第四章 鷹の願い(1)

1/1

40人が本棚に入れています
本棚に追加
/29ページ

第四章 鷹の願い(1)

 日差しに太陽のぬくもりが戻って来るとともに、一年で最も忙しい、麦の刈り入れ時期が訪れようとしていた。  神殿を囲む畑には色づいた穂が一面に広がり、春風にそよいでいる。村人たちは、早く種を蒔いた畑から先に鎌を入れ、藁を使って手際よく束にまとめると、畑の真ん中の干し竿に吊るしていく。落穂を狙う小鳥たちを追い払って穂を集めるのは子供たちの役割で、この時ばかりは別の商いのため街の方に出ていた親族たちもみな集まって来るのだった。  ヘリホルは、出納帳を片手に忙しく畑の間を歩き回っていた。虫や病気にやられた畑が無いか、収穫が進んでいるかを調べるためだ。  種まきの時に見積もった収穫量の予定から、神殿の収入として納めてもらう税が決まる。増やすつもりはなかったが、もし予定より収穫が大幅に減っているのなら、少し遠慮するつもりだった。  「ああ、ちょっと、ちょっと。神殿のお役人さん」 畑の端で赤ん坊をあやしながら弁当の番をしていた年配の女性が、笑顔でヘリホルに手招きする。”お役人さん”というのは、村人たちがつけたヘリホルのあだ名だ。  「ちょうど野菜が少し余っているのよ。あとで神殿の台所に届けさせるからね」  「いつもありがとうございます。」  「あんた、ちゃんと食べてるの? 相変わらず、そんな細い腕のままで。仕事ばっかりで籠ってるんじゃないでしょうね。若いんだから、しっかり食べるのよ? いいわね」 軽く頭を下げ、ヘリホルはその場を通り過ぎる。  畑のふちに生えたナツメヤシの木陰は心地よく、歩いているだけで気分が弾む。  振り返ると、緑の向こうに、はるか遠くの川を背に立つ神殿の壁が小さく見えていた。かつては白く輝いていただろう壁の色は、裏から見るとあちこち剥げ落ちたままだが、表の方は、機会を見つけてネシコンスが塗りなおしてくれているはずだった。  彼の職場。  ――その場所で起きた、二十年近く前の悲劇のことを知るだろう村人たちは何も言わず、ただ穏やかにヘリホルに笑いかけるだけなのだった。  イウニトの街から戻ってすぐ、ヘリホルは、思い切ってハルシエスのもとを訪ねた。  かつて神殿で働いていた前任の会計係が、「王様の不興を買って追放された」という話について、だ。  彼がその話を口にした途端、ハルシエスは目に見えて狼狽え、「どこでその話を」と上ずった声で聞き返した。   「牛女神の神殿です。あちらの女官長様は、ご存知のようでしたが」  「…そう、か。確かにあの方なら、当時のごたごたも覚えているな」 顎に手をやりながら、ハルシエスはため息をとともに重たい口を開いた。  「知られずに済むならば、そのままでよいと思っていたのだ。醜聞だから、ではない。そうせよと命じられたゆえにだ」  「”命じられた”?」  「忘却の刑だ。」  「!」 それは神罰を得た罪人に課せられる、最も重い刑の一つだった。  忘却とは文字通り、この世に生きた証の全てを消されることを意味している。一切は存在しなかったものとして葬られ、家族も、身内も、以後はそれについて話すことを禁じられる。墓はもちろん、死者のための祈祷書に名を記すことそえ許されず、名も無き死者はあの世においても、神々の裁きの法廷に立つことは許されない。  死してなお永遠の闇の中を彷徨い続けよ、という、恐ろしい呪詛でもあった。  「それほどの不興を買うとは…一体何をしたんですか?」  「想ってはならぬ者と結ばれたのだ。かつて、供物と共に訪れたウアセトからの使者の中に、美しい高貴な女性がいた。遠い昔の、古い王家の家系に属するという、由緒正しき家柄の女性でな。『アメンの神妻(ヘメト・ネチェル)』。都の守護神の聖なる伴侶。本来ならば触れることもかなわぬ相手だ。それなのに彼の者は…こともあろうに、その者と同衾した。真面目で、物事をわきまえておった彼を一体どんな邪心が(そそのか)したのかは知らぬ。私も、知らされたのはずっと後になってからのことだった。」 ハルシエスにとっても辛い思い出なのだろう。