第三章 邂逅(2)

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第三章 邂逅(2)

 役人だった頃からの長年の習慣は、そう簡単に変わるものでもない。  登庁する必要が無くなっても、目覚める時間は同じだ。ぐっすり眠った次の朝、ヘリホルは爽快な目覚めを迎えていた。仕事の指示は受けていないが、やるべきことは決まっている。井戸で顔を洗い、仕事場へ行くために台所を通り抜けようとすると、かまどの前に立っていたアセトが声をかけてきた。  「おはよう、早いんだね。もう仕事かい?」  「はい」  「なら、朝食を持ってお行き。」 昨夜の残りの鴨肉を挟んだパンを数切れと、干し杏をかごに入れて寄越す。  「他の皆さんは、まだ?」  「この時間に起きてくるのは、いつも神官長だけさ。今ごろはいつも一人で朝のお勤めをされてるよ。他の連中はもっと遅いね。うちの怠け者の妹もだけど」 かごを手に渡り廊下に出てみると、風に乗ってかすかな乳香の香りが漂ってくる。中庭の方からだ。神官長が、至聖所で神像にお清めをしているところなのだろう。  (こんな大きな神殿なのに、一人じゃ辛いだろうな…) 姿を見かけた神官は二人だけ。それも片方はやけに陽気で、剃髪さえ適当だった。格式ばった感じも、知的な印象も無く、今まで会ったことのある「神官」の印象とは、ずいぶん違っていた。  仕える神官が減ってしまったのは、この神殿の収入が無くなったことと関係しているのだろう。  神官たちの生活費はすべて、神殿の歳入の中から支払われる。寄進や寄付が減れば、それだけ抱えられる神官の数も少なくなるし、単なる掃除や参拝者の案内をこなすような下級神官を雇ってくることも出来ないのだ。  昨日掃除をしたばかりのヘリホルの新たな職場には、ネフゥトが用意してくれた新しい茣蓙(ござ)が敷かれている。その上に腰を下ろすと、彼は、さっそく続きの仕事に取り掛かった。見るも無残な小山になってしまっている書類や巻物をきちんと並べ、そのその中から今の、神殿の財政を知ることの出来る手がかりを探し出さなければならないのだ。  けれど、どれほど探しても、ここ最近の出納長や寄進物一覧などは、断片すらも出てこなかった。  部屋が十年も掃除されていなかったのだから、ある程度は覚悟していた。けれどまさか、何一つ残っていないとは思いもしなかったのだ。  朝の何時間かを空しく費やしたあと、ついにヘリホルは諦めとともに結論付けた。  この十年間、鷹の神殿は、――何がいくら入ってきて出て行ったのかを、全く記録も計算もしていない。  (これは…予想外だったな…。せめてこれからは、寄進物の記録は取って行かないと。寄進物があれば、の話だけど) それと、日々の歳出もだ。  ランプに入れる油、祭事に使う香油や花、サンダルがすり減った時の替えや袈裟にする亜麻布。それに昨日食べた鴨のような食材。あとは、この神殿の所有し、税や労働力を徴収している”領地”がどこに、どのくらい在るのか、だ。  上の方の棚に積まれた巻物に手をのばそうとした時、棚が大きく(かし)いだ。  「うわっ」 巻物は棚ごと崩れ落ち、降り積もったほこりとともに床に散らばった。幾つかは、その衝撃で欠けたり割れたりしてしまっている。  慌てて拾い上げた大きく破損した巻物の隙間から、蜘蛛の糸が一筋、ふわりと浮き上がって揺れる。そこには几帳面な文字で「神殿所領の覚書(おぼえがき)」と書かれているのが見えた。  ヘリホルは思わず、大きくため息をついた。  こんな重要な書類さえ、こんなにぞんざいに扱われているとは。盗まれるか無くすかしなかっただけでも、せめてもの救いと言うべきなのか。  他にも、過去の祭りの際に近隣から手伝いに来てくれた臨時雇いの下級神官たちの名簿や毎年の税収を記した書類も見つかったが、適切に管理されていなかった書類はどれも、虫食いと劣化で酷い有様だ。  (この紙は、もう駄目だな。完全に壊れてしまう前に書き写さないと…) 乾ききった繊維が今にもばらばらに壊れてしまいそうな巻物をそうっと卓の側に広げると、ヘリホルは、自らを筆写係と名乗っていたイビィを探しに行った。日はもうずいぶんと高く昇っている。他の人々も目を覚ましているはずた。  老人は、殿の裏に腰を下ろし、明るい日差しの下で鼻歌混じりに葦を編んで何かを作っていた。ヘリホルを見つけると、首を傾げてにかっと笑う。  「おーなんじゃ、手伝いに来てくれたのか?」  「いえ、違います。…何を作っているんです?」  「鷹の目隠しじゃよ、ほれ。あいつらは、目を隠すとおとなしゅうなるからの」 老人が指したのは、木陰に作られた鳥用の大きな檻だった。中は一羽ずつに仕切られて、羽根のぼろぼろになった老いた鷹が何羽か、足を止まり木に繋がれている。人に慣らされた鷹狩用の鷹のようだが、弱り切っていて、ネズミ一匹狩れるようには見えない。  「この神殿で飼っているんですか?」  「まあそうじゃよ。昔はこやつらのために鷹匠を雇っておったのだが、辞めさせた。それで、まだ翔べる若い奴や毛並みのいい奴は売ってしもうて、残りがここにおる。」  「……。」 鷹神の神殿が神の化身である聖なる鳥を飼うのには何の不思議も無かったが、最も良いものを売り払ってしまって、もはや狩りも出来なかった老いさらばえた鷹だけ飼い続けているというのは。  それはある種の冒涜ではないのかとヘリホルは思ったが、敢えて口には出さなかった。  「それでな? こやつらは、こうして」 ヘリホルの微妙な沈黙を気にした様子もなく、老人は出来上がった目隠しを手に檻を開いて、素早く一羽の鷹の頭にかけた。鷹が騒いだのは一瞬だけだ。目を隠されてしまうと、鳥は本能的に動きを止める。  為すがままに大人しくなった鷹をしわだらけの両手で抱きながら、老人は、鷹の胸元から羽根を何枚かむしりとった。ついでに檻の下に落ちていた羽根も、残さず拾い集める。  「どうするんですか、それ」  「決まっとるじゃろう、”お守り”にするんじゃよ」 イビィは、黄色い歯を見せて笑った。  「こっちの大きい羽根は包帯に包んで、鳥の形にして聖鷹様のミイラ(サフ)にするのじゃ。それからこっちの小さいのは清めてお香を焚きしめて、袋に入れる。それで完成じゃ。遠方から物見遊山にやって来る参拝者には、良い土産物になるぞ。」  「――売る、んですか」  「ああ。どこの神殿もやっとるじゃろ? うちはまっとうな神殿じゃからな、偽物は売らんぞ。どのお守りも、本物の聖鷹様の羽根入りじゃ。」 陽気に笑いながら、手にした小箱に手際よく羽根を詰め込んでゆくイビィの姿を眺めながら、ヘリホルは、何も言えなくなっていた。  確かにどこの神殿も、お守りくらいは売っている。遠方の街の神殿に出かけたら、お土産の一つも欲しくなるだろう。もし、自分が個人的に観光でこの街を訪れていたら、目の前で羽根をむしられている老いた鷹たちのことなど何も知らなかったら、差し出された羽毛のお守りを買い求めていたかもしれない。  「そういやあ、お前さん、何の用だったのかね?」 イビィの言葉で、ぼんやり考えこんでいたヘリホルははっと我に返った。  「そうだ、ええと。聞きたかったのは、紙が無いか、ということなんです」  「紙?」 老人は、きょとん、とした顔になった。「無いぞ、そんなもん」  「え、でも朗誦用の巻物は書き写しているのでは」  「それで終いだ。それだけしか手に入らんのだ。紙は高価だからのー、年に一度入って来ればいいほうだな」  「……。」 では、一体なんのために筆記具を持ち歩いているのか、と聞きたくなったが、ヘリホルは言葉をぐっと飲みこんだ。  紙が高価なことは知っている。そう、確かに、今のこの神殿の財力では、そう簡単に使えるものではない。ここは、紙がふんだんに使えた役所とは違うのだ。  「別の書き物を使えばよかろう。