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第三章 邂逅(1)
夜が過ぎてゆく間に、沙漠の風は昼間の熱をすべて奪い去る。夜明け前には岩の隙間から吹き込む朝の空気がひんやりと肩を撫で、浅い眠りは終わりを告げる。それとともに、見ていた夢の光景も、溶けるようにして目の前から消えていく。
セティは起き上がって片手を額にやると、乱れた赤い髪を指で撫でつけた。
(また、あの夢か…)
手を広げ、その手で指で両目を押すようにして顔に押し当てながら、セティは粗末な寝台の上で小さく溜め息をついた。辺りはまだ薄暗く、すぐ隣の部屋からはカーの規則正しい寝息が聞こえてくる。
夜明け前の、冷たい風が吹き込んでくる。寝なおすことも出来ず、男は忍び足に起き上がると、岩のてっぺんに昇るはしごに足をかけた。
眼下に転がる沙漠は静まり返り、夜と昼のはざまにある紺碧の大気の底に深く沈んでいる。腰に手をやって、彼は彼自身の住む広大な世界をぐるりと見渡した。
――ここのところ、繰り返し見る夢がある。
何年も思い出すことさえ無かった、父が生きていた頃の夢だ。
重罪人の印を刻まれた身では、オアシスであってもまっとうな職につくことは出来ず、偶然拾われた盗賊団に養ってもらっていた。
博識で、読み書きや計算も出来たその男は、人質に取った金持ちの身内への脅迫文を書き、捕らえた使者の持っていた暗号書簡を読み解き、会計簿を書き換え、あらゆる面で盗賊団の中では重宝されていた。
けれど彼は、息子であるセティに積極的に読み書きを教えようとはしなかった。「沙漠では、それよりも体を鍛えたほうが良い。」そう言って、剣や格闘や投げ縄など、年頃の少年が好みそうなことをやりたがるセティを、笑ってただ見守っていた。
かつての自分の身の上を、多くは語ってくれなかった。
削がれた鼻と耳を隠すように顔半分を覆う布をかけ、いつも、印象的な深い茶色い瞳だけを外に見せていた。
殺伐とした集団の中にあってもその眼差しは常に穏やかで、どんな時にも腹をたてず、慌てず、物静かに喋る賢人のような男だった。そして、この荒涼とした赤い大地に生きてゆくには、あまりにも優しすぎた。
欲を出した盗賊団がそのせいで壊滅した日も、ろくに繋がりもなかった「仲間」を助けるために一人引き返し、残党狩りの最中だった州軍兵に見つかって、有無を言わさず槍で突かれたのだった。セティが見つけた時にはもう、取り返しのつかない傷を負っていた。
「すまないな。お前がもう少し大きくなるまでは、と…思っていたんだが」
赤い海の中に横たわったまま、男は、呆然と立ち尽くすセティにいつもと同じ穏やかな微笑みを向けていた。
「お前は、セトの日に生まれたんだ。だからセティという名を与えた。…沙漠の王の名だ。王は誰の命令も受けない。心のままに…自由に生きなさい…。」
「何で、今になってそんなこと」
返事は無かった。
白い瞼が力を失い、瞳が光を失っていく。思わず血の中に膝をついて、セティは父の胸倉を掴んで引き起こした。
「何で今言うんだよ。それだけか?! それで遺言のつもりか! 親父! おい! 目を空けろ」
揺さぶられながら、力無く頭が前後に揺れる。体温が急速に失われていくのが分かった。
「――父さん…」
あの時は決して泣くまいと、必死で唇を噛んでこらえていた。
沙漠では、力無き者から死んでいく。この赤い土地に生きる者ならば、自分の身は、自分で守らねばならなかった。無抵抗のままやられて死ぬのは、負け犬の死にざまなのだ。
恥ずべき死を迎えた父のために流す涙など、――無い。
無言に岩の上に立つセティの足元から、太陽が昇ってゆく。
震える腕で冷たい躰を抱いた記憶も、遠い灰色の過去も、赤い輝きが消し去っていく。
けれど、どれほど太陽の熱に灼かれようと、あの日の屈辱とやるせない思いは、決して消えることはない。
(親父は、最後の一瞬まで足掻いてから死ぬべきだったんだ。)
はっきりと聞いたわけではないが、問われた罪は冤罪だったのではないかと、彼はうっすら疑っていた。
そう思えるほど父は優しすぎ、冒した罪について言葉を濁す時は、どこか寂し気な笑みさえ浮かべていた。
だとしたら、どうして異議の申し立てをしなかったのか。もし本当にどこかの高官だったのなら、亡命して近隣の国へ行くか、別の王の勢力圏に逃げればよかったのだ。それなのに何故、甘んじて刑を受けたのか。
あんな穏やかな笑みを浮かべて満足げに死ねるほど、人生に満足していたとは思えなかった。
なのに何故――。
(何が自由に生きろ、だ。自分は出来なかったくせに)
思い出すたびに苛立ちを覚えるのだ。それは、あの時の父の心境がいまだ理解できない自分に対する苛立ちでもある。街に住んでいるわけでもない今の暮らしは、確かに何者にも縛られず、どんな法にも従わない自由気ままなものだ。けれどこれは、父の言おうとしていたものとは違う気がする。
あの時、何を言おうとしていたのか、何を願っていたのか。
それにどうして、今になって、あの言葉が繰り返し、繰り返し、脳裏に蘇ってくるのだろう?
