第三章 邂逅(4)

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第三章 邂逅(4)

 砂混じりの風が吹く中、セティは、見晴らしの良い岩の上に立って風の匂いに鼻をひくつかせていた。  このところ、沙漠を渡る風がひどく乱れている。それというのもあちこちで、人の命を奪うような戦が繰り広げられているからだ。  「アニキー」 ひょっこりと足元から、岩をよじ登って来たカーが顔を出す。  「おう、どうだった」  「駄目でした。全員、ざっくり喉切り裂かれてやした」  「…そうか。」 奥歯を噛んで、彼は額に手をやった。  血の匂い。  風上から流れてくる、流されたばかりの血と死の匂い。  気配を察して駆け付けた時にはもう、襲撃は終わっていた。  ここのところ、「壺の道」のあちこちで、手当たり次第に旅人や商隊が襲われていた。やり口はみな同じ。襲っているのは決まって、あの三人の傭兵たちの率いる小集団だ。おそらく盗賊団『西方のハイエナ』の指示だろう。ゲレグは腕の立つ駒を手に入れたことに気を良くして、見境なしに襲いまわっているようだった。  「あいつら、沙漠を人の血でも赤くするつもりか…? 殺し過ぎだ」  「まったくで。けど、州軍は討伐に来ないでやすね。何してるんでしょうか?」  「こないだ何人も殺されて、警戒してるんだろうよ。並の兵が十や二十、いたところで、連中にゃかなわねぇからな」 異国風の出で立ちをした三人組は、盗賊団の中でも際立っていた。  州軍を倒したという武勇伝も尾ひれがついて広まっている。近隣のならず者たちが沙漠に流れ込んできて、今では『ハイエナ』の人数もかなり膨れ上がっているはずだった。  いつか見た光景だ、とセティは思っていた。  群れて調子に乗ってもいつか、徹底的に打ち倒されるまでのことだ。  この沙漠では、水も、食料も、人が生きてゆくための糧はすべて、豊富には手に入らない。大勢の仲間を食わすほどの余裕など無い。  少人数で、隠れ家を点々としていれば補足されることはない。けれど人数が増えればいずれ、住みよい場所を定めて定住し、目立つ大きなアジトを構えることになる。討伐する側にとっては簡単に包囲出来てしまう。そうして、逃げ場のないまま皆殺しの憂き目にあう。  かつての、父と自分が所属していた盗賊団と同じように。  (なぜ判らない? お前たちは、自ら滅びの種を蒔いているんだぞ) セティは苛立ちを覚えながら、カーを連れて岩を滑り降りた。こんな自殺行為に巻き込まれるのはごめんだ。  「大規模な討伐隊が出るのも時間の問題だ。もう一つか二つ、隠れ家を作っておいた方がいいな。水場のあるところが少ないのが痛いが…。」  「東の丘はどうでやす? 洞窟があるし、岩の間に水の溜まるところがあったでしょう」  「街道に近すぎる。」 セティは、しばし考え込む。  「…だが、候補には入れていい。あの辺りは、『ハイエナ』どもは滅多に来ない。様子を見に行ってみよう。カー、お前は隠れ家を整理して、いつ何があっても逃げられるようにしといてくれ。カイビトにも、あまり遠出するなと言っておけよ」  「あいよう、了解でさ!」 少年は、身軽に岩を飛び越えて、慣れた足取りで崖の向こうの隠れ家を目指して去って行く。セティのほうは、赤い髪が目立たないよう肩にかけていた布を頭と顔に巻きながら、灼熱の沙漠へと一歩、踏み出そうとしていた。  似たような地形の続く砂と礫の大地も、慣れた者にとっては庭のようなものだ。  ほとんど回り道することもなく、彼は目的地の丘へとたどり着いていた。そこは、街道を見下ろす小高い丘で、てっぺんまで登れば「壺の道」を往く旅人の姿が、遠くまではっきりと見えるのだ。  (そういや、あいつを見つけたのもここからだったな…) ふと、何カ月も前の出会いのことを思い出して、彼は思わずにやりとしていた。  あれは実に狩りやすそうな獲物だった。  