陶片なら、街の工房に行けば失敗作を貰えるぞ」  「いえ、別の方法を考えてみます。書き写したいのは、少し、長い文章なので」 紙が無い時に陶器の破片に覚書きを書きつけ、水で洗って何度も使うのは一般的だったが、書ける量はそれほど多くない。それに、ぼろぼろになった神殿所領についての公文書の写しを作るには、正式な紙が必要だ。  仕事場に戻ってみると、ちょうどネシコンスがやってきて、壊れた棚を直そうとしているところだった。  「ああ、居た居た。今からここのところの棚を直すから、そっちを持っててくれんかね」 朽ちて割れた棚板の代わりに持って来た板には、脚を外した跡がある。昨日言っていたとおり、用済みになった机から取り外したものの再利用らしい。  ふと、ヘリホルは思いついた。  「この板、まだ余ってますか」  「ん? あと一枚、横面の小さいのが――」  「使わせてください。それと、漆喰を少し」 棚板を取り付け終わった後、ヘリホルはネシコンスと一緒に神殿の裏にある彼の家へと向かった。  ネシコンスの住まいは本当に神殿のすぐ裏手で、というより神殿の壁にぴったり寄りそうようにして造られている。崩れた壁を直さずにそのままにして、家の庭から直接、神殿の中に入れるようにしてあるのだ。  庭には街のあちこちから譲り受けてきたらしい壊れた家財道具が山積みにされ、その山の向こうに、がらくたから新しく作られた使えそうな品物が並んでいる。  それはたとえば、一山のボロ布が使える一握りの布に包まれてお手玉になったり、底の抜けた甕に縄を括り付けて魚とり用の罠が作られたりというようなもので、ネシコンスの発想と手先の器用さには、驚くべきものがあった。  「こうやって、色んなものを作り変えているんですね。」  「そうだ。まだ使えるもんを捨てちゃあ勿体ないしな。ほれ、板はこれだ。あとは――漆喰? これを、どうするんだ」  「こっちの、年輪の詰まってる側に分厚く塗ってください。そう、こっち側に」 出来上がったものは、白い四角い、筆写用板だ。耐久性や見てくれはともかく、書くだけの面積は十分。インクの乗りも申し分ない。  「あと何枚か、同じものが欲しいんですよ。板は何でも構いません。よく乾かして貰えれば」  「こんなものに文字を書くのかい?」 驚きながらも、ネシコンスは面白がっているようだった。  「ふうん、まあ墓を作るときにゃ確かに漆喰の上に経文を書くもんだ。何に書いたって、文字は読めりゃいいんだな」  「そう、書けて読めればいいんですよ。今のところはね」 最初に仕上がった一枚の筆写用板を持ち帰り、ヘリホルはさっそく、見つけ出した神殿所領についての文書を書き写し始めた。元の巻物が崩れてしまわないように、そっと、そっとだ。  (大河(イテルゥ)の西岸、神殿の周囲、五十セチャト。果樹園と農耕地、灌漑用水路を挟んで溜池が三つ、村一つ…) 神殿のために奉仕すべき人々の住まう村は、おそらく神殿の裏手のネシコンスの住んでいるあたりだ。彼の家の向こうに広がっていた畑や果樹園が神殿の所有地なのだろう。  しかし、それらの土地からの毎年の税収が適切に神殿の倉庫に収められていたかどうかは、疑わしい。  板に内容を余すところなく書きつけてしまうと、彼は、それを手に神官長のもとを訪ねた。  昨日言っていた通り、朝のお勤めを終えたハルシエスは自室に居て、祈祷書を手に陶片に何かを書き写していた。  ヘリホルが部屋の入り口に立っているのに気が付くと、彼はすぐに手を止め、訪問者が手にしているものを不思議そうに見つめた。  「その板は…」  「神殿所領についての文書を見つけたんですが、朽ちかけていて持ち運びが出来そうになったのでこれに書き写したんです」 漆喰を塗った上に整然と文字が書き写されているのを見て、ハルシエスは膝を叩いて声を上げた。  「板に文字を書き写すとは! まるでメソポタミア(ナハリン)の国々のようだな。それで?」  