第三章 邂逅(3)

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第三章 邂逅(3)

 毎日は、忙しく過ぎて行った。  神殿の財政を建て直すには、現状を把握するところから始めなくてはならない。何所に何があるのかを誰も把握していなかったため、ヘリホルは、大掃除を兼ねて棚卸しから始めることになった。  だが、これがひどく骨の折れる仕事だった。  神殿の地下にある「宝物庫」は、長年、誰も足を踏み入れておらず、閂の鍵も見当たらず、ネシコンスを呼んで来て鍵を壊さねばならなかった。  苦労して中に入ってみれば、ほこりを被ったがらんとした大きな部屋で、中身は何もなく、ただ一つだけ、聖甲虫(ヘペレル)の護符が隅の方に落ちているばかりだった。  かつて神殿が盛況だった時期には、屋根裏にも寄進物が仕舞われていた――そう思い出してくれたのはラネブだった。  梯子を借りて、これまたホコリと蜘蛛の巣だらけの梁の上によじ登ってみると、死後の世界の安寧を願う祈祷文を記した巻物が幾つかと、ネズミの死骸が見つかった。  アセトは、台所の外にある貯蔵庫の地下を覚えていた。しばらく使っていないが、かつては沢山の穀物が仕舞われていたという。  開けてみるとそこには、干からびた豆の入った袋に、水分の蒸発しきってカスばかりが残った酸っぱい匂いのあるぶどう酒の壷が転がっていた。  それで全部だ。  長年作られていなかった財産目録の作り直しは、あっという間に終わってしまった。つまり「ほとんど何もない」ということだ。  ――来年の春に神殿所領からの穀物の収穫があるまで、どうやって食つなぐのかが、当面の課題だった。  いつしかヘリホルの仕事場である書庫には、朽ちかけた書類を書き写したものが山のように積み上げられるようになっていた。  漆喰を塗って作った仮ごしらえの筆写板に、陶器片、薄く削りだした石まで、とにかく文字が書ければ何でもよかった。朽ちた巻物は加護に纏めて、部屋の隅に保管してある。いずれきちんとした紙に書き直したかったが、高価な紙を手に入れるのは、今は無理だ。  (それにしても…二十年前にここの会計を担当してた人は、ずいぶん几帳面だったんだな…) 整った美しい書体で記された、一か所も計算間違いのない細かな会計記録を捲るとき、ヘリホルは、驚かずにはいられなかった。かつて多数の寄進物を受け取り、大勢の参拝者を受け入れていた頃のこの神殿は、物の出入りも頻繁で、少しでも手を抜けば帳尻がうまく合わなくなる。  にもかかわらず、それらをたった一人で把握し、管理し、記録し続けた人物は、確かに優秀だったに違いない。  (この人が急に辞めてしまったのなら、混乱するのも頷ける) 優秀過ぎた会計係の筆跡がふつりと途切れたあと、しばらくして再開される記録は見る影もなく杜撰なもので、その頃から、神殿の蓄えは急激に減り始めていた。おそらくは、会計上の不正もあったのだろう。  そうして給料の未払いや食料の切り詰めが頻発するうちに、神殿に居た人々は少しずつ減っていったのだ。  今となっては、誰に問題があったのかを突き止めることに意味はない。  神官長のハルシエスとは、あれからほとんど話をしていない。  顔は合わせるが、ただ黙って曖昧に頷くだけなのだ。何を相談しても、「好きにしなさい」か「許可しよう」と返って来るだけだった。どこか浮世離れした神官長にとっては、俗世の雑事は関心事の外にあるのかもしれなかった。  相談したことの一つが、裏庭の鷹の羽毛を抜き取って作った「お守り」の販売を取りやめさせる、ということだった。  これにはイビィがひどく反発した。  「そんなことをしたら、この神殿で食ってけなくなる!」 すり減った並びの悪い歯が零れ落ちんばかりに唾を飛ばしながら言うイビィをなだめ、ヘリホルは、辛抱強く説得した。生きた鷹の羽根をむしったりしなくても、他の方法はあるはずだ。落ちた羽根を使うだけなら問題ない。  