神官長は苦い顔のまま、一言ずつ、噛みしめるようにして語っていた。  「裁きを受けるために、彼は連れて行かれた。そして…そのまま戻っては来なかった。おそらく極刑に処されたのだろう。神の妻に手を出し、その怒りを買ったのだから。相手の女性も、神罰によって呪われた死に方をしたという。ああ、すまぬな、私もあまり多くは語れない。全てはまた聞きなのだ。彼と仲のよかったラネブも、あの時いらい変わってしまった。誰ももう、思い出したくはないはずだ。これ以上は話してやれることもない」  「いえ、十分です。そういう事情なら仕方がありません」 ヘリホルは頭を下げ、微かにでも疑ったことを恥じ入っていた。  この神殿の人々は、前の会計係のことを、わざと言わずに隠していたわけではないのだ。  そしてあの、ほとんど手も付けられていないまま残された、ほこりまみれの書庫の意味も理解した。  ――あれは、連れ去られた仲間がいつか戻って来るのでは、という、彼らの当時の淡い希望を、そのまま示していたのに違いない。  けれど何の音沙汰もなく、一年が経ち、二年が経ち、…いつしか誰も、途切れた仕事の続きを始めることが出来なくなっていた。  寄進が途絶えた理由にも納得した。王権の守護者を祀る神殿でありながら、身内の不祥事で都の守護神の怒りを買ったのなら、もはや誰も、王族も貴族も、この神殿に関わろうとは思うまい。  「このことは、胸に留めておくように。もしお前が知っているとなったら、誰が洩らしたのかと咎められるやもしれぬ」  「ええ、判っています。話していただいて、ありがとうございました」 あの日いらい、そのことについて誰かと話したことはない。年配の村人やラネブたち神殿の古参と話していても、匂わせるような言動さえもない。  けれど、人の記憶はそう簡単に消せるものではない。  みな、忘れてしまったわけではない。ただ思い出さないようにして、過去を、記憶の奥底の暗がりに、閉じ込めているのだった。  最初の収穫が終わり、大きな麦の袋がいくつか出来上がった。  「よし、これでイウニトから紙を送ってもらえるぞ!」 残りも、量を記録して食糧庫に積み上げた。あとから収穫された分は、これから続々送られてくるだろう。一人でもなんとかなったことに、ヘリホルはほっとしていた。  「あらぁ、随分と量があるのね? 去年なんか、この半分くらいじゃあなかったかしら」  「そりゃ誰か誤魔化してたんでしょ。だぁれも確認しないんだもん。だからあたしはいつも言ってたじゃない、きちんと数えなさいよって」  「そんなこと言ったって、正しい量がいくらか判らなかったんだからね。巻物なんか見てもちんぷんかんぷんだし。ラネブのじいさんとイビィがいけないのよ、文字が読めるのに仕事をしないんだから」  「わしゃあ計算は苦手じゃし、目も悪いんじゃぞ」 首から筆記具を提げた筆写係のイビィは、言い訳がましく呟いた。  「そもそも、お前さんたちがちぃとも手伝ってくれんからじゃ」  「何ですって?!」  「まあ、まあ。そういきりなさんな。これからはヘリホルが居てくれるんだ。なぁ?」 ネシコンスは、口元に大きな皺を作りながら笑った。  と、ふとアセトが辺りを見回した。  「そういえば、今日はラネブを見かけていないわね。神官長のところ?」  「表の祈りの間じゃないかな? ここんとこ、参拝者がちょくちょく来てるから」  「ああ、仕事してるってことね。それじゃあイビィ、あんたも行かないと。ほれ、行っといで」  「人使いの荒い…。」 ぶつぶつ言いながらも、老人は台所を去って行く。ネフゥトは箒を手に裏口から外へ。ヘリホルは、ネシコンスの手を借りて、イウニトへ送る麦を何袋かロバに乗せた。港まで行って、イウニトへ行く船を見つけて運賃を支払い、ついでに届けてもらえるよう頼むのだ。  「一人で大丈夫かい、ヘリホル」  「大丈夫。このくらい手伝ってもらわなくても何とかなります」 ロバを引いて船着き場まで行き、ちょうど船出しようとしていた乗合いの船に荷物を預け、ほっとして引き返そうとした時、ふとヘリホルは、見慣れた顔が港の端にいることに気が付いた。  