「そろそろ増水季が終わって、播種(はしゅ)の季節ですよね。税収の取り決めをやる季節ではないですか。」  「おお、そうかもしれん ――いや、確かにそうだ。かつて会計係や書記が居た頃には、今時分に村を周っていたはずだ。」  「私が検分に行ってきても良いでしょうか? ちょうど私の以前の仕事はこの担当でしたし、やり方は判っています。誰か、案内をつけてもらえると有難いのですが。」  「では、セネブに任せよう。あの者はここでは最も古参だ。神殿所領がどこからどこまでかも、良く知っている」 神官長からの許可を貰い、道案内のセネブを連れて、ヘリホルは神殿を出た。鷹の街に来てから周辺を散策するのは、実はこれが初めてだった。ずっと書庫にこもりきりで、巻物や書類の整理をしていたのだ。  そして歩き出してすぐ彼は、川沿いの黒い土地(ケメト)は何所も同じようなものだと思っていたのが誤りだったことに気が付いた。  遠くを流れる大河の両岸の奥には、黒い土地と赤い土地を隔てるそりたつ赤い崖がある。それは同じなのだが、以前住んでいた場所より明らかに幅が狭く、すぐそこまで沙漠が迫っているのだった。  川べりの僅かな緑の中に家々が固まって点在している。灌漑用の水路の土手は低く、耕されたばかりの黒い土のあちこちに水を貯めておくための小さな池が掘られて、魚が飼われている。主もなく、忘れられたように繋がれた場所でもぞもぞと草を食むロバ。軒下にはためく洗濯物。どこからか牛の声が聞こえてくる。  ゆっくりと時間が流れて行く、まるで白昼夢の中にいるような光景はどこか懐かしく、両親に連れられて、初めて訪れたあの日の鷹の街の印象そのままだった。  「このジェバの村が神殿の所領だ。見ての通り川からはかなり奥まっとってな。川の増水が少ないと干上がっちまう。水路の手入れが大変なんじゃわい」 木陰に足を止め、老人は物知り顔でヘリホルに説明する。  「昔はなー、川の流れがこの村のあたりまで来とったそうなんじゃが、いつの間にか遠ざかってしもうたんだそうでなー。新しく着た連中や若いのは、ほとんど川沿いの便のいいほうに出て行ってしもうたんじゃ。それで、川沿いのほうに大きな街をがあるんじゃな」  「ただ、今年の増水は良好だったはずです。畑も奥の方まで全て播種されているようですし」 手元の板に見たものを書きつけながら、ヘリホルは何やら計算している。  「村と畑の面積が変っていないのなら、二十年前の税収とほぼ同等が見込めるはずです。果樹園は、どこに?」  「果樹…あんず畑のことか? 確か、こっちのほうにあったはずだがな…。」 畑の縁で食用の草を詰んでいた住人が手を止めて、神官の老人を連れて歩く見慣れない若者を見やる。肩に筆記具をかけているから書記のようだが、手に持っているのは文字の書かれた謎の白い板だ。  子供たちが寄ってきて、わいわい騒ぎながら指を指す。話しかけられて足を止めたことも一度や二度では無かった。  けれど、今後のことを考えれば関係は良好にしておくべきなのだ。  問われるたびにヘリホルは自己紹介をし、神殿で働くことになったこと、今年の税収の監督係を受け持つことなどを説明していった。税と聞いてあからさまに警戒の色を浮かべる者もいたが、それはきっと今まで、厳密な監査が行われないのをいいことに収めるべきぶんを誤魔化していた家だろう。  用心すべき対象として、ヘリホルはひそかにそうした家を記憶しておいた。  とはいえ、ほとんどの住人は友好的で、元は役人をしていたというヘリホルの話を聞いて妙に納得したようでもあった。逆に、セネブが付け足した”捧げもの”の話のほうが、村人たちには信じられないようだった。  「そんな風習、まだあったんだねぇ」 とまで言う住人もいた。この、時の止まったような村でさえ、「神の声」に召されて神殿にあがる子供などは、もはや言い伝えの中の存在なのだ。  神殿に戻ると、ヘリホルは真っすぐにハルシエスのもとに視察の結果を報告に行った。  