「それじゃ少なすぎるだろう」  「なら、値段を上げればいい。貴重なものだからと言っておけば、欲しがる人はいるんじゃないかな」 商売の基礎、というべきだが、イビィは納得していない様子だった。  それからネシコンスに頼んで、神殿の使われていない部屋の壁に漆喰を縫ってもらった。元々は壁画か何かがあったらしいのだが、ほとんど剥げ落ちて、今は物置代わりに使われていた場所だ。  「お供えを持って来れば、ここの壁に記念に名前を書いて記録する、というのはどうだろう。それならこっちは文字を書くだけだし、みんな街で何か供物を買ってから参拝してくれるんじゃないかな」 これなら、供物として入って来る収入の記録も楽になる。生活の糧を得られるなら何でもいいのだ。  イビィはぶつぶつ言っていたが、名前を書く係に任命されたことで、少しは機嫌を直した。あとは参拝者を受け入れるための準備――荒れ果てた神殿をきれいに掃除して、参道や祈りの間を整えなければならない。  難題は、裏手にある清めの池の掃除だった。  長年、掃除もされず草や木が生え放題、泥が溜まって、とても何かを清められる状態には無い。しかも池を囲む壁が一部崩れてしまっているのだった。  「この池の先に水路があって、昔は川まで続いてたんだよ」 古参のラネブがそう言った。見れば確かに、池から細い水路のようなものが畑を横切って伸びている。しかしそこも、完全に草にうずもれて、先の方は畑の一部になっていた。  「どうやって水を引くか、だな…。灌漑水路と繋げないかな?」  「それだと増水の季節にしか水が届かんな」  「井戸から引いて来るとか。いっそ、この池の底を掘ってでっかい井戸にしちまえば、水は湧いて来るだろうよ」 その役目は、ネシコンスが引き受けた。膝まで泥に浸かりながら、草と木を刈り、泥をかきだし、下の地面を掘り進めていった。  その手伝いに村人たちを何人か雇った時には、さすがにハルシエスが口出しして来た。人を雇っても支払えるお給料は無いのでは、と。  「お給料は税で調整します」 と、ヘリホルは答えた。  「次の収穫から神殿に納める分の税を免除するんですよ。他所でもよくやってる方法です。これなら、手元に何もなくても人は雇えますからね」  もっともこれは、会計が機能していなければ使えない方法だった。そして神殿の所有する村に人が住み、畑があるからこそ出来るのだ。  同じ方法でヘリホルは、希望者を募って村から何人かの下働きを連れて来た。下級神官として、神殿内外の掃除を担当してもらうのだ。  今までたった一人で掃除を受け持っていたネフゥトは楽になると大喜びだったが、台所や宿舎といった私的な場所は相変わらず彼女の管轄に残るのだと聞いて、少しガッカリした様子だった。最初の神殿の様子からして彼女は今までも神殿の神事に関わる部分は一切掃除していなかったようだから、仕事の量はほとんど変わらないのだ。  こうして少しずつ、少しずつではあるが、寂れていた鷹の神殿に、かつての面影が戻り始めていた。  噂を聞きつけた参拝者が近隣の町や村から訪れるようになり、以前はほとんど神殿にやって来なかった村人たちも、時々顔を見せるようになった。  中には参拝客を目当てに、神殿のすぐ外で商売を始めた者もいる。そこでヘリホルは、売上の一部を神殿に支払えば、神殿の前庭まで入って参道脇で商売してもよいという決まりを作ることにした。商売にはイビィが目を光らせているから、余所者や、許可を得ていない者が勝手に店を開こうとすればすぐに見つけるだろう。  季節は移り行き、いつしか、朝夕には毛織の上着が必要なくらいになっていた。  太陽の光が日に日に弱っていく中で、神殿の周囲に広がる畑では、麦が青々とした立派な芽を伸ばしている。今年の収穫は、豊作になりそうだった。  仕事場に積み上げられた板や陶器の山を前に、ヘリホルは悩んでいた。  いつまでも筆写板や陶器片を使って記録を残してはいられない。せめて大事な文書には、紙を使いたかった。  