* * * *
鷹神の街を訪れるのは、十年ぶりくらいのことだろうか。
その街は主要な交通路である大河のほとりにあったが、新興の大都市が北の川下に集まっている今となっては辺境と言うべき片田舎に位置している。
黒犬神の街から大河の流れを北へ遡り、船着き場に降りた時、ヘリホルは奇妙な懐かしさに襲われた。幼い頃ここへ来た時の風景など、ほとんど覚えていないはずなのに、何度も来たことがあるような気さえした。
背負っているのは、小さな荷物ひとつだけ。それに、母と姉が着せてくれたよそ行きの服に、弁当の包みを腰に下げている。長旅に備えた旅人たちに比べれば、ほとんど着の身着のままといってもいい格好だった。
(もし、…雇って貰えなかったらどうしよう)
街の大通りの奥に見えている神殿に向かって歩きながら、ヘリホルは、微かな不安を覚えていた。
この神殿には、ジェフティメスのように口利きをしてくれる知り合いはいないのだ。古くからある権威ある神殿が、飛び込みの求職者など受け入れてくれるものだろうか。
川べりから随分奥まで歩いて、街はずれの水路にかかる橋を渡る頃、ようやく神殿の入り口が見えて来た。
威厳ある太い柱を持つ本殿が中庭の奥の方に見えている――が、妙だ。
ここは正面入り口のはずなのに妙に寂れて、参道にも薄く砂が積もっている。参拝者の姿もまばらだし、中庭を取り囲む壁は、所々石が落ちたままになっている。
おまけに、神官の姿がどこにも無い。以前の大祭で見た賑やかな神殿の印象とは、何もかもが違っている。
首をかしげながらも、彼は参道の突き当り、本殿の入り口へと辿り着いた。
けれど、そこにも誰もいない。黒犬神の神殿なら、中庭の奥にはいつも、よく目立つ真っ白な袈裟をかけた剃髪の神官が立っていて、参拝者から供物を受け取ったり、清めの池の場所を指し示している場所だ。
一抹の不安を覚えながらも、ヘリホルは、一歩奥へと踏み込んだ。
「…失礼します」
荷物を肩から外しながら、神殿の奥に声をかける。
清めの池が見つからなかったから、足も洗っていない。せめてもとサンダルを脱いで手にぶら下げているが、足の裏にはざらざらとした、砂の感触がある。もう長いこと、掃除されていないようだ。
(神殿が無人? そんなことはがあるわけは――。)
不思議そうに薄暗い入り口を見回していた時、奥のほうから油壺を手にした老人がひょっこりと顔を出した。ちょろちょろと不格好に髪が生えてはいるが、剃髪しているようだ――おそらくは、この神殿の神官だ。
「あの、」
声をかけようとする前に、老人がカッと目を見開いた。
「お、おお?! ようやく、よーーうやく来たかお前さん!」
「はい?」
「おーい皆! 若いのが来おったぞー!」
言いながら、跳ねるような独特の歩調で駆け付けると、ヘリホルの腕をがっしと掴む。にかっと笑った時、歯並びの乱れた茶色い歯茎と、すり減った不健康な歯とが不気味に覗いた。
「待っとったぞぉ。ささ、こっちへ」
「え、ええと…私は…。」
「なんだい、なんだい。もう来たのかい。まだ部屋の掃除が終わっちゃいないよ」
奥からぞろぞろと、人が集まって来る。この神殿で働く人々のようだ。
「あら、いい男。思ってたより知的な感じだねぇ」
「よしなよネフゥト、あんた幾つだい。色目つかう歳かい?」
でっぷりとした、肉付きのよい老婦人が二人。双子だろうか、顔形はそっくりで、着ているものさえほとんど同じだ。一人は手にパン生地を延ばす棒を持ち、もう一人はハタキを手にしている。
「これでようやっと、人手が増えるのぅ」
ほとんど歯の無い口で頼りなく喋っている老人の首からは、インク壷と筆記用具が提げられている。
「神官長はどうした?」
「祈祷の時間じゃないかな。そのうち来るだろ」
この集団の中では比較的若いぼさぼさの頭をした男は、外仕事をしているのか日に焼けて浅黒い。手にはなぜか大きなコテを握っている。