いかにも沙漠の旅は初めてといった風体の男が、従者を連れて覚束ない足取りでオアシス(ウェハト)を目指していたのだ。狙いを付けた時、ちょうど遠くから砂嵐が迫ろうとしているのが見えたから、カーをこの丘に待たせておいて、相手が嵐に気を取られている隙をついて襲い掛かった。  思えば、不思議な偶然だった。   いつものように殴り倒してその場で身ぐるみを剥ぐだけだったら、ヘリホルの名を知ることも、言葉を交わすことさえ一生無かったかもしれないのだ。  目の前の街道を、あの時と同じように今日も旅人が行く。  身なりと、沙漠に慣れた足取りからしてオアシスの住人だろうか。ロバを引いた数人が視界を横切っていく。  その進行方向にいかにも物騒な集団がいるのに、遠くから見ているセティは気が付いた。旅人たちはまだ気づいておらず、狩人たちのほうが先に獲物に気が付いた。武装した集団が街道を動き始める。  (おいおい、…まずいぞ) こんな白昼に堂々と、街道のど真ん中で旅人を襲うのは、ゲレグの部下たちに違いない。このままでは、旅人たちはなすすべもなく餌食になるだろう。  考えるより早く、セティは動き出していた。丘を駆け下り真っすぐに、両者が出会うと思われる場所を目指して走る。足元に砂が舞い上がり、一歩ごとに体の周囲に風が生まれる。  のんびりと道を歩いていた旅人たちは、ようやく、向かいからやってくる集団が只者ではないことに気が付いた。  慌てて向きを変えて逃げようとするが、重たい水壷を提げたロバを連れていては、そう素早く動けない。あたふたとロバの首を押さえ、うろたえているばかりだ。  「ロバを押さえてろ!」 怒鳴りながら、セティは剣を抜いて旅人の目の前に飛び出した。ちょうど、最初に駆けつけた足の速い盗賊が、石の棍棒を振りかざすところだった。  「おらああっ」 襲撃にいちいち声を上げるのは、慣れていない証拠だ。おおかた、最近盗賊団に加わった小悪党の一人だろう。  セティは動じもせず、かるく攻撃を交わしながら相手の腕に切り付けた。  「ぎゃああっ」  「てめ…!」 追い付いてきた他の盗賊たちは、仲間がやられたのを見ていきり立っている。よくいる、大した腕もないごろつきばかりだ。この程度なら、相手が何人いても大したことはない。  追い払うのには、そう時間は掛からなかった。  殺した人間は一人もいない。それどころか、最初の相手に傷を負わせただけで、残りのハイエナたちは少し打ち合っただけで尻尾を巻いて逃げ出した。わざわざそれを追う時間も惜しい。  剣を腰に収め、やれやれと思っていると、後ろから旅人たちが駆けつけてきた。  「ありがとう、ありがとう! あんたは、命の恩人だ」 砂地に頭を掴んばかりの喜びようだ。親子か親族だろうか、三人とも、よく似た顔立ちをしている。  「あのなあ。俺は別に、あんたらを助けるつもりなんて無かったんだぞ。あっちの盗賊団が気に入らなかっただけで、俺も――まあ何だ、似たようなもんだからな」  「それでも構わんよ。あんたは強い。それに話も通じるだろう? どうだ、オアシスの街まで護衛しちゃくれんか。街に着けば少しは謝礼も出せる」  「謝礼、って。…まぁ、いいけどよ」 ここのところ、ハイエナたちが先に暴れまわるお陰で、セティのほうの「狩り」は巧く行っていないのだった。警戒して大人数の商隊を作るか、護衛を雇う旅人が増えて来ていて、少人数で沙漠を行く都合のいい獲物は、滅多に見つけられなくなっていた。  食べていくためには、食べ物を奪うか、食べ物と交換できる何かを手に入れなければならない。  その手段が非合法な盗みであれ、護衛による正当な報酬であれ、結果は同じことなのだ。  「街って、ヘベトだよな? そこまでだぞ。俺ぁ雇われるのが苦手なんだ。そう長くあんたらに付き合ってはいられない」  「構わんよ。わしらはヌゥトに住んどるんだ。ヘベトまで戻れれば、もうすぐそこだからな。」 