けれどカヤツリグサから作られる本物の「紙」はとても高価で、しかも、元になる草の育つのははるか北方の、大河の下流のほうなのだった。街の市に行けば手に入るようなものでは勿論無く、作られている街の工房に直接、買い入れを申し入れるしかない。  こんな時はラネブに聞くに限る。  探しに行くと、老神官は台所にいて、食事の時間でもないのにビールをすすってアセトと談笑していた。ヘリホルが入っていくと、ラネブはいつもの、ひょうきんな笑顔を見せる。  「お―、若いの。どうした、珍しいのぅ。腹でも減ったのか? ちょうどアセトの新作が出来たんじゃよ、ほれ」 椀の中には、まだ新しそうな半透明な液体が揺れている。麦の発酵した香り。  「良さそうな大麦が手に入ったんでのぉ」  「いつもの年なら、この時期は麦の残りが心元なくてビールも作らないんだけどね。今年は何とかなりそうだから」 と、アセト。  「で、何? この飲んだくれに何か用なの」  「ええ、お聞きしたいことがあって。以前、この神殿が紙を仕入れていた先は何所だったのか覚えていますか」  「紙?」 ラネブは、薄く紅潮した鼻を指先でこすりながら、ちょいと首を傾げた。  「紙なら昔も今も、イウニトじゃよ。あそこの神殿から贈られてくるんじゃい」  「イウニト…?」  「牛女神(ハトル)の街。鷹神様の伴侶じゃろ? 毎年、両神殿で同じ時期にやる祭りがある。そこで交換し合う品目じゃよ」 その祭りのことは知らなかったが、神話については少しだけ覚えがあった。  鷹神の館(フゥト・ホル)を名の起源に持つ牛女神、慈愛と母性のハトルは、鷹神とは深い繋がりを持ち、かつて戦いで鷹神が傷ついた時、それを癒したことがあるのだと。  「じゃが、こっちから贈れるもんが少なくなって、向こうから来る分も減ってしもうたのよ。以前は裁断前の大きな巻物が十本も来ておったのが、今じゃあ質の悪いのが一切れか二切れ。それで、大事な祈祷書を書き写すくらいにしか使えんようになっとった」 椀を傾けながら、ラネブは場違いなほど底抜けに明るい調子で語る。  「ひゃっひゃ、甲斐性のない男は女にモテん。神々の世界も人の世界もおんなじよ。」  「失礼ですよ、神殿の中なのに」 慌てて、ヘリホルはたしなめる。  「それに…今年は、違うでしょう? というか、違うんだって伝えないと。また今年も切れ端が寄越されるんじゃかなわない。イウニトですよね? 直接行って、交渉してみます」  「ほう、泣いて女神に縋るか」  「違いますってば…」 けれど、牛女神の街イウニトは、一度も行ったことのない街だ。  確かティスからこの鷹神の街へ向かう途中の、大河が大きく蛇行する辺りにあったはずだ。川の水位が高い今なら、乗合いの船で行って帰って来るのは難しくない。  「神官長に話してきます。」  「おーおー、頑張るのぉ若いの。やる気に満ちておるわい」 茶化すようなラネブの声を背に受けながら、ヘリホルは中庭を横切ってハルシエスの部屋に向かった。  ヘリホルの話を聞いて、彼は、いつものように頷きながら、「よろしく頼む。」とだけ言った。  「イウニトへ行くなら、まずは女官長に逢うといい。私からの親書をしたためよう。それで、会って下さるはずだ」  「どんな所なんでしょうか。何かご存知ですか?」 ハルシエスは、しばし考えこみ、記憶を辿るようなそぶりを見せた。  「若い頃に何度か、訪れたことはある。ここと同じ古く、由緒ある神殿を持つ街だ。女神に仕える神官たちの多くは女性で占められている。そのせいもあって、華やかな場所だ」 古びた小さな紙の断片に数行の言葉を書きつけながら、神官長は、感情の籠らない口調で言った。  「女神は音楽を好むという。そのお陰であの神殿には、いつも楽曲と歌声が響いていたものだよ。」  「歌…ですか…」  「さあ、出来た。大したものではないが、これを持って行きなさい。道中は気を付けて。お前がいない間、神殿のことは上手くやっておこう」 書きつけをヘリホルに渡し、それきりハルシエスは口を閉ざしてしまった。  いつものことだ。  