「お前さんたち、若いのが吃驚して固まっとるじゃないか。皆いっぺんに話すもんじゃなあないよ、まったく」
呆れたようにたしなめながら、最初に話しかけてきた老人が一歩、前に進み出た。そして、ヘリホルを見あげて笑みを見せた。
「よう来たな、お前さんだろ? 鷹神様の予見された”捧げもの”の子供、っちゅうのは。そろそろ戻って来る頃だろうて、神官長にお告げがあったそうでな。わしら皆で歓迎の準備をしようとしとったんだがのー、まあ、年寄とボンクラばっかりで間に合わんかったわ」
「ボンクラは姉さんだけだけどね」
でっぷりとした双子姉妹の、ハタキを手にしたほうが呟き、すかさずもう一人が睨みつける。
「で? あんた、名前は」
ぼさぼさ頭が興味津々に尋ねる。
「あ、はい。ヘリホル――です。ティスの街では、役人を…税収と、会計帳簿の管理などしていました」
「ほう! 会計係か。そいつぁ助かるわい。わしの老眼じゃ、何もかもがキツいんじゃ」
インク壺と筆記具を下げた老人が、ほっとしたように声を上げる。
「ここで働かせてもらえる、ということですよね?」
「勿論だとも。ああ、勿論。詳しい話は、あとで神官長が――それまでは、何だ。ほら、先に職場を見ておいてもらったほうが良くないかね?」
「そうだな。こっちの準備もまだ出来てないし」
「鴨の炙り焼きには時間がかかるよ。まだ羽根をむしって串に刺したばっかりなんだから」
「なら、わしが案内しとこう」
インク壺の老人が言い、残りの者たちは三々五々、足を引きずり、杖をつき、ハタキを振り回しながら、元来たそれぞれの仕事場へと戻っていく。
「では、行こうかの」
インク壺の老人がそう言って、欠けた歯を見せて笑った
「わしの名はイビィ、筆写係じゃよ。この神殿でもう、かれこれ五十年は働いておる。よろしくな」
どうやらここでの暮らしは、思っていたものとはずいぶん違うものになりそうだった。
案内されたのは、本殿の隅にある小部屋だった。高い場所に明り取りの窓があり、部屋の壁に差し込んだ昼の光が反射している。
その光の中に、うっすらとほこりを被った蜘蛛の巣が縦横無尽に張り巡らされ、まるで、ごく薄い亜麻布を天井から吊るしたようになっている。
「さぁ、ここがお前さんの仕事場じゃよ」
言いながら老人は、片手で蜘蛛の巣を払いのける。
「その、…ちぃーとばかり掃除が行き届いては、おらんがな。」
「少しには…見えないのですが…。」
どう見ても、ここ十年は誰も手を入れていない。
「んんー、そうかね? 一年か二年だと思っとったが…。この年になると一年が過ぎるのも早くてのー。」
それ以上、指摘をする気も失せてしまう。
砂ぼこりの積もった卓の上には、からからに乾いたインクを載せたインク皿が、同じくからからに乾いてほこりに埋もれた葦ペンと一緒に置き去りにされている。
部屋をぐるりと戸に囲む棚には出納長やその他の書類らしき巻物が並んでいるが、どれも朽ちかけているし、乱雑に詰め込まれたまま整理もされていない様子だった。巻くことさえされずに、棚から垂れたままになっているものさえある。
ヘリホルは、少し前までの職場だった州庁の整然とした書庫を思い出して、あまりの落差に眩暈がしそうになった。
「ここしばらく会計係がおらんかったのじゃよ」
言い訳でもするように、イビィは言った。
「わしの担当は儀式や朗誦用の巻物の筆写で、こっちまでは手が回らんでの。で、しばらくこの部屋は使われておらんかったんじゃ。あー、ネフゥトの奴の手が空けば、呼んで来て掃除させることも出来るんじゃが…」
ネフゥト、というのは多分、さきほど見かけた双子姉妹のうちの片方だったはずだ。
「自分でやった方が早そうですね。掃除の道具は借りられますか?」
老人に場所を聞いて、ヘリホルは、ほうきや雑巾を取りにいった。神殿の間取りはどこもだいたい同じだから、そう難しくはない。