老神官のラネブだ。てっきり、神殿のいると思っていたのに。  (珍しいな、こんなところにいるなんて…) ラネブは、魚売りの男と話をしている。口調からして昔馴染みのようだ。  話しかけようと思ったが、それより早くラネブは話を切り上げて、短い別れの挨拶とともにその場を立ち去り、神殿のほうに向かって歩き出した。ヘリホルが立って見ているのに気づいて、雑談を終えた魚売りの男が声をかけてくる。   「おう、いらっしゃい兄さん。どうだい、ひと籠、買って行かないかい」  「いや、今のところ必要はない…。私は奥の神殿で働いているんだが、今の神官とは、知り合いなのか?」  「おうよ、母の姉の息子だ。小さい頃はよく遊んでもらったものだよ。ん? もしかして、あんたが最近来たっていう新しい会計係かい」 聞けば、男は川の対岸の村の出身だという。ラネブとは親族同士、神殿が困窮していた頃にはそれとなく、支援出来る限りの食料を届けていたのだそうだ。  「あの人は昔から頭が良くてな、神殿の学校で成績が良かったんでそのまま留まって神官になった。それが、あの神殿もずいぶん寂れちまってなあ。実家に帰ってくるか、よその神殿に行っちゃどうかと皆で勧めても、頑として首を縦に振らなかった。真面目だったのが急にふざけたようになっちまって、頭がおかしくなったんだとか噂されてたよ。どうだい? 調子は。あの人、相変わらずあの調子なのかい」  「ええ、陽気な感じは変らないですね。真面目…想像もつかないな」  「ははっ。昔は堅物だったんだよ、そりゃあもう、絵にかいたようなご立派な神官様さ。今のあんたよりもっとお高く留まってた。おっと、悪気はないんだぜ。これからも、うちの身内をよろしくな。ほらよ、こいつはご挨拶代わりだ。持って帰りな」 言いながら、男は大きな魚を一匹、しっぽに藁ひもを括って寄越した。  思いがけない贈り物に礼を言ってから、ヘリホルは、港をあとにした。  ラネブは忘却の刑にされた会計係とは仲が良かったと、ハルシエスが言っていた。友人が恐ろしい刑にされたことが、彼を変えてしまったのだろうか。  神殿に戻って台所をのぞいてみると、アセトが、大張り切りで夕食の準備をしていた。籠にはたくさんの新鮮な野菜が積み上げられている。村人が持ってきてくれたものだ。  「これ、港で貰ったんだけど」 ヘリホルが大きな魚を差し出すと、彼女は大喜びで手を叩いた。  「あら凄い! 新鮮でたっぷり身も付いてるじゃないの。こんなの久しぶりだね! よし、今夜はごちそうだよ。収穫祭はまだ先だけど、生ものは待っちゃくれないんだし!」 うやうやしく魚を受け散った料理人は、鼻歌混じりに包丁を手にする。任せておけば、いつものように素晴らしい夕食に変えてくれるだろう。  部屋に荷物を置きに戻ろうとした時、ヘリホルは、中庭に立ってぼんやりと神殿の奥を見つめている老神官の姿に気がついた。  何か言いたげな、というより何か話しかけているような表情で、至聖所のほうを向いて立っている。奇妙な光景だった。祈りをささげるなら、床に膝をついて拝礼するものだ。けれどラネブは直立したまま、表情も虚ろに、まるで、白昼夢の中にいるようだった。  いつもの彼とはあまりに違う。体調でも悪いのだろうか、とヘリホルは少し心配になった。  けれど声をかけるのはためらわれ、迷ったすえに、結局彼はそのまま回廊を通り過ぎた。心配は杞憂だったのか、夕食時に食堂にやってきたラネブはいつもの調子で、賑やかに料理についてあれこれ騒いでアセトにどやしつけられていた。  収穫期の終わりが近づく頃、ついに待ち望んでいた荷物がイウニトの街から届いた。  裁断前の大きな巻物だ。それも真っ白で上質な、品質のいいものがいっぺんに二本もだ。筆の滑りのよさそうな出来立ての紙のなめらかさに、ヘリホルは、うっとりと指を滑らせた。こんな良い紙は、役人時代にも滅多に手にしたことがない。  「ほぉー、こりゃあ上物じゃわい。あちらは、よっぽどお前さんが気に入ったんかね」 様子を見にやってきたイビィも、巻物の端をそっと広げる。  「そういやあ、これが届いた時にもう一つ、小さい巻物がくっついとらんかったかね?」  