気さくなオアシスの住民たちは、ロバの鼻輪を引っ張って向きを変えさせて元のように歩き出す。もうじきオアシスが近いとあって、彼らの足取りは軽い。  「にしても、あんた強いなあ。その腕なら、どこでも食ってけるだろうに」  「言っただろ、雇われるのは好きじゃ無ぇんだ。金持ちの雇い主にあれこれ指図なんてされたら一発でキレちまう。それより、あんたたちのほうこそ、今のご時勢に護衛もなしによく赤い土地を渡る気になったな」  「そりゃあ、そうそう簡単に雇えるもんでもないからなぁ。好き好んで沙漠に踏み込みたがる奴なんて、滅多に居ない。募集して護衛が集まると思うかね?」  「…まあ、それもそうだな。」 破格の報酬を約束するか、よほどのつてを辿らなければ、沙漠の旅について来てくれる腕利きの護衛など見つからない。それこそ役人に頼み込んで、州軍から兵を何人か、貸してもらうくらいでなければ、無理だ。  行く手には、オアシスの緑の端が見え始めている。どうやらハイエナたちともう一度出くわすことは無さそうだった。  街に着いて緑の作る木陰に入ると、人もロバもほっとした表情になる。肌を焦がす太陽の光が和らぎ、喉を焼くような砂混じりの風も、オアシスの中なら届かない。  「本当に助かったよ。じゃあこれ、約束の謝礼だよ」 そう言って、年長の男が荷物の中から取り出した商品の一部を布に包んで手渡す。川沿いまで行かなければ手に入らない、この辺りでは高級品の干し魚だ。  「いいのか? ほんのちょっと一緒に歩いただけなのに」  「助けてくれた礼も含めてだ。あんた、ここで護衛の仕事やったほうがいいよ。街の連中なら金持ちみたいにあれこれ言わんだろ」 人のよさそうな笑みとともに、男はセティの肩をぽんと叩き、その手を上げてロバを引いた。  「じゃあな! わしらはこのまま行くよ。家に妻が待っとるんでな」  「……。」 長年、沙漠で細々と盗賊をやってきたセティからすれば、憎まれこそすれ、人に感謝されるなど滅多に無いことだった。オアシスの街に来るのもずいぶん久しぶりだった。人混みが苦手で、ふだんの街での買い出しなどは、カーに任せているからだ。  だが、せっかくここまで来たのだ。顔を隠しながら、彼は少し街中を歩いてみることにした。  街の様子は、以前とほとんど変わっていない。ただ、商隊は少なく、居ても、ものものしく武装した兵を引き連れた公務の商隊くらいだ。  「…だ、盗賊たちは、北の街道に…」  「王宮に納入するぶどう酒が奪われたら、クビでは済まない…」 深刻そうな顔をして、ひそひそと話し合う声が流れてくる。  「州軍は…」  「ティスが兵を出せないなら、近隣の他州に要請するしか…」 北から南へ、オアシスを辿りながら沙漠を渡る街道はいわば一本道のようなもので、そこを()く者みなが辿る以上、襲う側からすれば待ち伏せなど容易い。  おまけに今、盗賊団の人数は膨れ上がっており、数人の護衛を付けたくらいでは安心できないのだ。  出来ることといったら、見つからないよう祈りながら出来るだけ素早く危険な場所を通り抜けることだけ。  「もうこうなったら、沙漠の主(セト)にでも祈りたい気分だよ」 溜息交じりに、誰かが呟いた。木立の向こうに、集落の端に立つ神殿の石壁が見えている。  「よしなよ、あれは恐ろしい神だよ。神殿にだって祀られちゃいない。ひどい方法で王位を奪おうとして黒い土地(ケメト)を追われた、野心と不誠実の権化じゃないか」  「構わんよ。嵐の神でも、戦の神でも何でもいい。あいつらを、人殺しの悪人どもを退治してくれるんなら。それに、一応は天の女神の息子なんだ。祈った者を呪い殺すなんてことは、しやしないんだろう?」 砂が足元に吹き寄せてくる。街の人々の話し声も、それととも遠ざかっていく。  ここで見るべきものは見たと思い、隠れ家へ引き返そうと、セティは向きを変えた。  その時だ。  「アニキ!」 カーの声がした。振り返ると、少年がぱたぱたと駆けてくるところだった。