歩き回っているうちに、神殿の今の状況が少しずつ、見えて来た。
かつて父が見惚れていた見事な回廊や像も、至聖所の前に広がる庭園も、朧げな記憶のままにそこにあったが、どこもかしこも砂を被り、色褪せて、もはやかつてのような輝きは放っていなかった。
かつて見た光景、あれは幻だったのか。それとも、このわずか十年の間に、神殿が急速に衰退してしまったのだろうか。
箒とハタキ、それに布巾と壷を借りて、床の掃除から始めた。
水場は、神殿の裏手のほうにあった。――井戸の横が清めの池になっていた。
この神殿では、裏口のほうに清めの池があるのだ。水はたっぷりと湧き出していたから、いくら掃除に使っても誰にも文句は言われず、汲み上げて運ぶだけが苦労だった。
(水汲みなんて、セティの隠れ家に泊まった時いらいだな…。)
前後に二つの水壷を提げた肩かけ天秤の棒を担ぎながら、ヘリホルはふと、大きすぎる水壺を持ち上げられなかった日のことを思い出して苦笑した。あれで練習になった、とは言えないが、少なくとも、水汲みの仕事に抵抗は無くなった気がする。
蜘蛛の巣を払い、卓を拭き、葦ペンとインク壺は自宅から持って来たものに取り換える。
ぼろぼろになった茣蓙を片づけていると、ちょうど、双子の片割れネフゥトが、肉付きのよい体をゆっさゆっさと左右に揺らしながら姿を現した。
「あらぁ、もうほとんど片づけちゃったの? 随分と早いねぇ。」
「床に敷く敷物は何か無いですか? 仕事をするのに、これだと少し具合が悪そうなので」
「何かないか探しとくわよ。他に必要なものは?」
「そうですね、――後で出てくると思いますが、今のところは」
言いながら、ヘリホルはちらりと、まだ全く手を付けていない書架の方に視線をやった。乱雑に巻物が積み上げられた棚は、きちんと整理するのに何日もかかりそうだった。
「そうそう、あんたの寝床、宿舎に用意しておいたからねぇ。宿舎は、台所を突っ切った先にあるよ。井戸を突っ切った先だから。良ーい寝床、用意しといたよぉ。うふっ」
そう言って意味深に目くばせすると、若い頃は魅力的だったのだろう、肉付きのよい体を振りながら、ネフゥトは去って行ってしまった。
次にやって来たのは、さっきコテを手にしていたぼさぼさ頭の中年男だ。
「壁や床に、壊れているところは無いかい?」
言いながら、部屋の中に入ってきて、ヘリホルが掃除したばかりの天井や壁を見回している。
「うん、壁のほうは大丈夫そうだが…、問題はそこの棚か」
男は、壁に取り付けられた木棚の落ちていることろに近付いて、割れ目を調べている。
「あなたは神官ではないんですよね」
「ああ、ここのすぐ裏に住んでるんだよ。神殿が年寄ばっかりになっちまって心配なんで、たまに壁の塗り直しやら、壊れた壁の石の罪直しやら、力仕事を手伝ってる。去年、庭師のじいさんが死んじまって、庭木の剪定なんかもやってみてはいるんだが…。上手くはいかんもんだよなぁ」
それで、庭が妙に荒れたように見えていたのだ。
「そうだ、名乗り忘れてたな。おれはネシコンスだ。よろしくな」
大きながっしりとした手で自分の胸を叩いて見せると、男は、いかにも農民らしい朴訥とした笑顔を浮かべてみせた。
「この神殿、どうしてこんなに寂れてしまったんでしょうか」
「色々さ。一番は、王様からの寄進が無くなっちまったことだろうな。ほれ、ここんとこさ、王様が色々変わったりしてるだろうが。」
ネシコンスは、辺りを見回してから用心深く付け加えた。
「そのへんは、あとで神官長にでも聞いたほうがいいぜ。大きな声じゃ言ぇねぇ話もあるらしいからな。」
「……。」
「棚は、あとで直しに来る。たぶん古い机を解体した木の板が使いまわせるはずさ。じゃあな」
ぼさぼさ頭の男が去って行き、ヘリホルは、棚から零れ落ちそうになっている書類のほうに目をやった。