「あれは神官長さまへの手紙ですよ。牛女神の神殿の女官長さまからのようでした」 手紙は、蜜蝋の封を切ることなくハルシエスに渡してある。昔馴染みからの久しぶりの手紙だ。いつも陰鬱な顔をしているハルシエスにとっても、明るくなれる話題が書かれていると良いのだが。  神殿にはいつものようにまばらに参拝者が訪れており、イビィは、ラネブを手伝うために表の祈りの間に戻って行った。書庫に残ったヘリホルは卓に紙を広げ、どう裁断したものかと頭を悩ませていた。  その時、ふと、戸口に人の気配を感じた。顔を上げるとハルシエスが巻物を手に立っている。何やら慌てたような表情をしている。  「ヘリホル、…」言いかけて、神官長は言葉に詰まった。よほど慌てているのだ。滅多に無いことだ。「祭りをしなければならない」  「祭り?」 彼は、首を傾げた。  「ああ、前に聞いた、この神殿とイウニトの神殿で同じ時期にやるという、あの祭りですか。まだ先でしょう?」  「そうだ、その祭りだ。その祭りに、イウネトから、女神を模した楽団を送ると言ってきているのだ――」  「え?」 思わず聞き返していた。イウニトの神殿からこの街に、あの、きらびやかな少女たちの楽団がやって来る?  「祭りが盛り上がるだろうと、女官長は言っている。ああ――確かに古えよりの習わしでは、神像がこの街まで運ばれてきていた。そもそもこの祭りは、牛女神が夫である鷹神を年に一度、訪ねていたという神代の言い伝えが元なのだ。断る口実も思いつかぬし、一体どうすれば良いのやら」  「…受けるしか、ないのでは? それに祭りも盛り上がるでしょう。たぶん…。」 言いながらヘリホルも、神官長と同じく不安になっていた。  少し前まで寂れ放題だったこの神殿には、おまけにイウニトの神殿のような華やかさも、きらびやかな楽団を滞在させる宿舎さえない。少女たちが呆れ顔をしてさんざん悪態をつくさまが、今から目に見えるようだった。  「じゅ、準備を…しなければ」 ハルシエスの擦り切れたサンダルと、端のほつれた袈裟とに目をやりながら、ヘリホルはなるべく心を落ち着かせようとしていた。  「期間は? どのくらいありますか」  「祭りは牛女神の(ハトル)月に行われる。今は月神の(コンス)月だ」  「…半年も無いですね。何とかする方法を考えてみます。」  「ああ、頼んだ。お前が頼りだ…。」 呆然とした様子のまま、神官長は返事をしたためるため自室に去っていく。忙しかった収穫の時期が終わろうとしていることなど、一気に頭から吹っ飛んでしまった。  つまり牛女神の神殿固く拳を握りしめてからの取引の条件は、麦の袋だけではなかったということだ。  目の前にあるこの高級すぎる贈り物は、ただの好意からではなく、依頼を断れなくするためのものだった。  長らく途絶えていた祭りのならわしを復活させる代わり、上手く役目をこなせなければ今度こそ縁を切る。それは女神からかつての夫への、最後通告に等しい試練なのだった。この先も鷹神の神殿が牛女神の神殿と付き合いを持ち続けるには、何としても、祭りを成功させなければならない。  (まずは舞台だ。楽団を歌わせる舞台…宿舎と食べ物。神官長さまのあの格好もどうにしかしないと威厳が保てない。それに、そうだ。今は下働きの下級神官には、何も服を着せていない…。) 必要なものを書き出していくだけで、手元の筆写板は一杯になってしまう。  額を計算するまでもなく、到底、今年の収穫分だけでは間に合わない。夏に果実の分の収入が付け足されるにしても、だ。  (亜麻布なら、裏の村でも取れる。神殿の所領から手に入れれば、買うよりは安く上がる。祭りの日に振る舞うご馳走はどうすればいい? 肉は? …どんな食べ物を出せばいいのかは後でラネブに聞いてみよう。牛女神の祭りなら、牛肉はきっとだめだろう。魚? それならラネブの親戚に頼めるかもしれない。塗りかけの神殿の壁も仕上げないといけないし…それから…) 考えているだけで頭が痛くなりそうだ。とにかくこれは、神殿にいる全員でとりかからなければ成功しない。