「来てたんでやすね。アニキが人前に出てくるなんて、珍しいじゃないすか」  「ああ、ちょいと様子見だ。ここの連中、ハイエナどもによっぽど参ってるらしいな」  「へい。『壺の道』の先のティスから州兵が出てこないっていうんで調子に乗って、最近じゃあ街のすぐ近くにも大っぴらに出てくるようになったんだそうで。」 そう言って、少年は眉をひそめた。  「…つい先日も、ここと、ヌゥトの間に出たらしいんでさぁ。オアシス(ウェハト)のど真ん中っすよ? 普通なら、そんな目立つとこで仕事する奴は居ませんや」  「ヌゥトとの間…。」 何故か、胸騒ぎがした。さっき別れた三人組の男たちは、ヌゥトに住んでいると言わなかったか? 家族が待っているから、急いで帰るとも…。  「カー、悪ぃがこいつを頼む。先に戻っててくれ」 セティは、さっき受け取った護衛の報酬をカーに押し付け、街の外へ向かって走り出した。  「わっ、何スかこれ。どこ行くんです? アニキ…」 声が後ろに遠ざかっていく。頭に巻いた亜麻布の端を大きく翻しながら、彼は走る速度を上げた。  風が…、砂に混じって嫌な匂いのする風が、街の外から流れてくる。  街を出た外側は地下水をくみ上げて作られた畑が広がり、まばらにヤシの木が生える緑地だ。その外側に赤い土地が、まばらに生える低木とともに次の湧水地点まで続いている。距離にすればそう遠くはない。けれど、その慢心こそが命取りだ。  「うわぁあ! たっ、助けて…」 悲鳴が耳に届いた。畑の先で、逃げてきたらしい男が一人、地面に倒れ込もうとしている。その後ろから武器を手にした数人が追いすがる。  「待て!」 走りながらセティは、足元に落ちていた水汲み用の小さな壺を拾い上げ、振りかぶって投げつける。当たっても大したことはないが、避ける一瞬の間を稼ぐことは出来る。  「チッ、街の連中の雇った護衛か?」  「構うもんか。一人だけならやっちま――」 言い終わらないうちに、襲撃者の首が飛んでいた。  一瞬の間を置いて、飛び散る鮮血をまともに顔に浴びた側の仲間が、無様な悲鳴を上げた。  「ひぃっ、うわあああっ」 武器を取り落とし、別の一人は腰を抜かしている。解け掛けた亜麻布の端から垂れる赤い髪に気づいて、一人が上ずった声を上げた。  「おま…おま、まさか…」  「去れ。今日の俺は機嫌が悪い」 剣についた血を払いながら、セティは低い声で言い、視界の端をちらりと横切ったものに目をやった。放たれる微かな殺気。咄嗟に一歩、後ろへ飛びすさる。その足元に、畑に突き刺さるように矢が落ちてきた。  弓兵だ。  灌木の間に身を隠しながら、素早く移動している。見覚えのある、三人の傭兵のうちの一人だ。  「おい! そこの弓兵。このボンクラどもに付き合うのは楽しいか? え?」  「……。」 弓兵は、無言に矢を番える。相方の短剣使いが一緒でなくとも、優れた腕前の射手は目の前にいる有象無象を的確に援護して、一段、厄介なものへと変える。  「どけ! 邪魔だ」 セティは迷わなかった。弓兵は仲間の背後に居なければ戦えないのだ。ならば、その仲間を全員倒してしまえばいい。  剣や棍棒を手にした盗賊たちを、セティは片っ端から切り伏せていった。飛んでくる矢に注意を払いながら、時に敵を盾にしながら、だ。  砂の上に赤い血が滴り落ちて染み込んでいく。嫌な気分だ。土地を汚しているような気分になる。  前衛が全員倒されたのを見届けると、弓兵は、さっと弓を肩にかけ、背を向けて一目散に駆けだした。仕事上の仲間に対する愛着は特に無く、庇うつもりは最初から無かったようだった。ここへは、襲撃者たちの援護のために来ていたのだ。援護すべき相手が全滅すれば、自動的に仕事は終わりとなる。  「おい待て! ただ逃げるだけかよ!」 耕作地の端まで走りながら、セティは怒鳴った。  「お前ら、何でゲレグなんかに従ってやがる?! そんなに人が殺したいのか!」 