ヘリホルは軽く頭を下げ、退出の意を伝えると、神官長の部屋を後にした。  中庭を通り過ぎる時、ふと、彼は顔を上げて奥の至聖所のほうを見やった。  鷹神の像の安置されたその場所は、本来は神官しか立ち入ってはならない場所だ。既に分別を知る年齢のヘリホルは、この街へ来てからも立場をわきまえて一度も勝手に中に入ったことはない。  けれど時折、気のせいかもしれないけれど、奥の方から視線のようなものを感じることはあった。  何かを告げようとするでもなく、無言にこちらを眺める何者かの気配。それは、いつかのハルシエスと同じように、多くは語らず、まるで彼がそこにいること自体が不可解だとでもいうように、疑いながら見つめている眼差しだった。  川を下る乗合の船は、主要な川沿いの街を巡りつつ荷を積み替え、人を入れ替えながら川の上流から下流へと何日もかけてゆっくりと進んでいく。  川下へは流れに沿うだけだから楽な旅だ。船はほとんどの間、帆を畳み、船員たちは浅瀬に船底がひっかからないよう竿で川底をついたり、すれ違う船の縁を押しやって衝突を避けたりしているだけでいい。  船乗りたちの大半は顔見知りらしく、すれ違う船の上からは知り合いに向けたやや乱暴な挨拶の言葉が、頻繁に投げかけられる。  荷物を運ぶ底の浅い船、地元漁師たちが魚をとるごく小さな葦の舟。それに一度か二度、おそらく貴族か王族か、地位のある人が乗っているのだろう、厨子の形をした客室を備えた豪華な船も見かけた。  太陽は常に東から西へ、つまり川の右手から左手へと過ぎ去ってゆく。その太陽が横から昇るようになったら、川が向きを変えた証拠だ。もうじきイウニトに着くという証拠でもある。  ほどなくして、船の行く手には、川に向かって突き出すようになった大きな街が見え始めた。船着き場には人が溢れている。  「ほうら、着いたぞ。イウニトだ。イウニト! 降りる奴は降りとくれ。」 船頭に急かされるようにして、客の何人かが下船していく。ヘリホルも、後ろに続いた。  船着き場に降り立つや否や、この季節にしては珍しい緑の香りが鼻をついた。  港前には市が開かれており、その奥に、川から神殿まで続く参道が延びている。神殿の周囲には、よく手入れされた果樹園と畑が広がり、こんな季節なのに花束が売られている。神殿の女神への捧げものなのだろう。  「ここが…牛女神の街…。」 垢ぬけた街の雰囲気と、人の多さに気圧されながら、ヘリホルは神殿へと向かう道を歩き出した。道の傍らでは、うわぐすりをかけて焼いた護符がたくさん売られている。  「安産のお守り、子授けのお守り。子供の身を守るお守りはいかが? 首にかけておけば無くす心配もない!」  「お花はいかがですか。女神様のお好きな花束ですよ。願い事があるならぜひ一つお持ちなさい」  「食堂はこちらだよ!」 露店に気を取られていたヘリホルは、うっかり前を見るのがおろそかになっていた。前に人がいることに気づいたのは、どん、とぶつかってしまった後のことだった。  「痛った!」  「あ…す、すいません」 顔を上げると、目を縁取るような特徴的な化粧をした若い娘が、こちらを睨みつけていた。  髪は額で分けて細い紐をかけ、肩の下で切りそろえている。特徴的な髪型だ。薄い上等の亜麻を幾重にも羽織って赤い帯を腰に巻いた出で立ちからして、ただの街娘ではなさそうだ。神殿の関係者だろうか。  「田舎者。きょろきょろしてるからよ」 ずばりとキツい言葉を投げつけながら、彼女は素早く視線をヘリホルの上から下まで動かした。  「あんた、どこから来たの」  「ティ…ジェバの街です」  「ふん、鷹神の街。そう」 娘は、つんと顎を上げて神殿のほうに向きなおった。「こっちよ」  「は?」  「神殿に用があるのでしょ。あんたが何を持って来たかは知らないけど、女官長に逢うなら裏口から行ったほうが早いから」 なぜ、判ったのだろう――困惑しながらも、ヘリホルは娘の後ろに従った。こういう気位の高そうな女性には、へたに逆らわないのが得策だと、役人時代にいやというほど学んでいる。  