時刻は夕方に差し掛かり、神官長は、これから夕方のお勤めに出るために白い袈裟を肩に懸けようとしているところだ。  「これから拝礼ですか? では、また後で伺います」  「少しなら構わない。どうだったかね、村を見た感想は」 出直そうとするヘリホルを引き留めて、ハルシエスは彼の手元のあれこれと書き込みのされた筆記板を見やった。  「寂れたところだったろう」  「いい村だと思いますよ」 と、ヘリホル。  「忙しすぎないほうが私は好きです。畑と果樹園は確認しておきました。今日は無理でしたが、村の戸籍も改めて確認したほうがいいと思います。二十年も前の書類では役に立たないでしょうし、新しく建っている家もありましたから」  「そうか」 何やら思うところがあるのか、神官長は、僅かに考え込むようなそぶりを見せた。  「信仰――なのか」  「はい?」  「お前はどうして、そうも勤勉に働こうとするのだ。この神殿の有様を見て、不安にはならなかったのか」 聞かれている意味が分からず、ヘリホルはしばし、答えに窮した。何故、と問われるにしても、まさかこの神殿の神官長にそのように問われるとは予想していなかったからだ。  「どうしてと言われても…私には、自分の仕事をすることしか出来ません。何か、出過ぎた真似をしましたでしょうか」  「そうではないのだ。そうではない…ただ、お前には、もっと別の道もあったはずではないのかと思ったのだ」 上から下まで白い、礼拝用の衣をまとった男は、どこか遠い目をして窓の外に視線をやった。  「わしは鷹神様お仕えして五十年になるが、未だ神の御心の深いところまでは判らぬ。神官の家に生まれ、この仕事を使命と思いこの年まで過ごしてきた。ここが寂れてゆくのにも何も出来ず、日々の職務をこなすのみで無為に時を重ねてな。わしの代で滅びるのが運命なのではないかと、そう思ってさえもいた。」 淡々と語る男の眼差しは、いつしか、ヘリホルに向けられている。  「だが、お前はここへやって来た。十年も前の啓示に従って。お前にとってそれほどまでに、鷹神の言葉は重かったのか?」  「それは…違うと思います。」 ヘリホルは小さく首を振った。  「神の言葉に従ったとか、運命だったとか、そんな大それたことは言いません。私はただ、信じたかったのです。死にかけた沙漠で見た幻と、…夢だったかもしれない古い約束を。」 そう、これは誰に示されたものでもない。示された幾つもの選択肢の中から自分で選んで進んだ道なのだ。  曖昧に微笑んでハルシエスは無言に頷くと、若者の肩を叩き、空気のように袈裟の裾を引いてその脇を通り過ぎていく。お勤めに行くのだろう。口には出されなかった思いは立場の違うヘリホルには判らず、過ぎ去った五十年の日々も責任もの重さも、まだ年若いヘリホルには分からない。  ただ一つ、分かったこと…、老神官は――おそらくはこの神殿を家とする守護神と同様に――、移ろいゆく世界に疲れ果てているということだ。  日暮れの風が川の方から吹いて来る。  奥の至聖所から漂う香の香りが中庭を漂い、反対側の台所の方からは、それに混じるようにして夕餉の支度の匂いが微かに届く。  暮れなずむ赤い光に照らされた重厚な神殿の外壁には、翼を閉じて空を見据える鷹の浮彫の陰影が、添えられた聖なる印とともに浮き上がる。神殿の外壁に刻まれているのは、遠い昔の神話物語だ。かつて神代の時代にこの地で行われたという、王権の護り手にして「黒い土地」の王たる鷹神と、赤い沙漠の神との神々の玉座を賭けた長きにわたる戦いの神話。  沙漠から押し寄せる砂嵐を押し返すように、鷹神は大きく翼を広げ、敵である邪悪の神を打ち倒す。  けれどその壁画の結末には、対立する二人の神が一つの柱を前に向かい合い、互いに水蓮とカヤツリグサとを結び合う調和の場面が描かれていた。
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