逃げようとしていた弓兵の足が止まった。  距離は十分に離れている。ゆっくりと振り返り、細身のその人物は、低く押し殺した声で、一言、答えた。  「…必要があれば殺す。それだけだ」 はっとして、セティは目をこらした。  どんなに声を偽っても、入り混じるかすかな響きは誤魔化せない。それに、中性的だが、この気配――体つきのかすかな輪郭が、相手の正体をそれとなく語っている。  「お前、女…か?」  「違う!」 弓兵は激しく首を振り、顔の半分を覆う布を反射的に指で引き揚げながら言い返す。  「わたしはヨアキム。海沿いの街の生まれのれっきとした、男だ!」  「ふうん…。東のほうの異教徒の名だな。で? 何しにこんなとこまで来た」  「追われたからだ。我が故郷のクソどもに、この国の連中に。…”よそ者”が生きてゆける土地など、この世界の他に何所にある?! 貴様もそうだろう、赤毛の男? 誰かに追われてここへ辿り着いたのだろうが!」 セティを睨みつけながら、女は、悲鳴にも似た叫びを叩きつけてくる。  「それが、ぬくぬくとオアシスに暮らす連中に雇われるとは! 興ざめだ」 言うだけ言って、またくるりと背を向けた。  ぽかんとしたまま返す言葉も見つからず、セティは、荒野の向こうに駆け去っていく弓兵の背中を、ただ黙って見送っていた。  遺体は、畑の外の砂地で見つかった。  撲殺されるか、切り捨てられた二人の男と、側には切り捨てられたロバが転がっている。割れた水壷から零れ落ちた水が、赤い水たまりの跡を作っている。  さっき気前よくセティに話しかけてきていたあの男も、既に物言わぬ抜け殻となって横たわっている。セティは、腰を屈めて手を伸ばし、二人の恐怖に強張った半開きの瞼を下ろしてやった。  砂を踏んで近付いて来る足音に気が付いて振り返ると、生き残った一人、いちばん年若い男が、蒼白な顔で立ち尽くしている。  「悪ぃな、最後までお前らに付き合ってやりゃあよかった」 呟いて、彼は目を伏せた。「…じゃあな」  風が吹き抜けて、巻いていた亜麻布の下から赤い髪が肩に零れ落ちる。生き残りの男が目を見開いて、震えながらそれを見つめていることに、セティは気づいていなかった。他に考えることは沢山あったからだ。  ハイエナたちは、オアシスの中まで侵入しはじめた。何のために? まさか、集落ごと奪うつもりなのだろうか。いくら人数がいるにしても、そんなことが出来るとは思えないが。  それに、あの異国人の女だ。追われてここへ来た、と言った。――あの三人は全員、そうなのか? 確かに、この赤い土地には大勢の無法者たちが暮らしている。法の及ばないのを良いことに、黒い土地(ケメト)で何かしでかして、追放されるか、罰を逃れるために逃げ込む者もいる。  けれど、そんな連中ばかりというわけでもない。  (追われて逃げ込む? そんなのは、弱い奴のすることだ。俺は自分の意志でここに居るんだぞ。誰かに追われたわけでも、命じられたわけでもない。あいつらと一緒にされてたまるかよ) 岩に足をかけ、彼は身軽にひょいひょいと登っていく。てっぺんから見渡すと、あたり一面に広がる赤い土地が見渡せた。  傾いた、夏の季節よりいくぶん緩まった太陽の光。岩と砂山の作る陰が黒々と落ちている。生まれた時からずっと見て来た光景。  腰に手をやりながら、彼は心の中で呟いた。  (俺には、ここが住む場所だ。あいつらとは違う) 風が肩先を撫でて流れてゆく。空を見上げ、セティは地平線の彼方の気配に注意を凝らした。  (嵐が来るな…) 湿り気のある空気を、風が北から運んでくる。赤い土地には雨はほとんど降ることがないが、この季節、辛うじて雲の切れ端くらいは届くことがあるのだ。  隠れ家へと急ぐセティの頭上で、黒い雲の間に閃光が走り、低い唸り声が微かに大気を揺らしていた。
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