「私はヘリホル。貴女は?」  「名乗る必要ある?」  「…いや。名乗りたくないなら、構わない」  「そ。じゃ、黙ってついておいで」 薄い布地の裾を恥じらいもなく翻しながら大股に歩いて、娘は、あっという間に神殿の裏手につけられた、小さな通用門まで辿りついていた。  「お客さんよ。義母(かあ)様に」 門番にそれだけ言って、返事も待たずさっさと中に入っていく。  (”かあさま”…?) ヘリホルは、軽く門番に頭を下げながら、置いて行かれまいと慌てて娘の後を追う。  高い塀に囲まれた神殿の裏庭は、鷹神の神殿とよく似たつくりで、違うのは、鷹の檻の代わりに厩舎があって乳牛たちが繋がれていることだった。母になる予定の牛たちは、厩舎の中で大人しく牛飼いの世話を受けている。  回廊を潜りぬけたところで、娘は足を止め、くりると振り返ってヘリホルに廊下の先を指し示した。  「そこの奥。じゃあね」  「あ、…はい、ありがとうございます。…」 本当に、名乗りもせずにさっさと行ってしまった。  曲がり角を曲がった後ろ姿が見えなくなるまで見送ってから、ヘリホルは、教えられた廊下の奥に向きなおった。  どこかから、歌の練習をする少女たちの声が聞こえてくる。  ここの女神は楽曲が好きだとハルシエスが言っていた。神殿に仕えるのもほとんど女性なのだと。そのせいだろうか、渡り廊下にはほんのりと、花か香水の匂いが漂っている。壁に描かれた絵もどこか女性的で、彩色の色使いはやや淡く、花や植物の意匠が多い。  廊下の奥の扉を叩くと、中からどうぞ、と返事があった。  「失礼します」 ヘリホルが入っていくと、椅子に腰かけて弦楽器の手入れをしていた女性が驚いたような顔をした。  さっきの娘と同じような格好だ。髪は既に灰色になっているが、体の肉にはたるみが無く、黒い縁取りをした目元には、若い頃の美貌を思わせる華やかさがかすかに残されている。  「どなた…かしら?」  「急にお邪魔して申し訳ありません。私は、鷹神の街から来たヘリホルといいます。こちらに、神官長のハルシエスどのからの書きつけが」 ヘリホルが名乗ると、最初の警戒したような色はすぐに消えた。  「まあまあ、鷹の街から。何年ぶりでしょうね、あそこからの使いなど。」女性は、目尻にしわをよせて意味深に微笑んだ。  「神官長どのは、お元気? 色々と、大変なことがあったと聞いているけれど」  「お元気ではあります。私は、最近働き始めたばかりなので昔のことは良く知りませんが」 それから、彼は思い出して付け足した。  「ここへは、市で偶然出会った女性が連れて来てくれたのです。この神殿に仕える神官様の一人かと思いますが」  「ま。それはあなたと同じくらいの年頃の、口の悪い娘じゃありませんでしこと?」  「ええ…まあ…その」 口が悪い、というのを肯定すべきかどうかは迷ったが、女官長の苦笑する表情が、すべてを見透かしていた。  「また勝手に抜け出して街へ行っていたのねえ。しようのない子だこと。まあいいわ、それで? ご用件を伺いましょう」  「はい。実は、この神殿とやりとりしているという贈り物について、なのですが…。」 ヘリホルは、ここに着くまでに考えていた交渉について話し始めた  。鷹神の神殿の財政は厳しいままだが、少なくとも立ち直りはじめてはいること。今後は互いの神殿の贈り物のやりとりも、今まで以上に出来るはずだということ。それを前提に、今年は多めに紙を送って欲しいこと。  女官長の表情は、見る間に固くなっていった。  「それは――直ぐにはご回答できかねることですわね…。紙は、この神殿の所領で草を育てて作らせているのですが、元よりそれほど量は多くありません。それに、この神殿の収入源でもあるのです。神官長どのとも、会計係とも相談してみなければ」  「ええ、判っています。急ぎはしません。それに、昔ほど沢山では無くて良いんです。ひと巻きあれば、朽ちかけた数十の祈祷書と、同じくらいの数の公文書を書き写せますから。」 