神殿の収入は、よほどの大御所でない限りは神殿直轄の所領から上がって来るものより、有力者からの寄進の割合が大きい。特にこの鷹神の街の守護神は、歴代の王たちの守護神でもあった。
その正当なる王の系統も途絶え、同時に何人もの「王」を名乗る存在が立つ今のご時勢では、敢えて鷹神の加護を願ったりしないのかもしれない。
(出納帳が残っていれば、神殿の財政状態くらいは判るだろうな)
なるべく古そうな巻物をひとつ取り上げて、乾燥して固くなった継ぎ目を壊さないようにそっと開いてみる。記された日付には、ウアセトの都の王の名と、即位からの数え年が添えられている。ヘリホルが役人時代に同じような文書を管理していたのでなかったら、それが何年前のことかすぐには判らなかっただろう。
(…二十年前か。これは)
指折り数えて確かめてから、彼は内容を確かめた。
その時代、神殿の財政はまだ潤っていたようだった。寄進物の中には王族や貴族、他の街の神殿からのものもあり、毎年の大祭には、ぶどう酒に上等の蜂蜜に肉、野菜、花、豪勢な寄進物が贈られている。
けれど、記録があるのはそこから数年分だけで、あとがすっぽりと抜け落ちている。そして記録は大きく飛んで、十年ほど前、ヘリホルがこの神殿を訪れた直後あたりの記録では、大口の寄進はほとんど無くなってしまっていた。
どうやら鷹神の神殿は、記録の途切れた空白の期間に、有力な支援者たちのほとんどを失ってしまったらしかった。
(うーん…、この頃なにがあったっけな…。政変? 王が亡くなった? 思い出せないな…。)
床の上にあぐらをかき、巻物を広げて考え込んでいるところへ、二人の神官がやって来た。一人は最初に出会った老人で、もう一人は、初めて見る顔だ。
二人とも同じくらいの年齢に見えるが、初めて見るほうの人はぴんと背を伸ばし、袈裟をしっかりと肩にかけて、剃髪した頭には一本の剃り残しもない。一目で高位神官と判る出で立ちだ。
「うちの神官長だよ」
陽気な老人は、うひゃひゃと笑って一歩、後ろへ下がった。
「神官長、これが、あん時の小坊主でさぁ」
「”あん時”?」
思わず問い返したヘリホルは、はっとして慌てて二人を見比べた。
「もしかして――ここで迷子になった後、私を入り口まで連れ戻してくれた方々ですか?」
「そうだ。このセネブにも、わしにも一目であの時の子供だとわかったぞ。お前はまだ、幼かったから覚えていないのだろう。」
重厚な、どこか浮世離れした響きを持つ声は、いかにも由緒ある神殿の神官長に相応しい。神官長は、軽く頭を下げる。
「わしはハルシエスだ。鷹神のお導きにより、再び出会えたことを嬉しく思う。よろしく頼む」
「は、はい」
慌てて、ヘリホルも頭を下げて応じる。ハルシエスは、部屋の入り口に立っていたセネブのほうに先に行っているよう手で合図をし、自らはその部屋に留まった。挨拶だけでなく、ヘリホルと話しをしたいようだった。
「さて、お前は自らの足でここへ戻り、今日からこの神殿で鷹神にお仕えすることになった。何か、知りたいことはあるか? と言いたいところだが…どうやら、既に自分の仕事を初めているようだな。」
ヘリホルが棚から取り出して床に並べている書類や巻物の束を見やって、ハルシエスは微かな笑みを浮かべた。
「あまりに乱雑で、とても我慢が出来なくて…。少し前まで役人をしていたんですよ。あそこでは、出納帳がひとつでも欠けていたり、一か所でも書き損じがあったりしたら、ひどく叱られたものです。この神殿には、本当に今まで会計係はいなかったんですか」
「十七、八年前までは居た。優秀な男だったが、諸事情があって辞めてしまったのだ。」
そう言って、神官長は何故か一つ、間を置いた。
「――ほとんど一人に任せきりだったせいで他に誰も引き継げる者もおらず、それきりになってしまっていた。」
「では、神殿の出納は、どうやって管理を?」
「街での買い出しや職人たちへの支払いは、ラネブがしていたはずだ。あまり厳密な管理はされていなかっただろうな」
