっていた」  「……。」 ヘリホルは、知らず知らずのうちに厳しい表情になっていた。  「だから…あそこに封印されたのですか。」  「そうだ。かつてその呪文書は、文字の一つ、巻物のひとかけらでさえも力を持つと言われた。ああ、先代の神官長は口を滑らせすぎたのだ。今の州知事どのがまだ幼かった頃、友人であるその父君と同席している時に、子供を喜ばせるためにお伽噺として遠い昔の王たちの財宝として語ったのだ。」  「なるほど。それで、勘違いしたままだったんですね…」  「それで? その書は、今どこに」  「ご安心ください、巻物を掘り出したその夜にひどい砂嵐がやってきて、巻物の破片はことごとく風に攫われてしまいました。あれがどんなものであれ、永遠に、沙漠の中に失われましたよ。」  「…そうか。」 老人は、心底ほっとしたような顔をした。  「ならば良い。それならば」  「……。」 ヘリホルは、呪文書が放っていた光や熱のことは言わなかった。意味は理解出来なかったが、冒頭部分を何度も読み返してみたことも。  自分が無事に生きて帰れたことは確かなのだし、巻物の破片が全て失われたことも事実である以上、むやみに老人を心配させる必要はないのだ。  老人のもとを辞したあとは、姉の家に向かう。  既に嫁いでいる、年の離れた姉のスィアトの家は、神殿に近い街の中心部にある。久しぶりに訪ねた小さな二階建ての家には、記憶のままにそこにあった。白い壁は最近塗りなおされたように明るく輝き、窓辺には花が飾られている。  玄関をくぐると、すぐに幼い少女が元気よく駆けだしてくる。  「いらっしゃいませ! …あ、おじちゃんだ!」  「こんにちは、ノジュメト。お母さんはいる?」  「うんいるよ、おかーさあん!」  「はい、はい。」 奥から、家の女主人が姿を現した。結婚してからふっくらと肉付きよくなり、すっかり母とそっくりになった姉が、屈託ない笑顔を向けてくる。  「いらっしゃい、ヘリホル。話は母さんや夫から聞いているわ。色々たいへんだったみたいねえ」  「まあね。さっき退職願を出してきたんだ。別の街で働くつもりなんだ。それで、挨拶に来たんだよ。」  「あらそう。でも、あんたなら何所へ行ったって上手くやっていけるわよ。真面目でよく働くし。そこに座ってて。急ぎじゃないんでしょ? ちょうど今、パンを焼こうとしていてね」  「あ、うん――ええと、義兄さんは? 今日はまだ仕事?」  「ケリ? 非番だから上で寝てるわよ。ノジュメト、呼んできてくれる?」  「はあーい」 少女が二階へ続く階段を駆け上っていく。  ほっとして、ヘリホルは姉の出してくれた、まだ新しい、泡の立っているビールを一口、喉に流し込んだ。今年収穫したばかりの麦から作った酒だ。母の作るものと同じ味がする。  ほどなくして二階から、寝ぼけ眼の男が頭をかき回しながら降りて来た。細身で、引き締まった身体をしている。年の離れた姉よりもさらに年上で、髪には白いものが何本か混じっている。  「お久しぶりです、義兄さん」  「やあ、ヘリホル。元気そうで何よりだ。遠征の話は、同僚から聞いた…」ひとつあくびをして、男は、床に敷かれた茣蓙(ござ)の向かいに腰を下ろす。  「スィアト、ぼくにも一杯おくれ。眠気覚ましだ」  「はい、どうぞ」  「あの、義兄さん。…ウェンアメン隊長がどうなったのか、その後の話を聞いていませんか」 褐色の濁った液体を入れた器にケリが口をつける前に、ヘリホルはそう切り出した。  聞きたいことは幾つかあった。  一つは、あれからのウェンアメンのこと。街に戻って来てから一度も姿を見かけていない。遠征の帰り道、彼はほとんどパネヘシと話していなかった。パネヘシのほうも、どこかウェンアメンを避けているように見えた。緊急事態だったとはいえ州知事にひどい口の利き方をしたことが咎められたのかではないかと、ずっと気にかけていたのだった。  「ああ、あの人は今、盗賊の討伐隊をどう組むか、次の遠征の準備で大忙しだよ」  「次の? もう?」  「そりゃ、盗賊風情にあんだけ仲間がやられちまって、おまけに州知事どのに公然と歯向かってきたとあれば、近隣の州に馬鹿にされないためにも早急に手は打たなきゃあな。若い連中は、誰が選ばれるかと戦々恐々としてる」 器を傾けながら、ケリは、世間話をするようにのんびりとした口調で言う。  「ま、何か動くにしても、今回の遠征で殉職した仲間の喪が明けてからだろうけどね。」  「良かった…、てっきり何か罰でも受けるのかと」  「罰? まさか。あの人は優秀だし、州知事どのの身内だよ。血縁者だ」  「えっ、そうなんですか? 全然似てない…けど」  「それは言える」 笑って、ケリは器を傍らに置いた。  「あの人は、前の州知事どのの妾腹なんだよ。今の州知事どのからすれば腹違いの弟。優秀なのは弟のほうで、兄はあの…まあ、見たまんまのね。周囲は誰もが、逆の腹なら良かったのにと陰で噂している。だから州知事どのは意地でも彼を手放したがらない。自分が上にいる限りは、昇進し過ぎない微妙な地位にとどめておけるからな。」  「そんな…」  「あの人も、欲のない根っからの軍人だからね。判っててそれでいいと思っているんだろうさ。よそ様の家庭事情なんてもんは、よく判らんもんだよ。ところでヘリホル、沙漠の旅はどうだったかい? ぼくはオアシス(ウェハト)へは一度も行ったことが無くてね。巡回に出たことがある若い連中の話では…」 話は逸れて行き、あとは、久しぶりに顔を合わせた親族の、何気ない世間話へと移り変わっていった。  幼い一人娘を膝に乗せ、義兄は幸せそうだった。夫の側に寄りそう姉も。  どこにでも居るありふれた家族の、日常の風景。  暮れては昇る、明るい太陽の日差しと、涼しい風と、そよぐ緑と、尽きることのない川の流れ。  神々に守護された安全で平和な「黒い土地(ケメト)」は、今日も明日もきっと変わらない。けれどその外側にあるもう一つの世界を、太陽の光でさえも味方ではない厳しい大地を、ヘリホルはもう、知っている。  この世界は、今、目の前にあるものだけではないということも。  ヘリホルが生まれ育った街を後にしたのは、それから数日後のことだった。  それは増水期(アヘト)の終わり、大地の目覚めと冥界神の復活を祝う祭りの行なわれる月の、ある日のことだった。
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