頷いて、女性は楽器を手に、椅子から立ち上がった。  「では後ほど、協議いたしましょう。その前に、今日はこれから歌い手たちの練習があるのです。折角なのだから見てお行きなさいな」  「歌…ですか」  「街で結婚式があるときは神殿の歌い手たちが呼ばれて、女神様に夫婦生活と子宝への加護をを祈願するために歌うのです。その予行演習ですよ」 女官長はヘリホルを、神殿の奥の中庭の、石畳の広場へと連れて行った。  そこには真っ白な薄い布を纏って赤い帯を提げた少女たちが並んでおり、見たことのない男性が現れたことに驚いて、恥じらうように顔を逸らしたり、くすくす笑いながら隣同士で何か囁き合ったりしている。  年頃の幅は広く、十歳ほどから、もっと年上の少女たちまで。その真ん中に、さきほどの娘がすっと背を伸ばして立っている。  「あの()でしょう? ここまで案内したのは」 ヘリホルの表情に気づいて、女官長は微笑んだ。」  「あの娘は神の歌い手(シャマイエト)。名は女神に愛されし者(メリハトル)。私の養女で、生まれてすぐに女神に召され神殿に入った”捧げもの”なのですよ。」  「……。」  「皆、待たせたわね。それじゃ、始めましょうか。」 声が石造りの空間に反響する。少女たちの列の左右には、笛や指で打ち鳴らす打楽器や、大きな琴を抱えた女性たちが控えている。  年老いた女性が熟練の様子で手を打ち鳴らし、指で調子を示しながら少女たちの列の間を歩いていく。それに合わせて、楽器が旋律を奏で始め、少女たちは声を張り上げる。  その中でも、ひときわ張りのある透き通るような声で歌うのは、真ん中にいるメリハトルだ。  それはまるで天上から響いてくるような、何とも言えない妙技だった。ヘリホルはしばしの間、音の渦の中に圧倒されていた。  内心はどうであれ、女官長や神官長は親切にもてなしてくれ、その日は神殿の信者たちのための宿舎の一室を宿に貸してくれることになった。鷹の神殿からの要請については、今夜、話し合うという。  ヘリホルに出来ることは何もなかった。ただ、良い答えを貰えることを期待して待つだけだ。  日が暮れた神殿には惜しげもなく松明やランプの灯りがともされて、華やかに光が踊っている。主要な回廊だけは夜も明るく、どこかからさざめくような少女たちの話し声や、かすかな音楽の音さえ聞こえる。  眠るのがもったいなくなりそうな場所だった。いつもなら早めに床に就くヘリホルも、今夜ばかりは少しだけ、夜の神殿を散歩してみようという気持ちになっていた。  奥の庭からは花の香りが漂ってくる。さ迷い歩いているうちに、いつしか清めの池の近くまで来ていた。  「♪甘い豆の鞘をあなたに一つ~…」 水音とともに、歌が聞こえてくる。  池に降りる階段の途中に、サンダルを脱いで足で水を蹴りながら頬杖をついているのは、メリハトルだ。月明かりに照らされた面立ちが、白く闇の中に浮かび上がっている。  しばしぼんやりと見つめていると、彼女は人の気配に気づいて勢いよく振り返った。  「何? のぞき見?」 きつい眼差しを向けながら警戒するように身構えるのを見て、ヘリホルは慌てて両手を振った。  「そんなつもりは。少し散歩をしていたら、歌が聞こえて…。とても、いい声だったので」  「当たり前でしょ。この声、女神様に貰ったんだから」 そっぽを向いたままながらも、声を誉められたことにはまんざらではない様子だ。  「用が済んだならさっさと行ってくれる?」 言われた通り背を向けると、後ろから慌てたような声が追いかけてくる。  「あ、待って」 サンダルを履きながら、メリハトルが追いかけてくる。  「そうだ。ねえ、あんた”捧げもの”なんでしょ?」  「どうして、…それを」  「判るわよ、わたしと同じ匂いがする。だけど神官でもないのね。まるでお役人みたいな格好だし、喋り方も。おかしな人」 興味津々な黒い瞳が、からかうように見つめている。  今ここで、女官長の養女の気分を害してはまずい。