「……。」
ヘリホルは、しばし考えこんでしまった。その表情を見て、ハルシエスも苦笑する。
「お前の言いたいことはよくわかる。しかし、それだからこそ、まさにお前が必要とされたのだ。お前は、神官となるべくして招かれたわけではない。神官の家に生まれ育ち、神殿の中の聖なる世界しか知らぬわしには出来ぬことを為すためだ。ここでは自由にして構わない。わしは、朝夕の日課の時以外は自室か祈りの間に居ることが多い。必要があればいつでも来るがよい。」
老神官は、そう言って優雅に上着の袖口を翻し、ヘリホルを部屋の外へといざなった。
「そろそろ歓迎の席の準備が整う頃だ。共に参られよ」
台所の脇にある食堂には、料理人のアセトが腕を振るった美味しそうな料理が並べられ、さきほど見かけた人々が全て集まっていた。卓の真ん中には腹に香草を詰め込まれた鴨の丸焼きが湯気を立てており、焼いたばかりのパンとナツメヤシ、それに干した杏や、豆の煮込みが並んでいる。
「今日のために奮発したんだよ。さ、たーんと召し上がれ!」
「わしゃあ、鴨よりウズラのほうが良かったんじゃがの…」
イビィは不満げに呟きながら、パンに手を延ばす。
「文句言うなら食うんじゃないよ、おまえさん。折角作ってやったのに!」
「まあまあ。じいさんの好き嫌いは今に始まったことじゃないし」
「さあ座って、ビールを注いで回るから! 神官長、挨拶は抜きで良いよね? 動き回ってみんなもう、はらぺこなんだ」
「構わんよ、始めよう。さあヘリホル、そこに座って」
「は、はい」
左右から皿とビールの入った器が差し出される。アセトがナイフを入れると、鴨肉から香ばしい肉汁が皿の上いちめんに零れ落ちた。火加減は上々だ。
脂が落ちないようパンで支えながら、取り分けられた肉を口に含むと、何とも言えない味わいが口の中に広がっていく。
「美味しい! 料理、お上手ですね。」
「あらやだ、褒めてくれたって何も出ないよ? うふふ」
「何よ姉さん、あんただって…痛っ」
アセトがそれとなく、妹の足を踏みつけて黙らせる。
「姐さんの腕前はこの街一番さ。俺が保証するね。」
と、ネシコンス。
「もっとも、食材のケチり方も超一流で、ここじゃ肉なんて出てくるのは年に一度か二度だけどさ。」
「仕方ないだろ?! うちの神殿の収入でこんだけの人数食わせていくのが、どれだけ大変か。何も考えず、出したら出しただけがっつく連中ばっかりで、あたしゃ、日々、それはそれは苦労してるんだからね!」
とはいえ、でっぷりとした肉付きのよい体を左右にゆすりながら言われると、その言葉にもあまり信ぴょう性が感じられない。
奇妙で個性豊かな人々との、賑やかな食事の会。宴は、日が暮れるまで続いた。
それが終わった後、ヘリホルは、今日がまだ到着して一日目だったことを思い出していた。旅の疲れが押し寄せてくる。
少し早めに休もうと、ネフゥトに部屋を教わって宿舎の自室に向かった彼は、扉を開けて驚いた。
部屋はそう広くは無かったが、壁や天井は新しい漆喰で塗り直されていた。寝台には真新しい藁が敷かれ、肌ざわりのいい亜麻のシーツと、二種類の葦を編み込んで鴨の羽毛を詰め込んだ分厚い座布団が置かれている。枕元の小卓には、油を入れてほくち石まで揃えて置かれたランプが揃えられていた。
歓迎のための準備と言っていたのは、このことだったのだ。
壁は多分ネシコンスが塗り、寝台はネフゥトがしつらえ、ランプはセネブが準備してくれたものだろう。彼らの思いやりと歓迎が、それまでヘリホルの胸にわだかまっていた不安を取り除いていった。
既に問題は山積みだし、同僚たちは一癖も二癖もありそうな人々ばかり。
ここでの仕事は、きっと楽ではないだろう。けれど、――きっと上手くやっていけるに違いない。
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