慎重に距離を保ちながら、それでいて失礼のないよう、ヘリホルは視線を地面に落としたまま、言葉を選んで答える。  「少し前まで役人だったのです。それででしょう」  「ふうーん、そうなんだ。だったらずっとそのままで良かったんじゃない? 神殿に仕えてたって、何も良いことは無いわよ。伝統に仕来り、決まりごとに義務ばっかりで。楽に食べていけるかと思ったらそうでも無いし。偉い人の宴席で歌わされたり、結婚式に呼ばれたり…。今月も三件回ったわ。もう、うんざり」  「……。」  「あーあ、わたしも神殿になんか入らなきゃ、今ごろはいい人でも見つけて気楽に生きられてたのになー…」 幼い時から神殿の中で暮らしてきたのだろう。自由奔放だが世間知らずな物言いは、この神殿が豊かな方だということすら気づいていない。  普通の村娘たちは、泥に浸かりながら畑仕事をし、パンを焼くにも自分で粉を引かねばならないのだ。  けれど、それを指摘したところで、メリハトルにはきっと分からないだろう。  「神殿の暮らしも、そう悪いものではないですよ。少なくともここでは、皆に敬意を払われていきて行けます。少なくとも私はそうです。…神官でもない、ただの会計係ですし。それでは、私はこれで」 去ろうとするヘリホルに、メリハトルはつまらなさそうに口をとがらせた。そして、つんと横を向きながら口にした――  「あら、そ。まあ頑張りなさいね。前の会計係みたいに、王様の不興を買って追放されたりしないように。」  「!」 去りかけたヘリホルの足が、ぴたりと止まった。  「王様の不興を…?」 振り返り、彼は慌てて言葉を継いだ。  「どこでそれを? 君、何か知っているのか」  「どうして、わたしに聞くのよ。あんたのほうが詳しいはずでしょ」  「知らない。そんな話、聞いてないんだ。誰も何も言っていなかったし…急に寄進が途絶えたのは知っているけど、それが会計係のせいだなんて、誰も言わなかった。――何があったんだ? 会計係が王様の不興を買うなんてこと…」  「詳しくは知らないわよ。さっき、義母(かあ)様たちが話してるのを盗み聞きしただけだもの」 だが、メリハトルは興味を持った様子だった。ヘリホルのうろたえぶりが面白かったのかもれない。  「なぁに? ほんとに、何も聞いてないの。」  「ああ、何も。働き始めたのは最近のことだし、誰も何も言わなかった。前の会計係は突然辞めたと聞いていて…私も、特に疑問に思わなかった」  「ふうーん。それって、よっぽど知られたくないマズい話ってことよね。戻ったら聞いて見なさいよ。もし誤魔化されるようなら、あんたが信用されてないってことよ。そうしたら、辞めてさっさと別のところ行ったほうがいいわよ。」  「…そうは、…ならないと思いたいよ」 言いながらも、胸の辺りが重かった。知らなかった――想像もしていなかった。  二十年近く前に突然消えてしまった会計係。  同時に途絶えた大口の寄進の記録。  それは、あの几帳面な字を書く会計係自身が、王の不興を買ってしまったせいなのだとしたら。  (神官長さまは、少なくとも知っていたはずだ。多分、ラネブやイビィも…。二十年前なら、あそこにいた全員が) それでいて、誰も、一言も、神殿で起きた事件について話してはくれなかったのだ。  眠れぬ夜を過ごした翌日、女官長は、協議の結果を告げて来た。  毎年の贈り物をしあう秋の季節まで待たずとも、次の収穫時期に前払いとして麦を何袋か送ってくれれば、前払いとして巻物を送ろう、と。  口約束ではなく、文書として残すことも求められた。それは好意の贈り物ではなく、売買契約に等しいもので、今の鷹の神殿の信用度がそんなものだと口にはせずともはっきりと示していた。  それでも、全く応じてくれないよりはずっとましだった。売値も、市場に出回る髪を間接的に入手するよりははるかに安い。  内容を承諾し、写しを受け取ると、ヘリホルは鷹の街を目指し、帰路についたのだった。
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