近隣の村や街の人々の協力も必要だった。  上等な紙の贈り物も、今となっては、うらめしいばかりだった。 * * * * * * * * *   小麦の収穫の頃は、沙漠にとっては砂嵐の季節だ。日々、上機嫌な嵐の神が空を駆け巡る。空の下の方は黄色く煙ったような色に変わり、見渡す地平のどこかでは、いつも黄色く風が起きている。  いつもの年なら、この季節に旅をする者はあまり居ない。急に天候が変わって嵐になれば、道を見失ったり、積み荷や家畜に被害を被ったりするからだ。獲物の減ったハイエナたちは、今ごろどこかで飢えた牙を研いでいる頃だろうか。それとも、もっと大胆に、オアシスを直接襲っているのだろうか。  オアシスの様子を見に行ったカーが戻ってきた。少年の話では、どうやら後者のようだった。  「ヘベトだけじゃありやせん。オアシス(ウェハト)の街はどこもひどい警戒っぷりで、住人たちは皆、昼間っから武装してやす。手あたり次第に襲われてるってんで、隣村に行くにも何人も固まって動いてるらしいですよ」  「とんでも無ぇ話だな…」 セティはため息まじりに首を振る。たかが盗賊が、いつまでも好き放題出来るわけがないのだ。調子に乗っていたら、いずれ手ひどいしっぺ返しを食らうことになる。ひと時の栄光のために考え無しにことを大きくするなど、彼には到底受け入れがたいことだった。  「そんで…妙な噂を聞いたんで。」  「噂?」  「何でもヌゥトの住人が、セトの代理人を探しているとか。盗賊から助けてくれた、赤い髪をした若い男だったって…それって、アニキのことじゃないっすか」  「俺? まさか。姿を見られるようなヘマは…」 言いかけて思い出した。  少し前、一度だけ、ちょうど目の前で盗賊に襲われそうになっていた三人組を助けたことがある。最後に生き残った年若い一人には、はっきりと顔を見られていたはずだ。  「…まさか、あの時の」 剣を掴むと、セティは、辺りの空を見渡した。嵐が来そうな気配は無い。  「俺としたことが、口止めを忘れるなんてな。ちょっと行ってくる。もし俺のことを言いふらしてんなら、余計なこと言うなと口を塞いでおかねぇと」  「へい、お気をつけて」 カーと、黒犬のカイビトに見送られ、彼は足早に隠れ家を後にした。  ゲレグたち『西方のハイエナ』が暴れ出してから、隠れ家の中は整理され、必要最低限のものだけが、すぐに纏めて逃げられるよう集められている。水壷やその他の生活用品も、何か所かの代わりの隠れ家に分散して隠してあった。  もし万が一ここが突き止められても、周辺の入り組んだ地形を知り尽くした彼らなら、うまく逃げおおせられるはずなのだった。  半信半疑にオアシスに出向いたセティを待っていたのは、思った通り、あの時の生き残りの若い男だった。  しばらく前から「赤毛の男」を探し周っているという男について、人づてに聞きながら辿り着いた先は、ヘベトの街にある神殿の前だった。疲れた様子で入り口に座り込んでいた男は、近付いてくるセティに気づいて、勢いよく立ち上がった。  「あっ!…」 亜麻布で顔を隠しながら、セティは慌てて手を振った。  「声上げんな。おい、お前。どういうつもりだ? 俺を探し回るなんて」  「助けて欲しいんだ。他に頼れる人もいなくて…」 若い男は人目もはばからず、しくしくと泣き出した。  「かあさんが病気なんだ。川沿いの街から薬草を仕入れて飲ませてる。前に手に入れた分はもうじき尽きてしまうから、また行かないといけないのに、とうさんも、にいさんも殺されてしまった。ぼく一人で盗賊のいる沙漠を渡るなんて無理だ」  「知るか。お前もう一人前の年だろ? 自分の力で何とかしろ」  「かあさんには、他に身よりもいないんだ。ぼくが死んだら、きっとかあさんも死んでしまう…」 男の涙には、嘘偽りは無いようだった。溜息をつきつつも、セティは、少しばかりは心を動かされた。  いつもならこんな頼みをされても蹴飛ばすところだが、あの時、あともう少しだけ一緒に行っていればこの男の父と兄は死なずに済んだのだ、という負い目もあった。  「ああ、判ったよ。判ったからもう泣くな――報酬は払えるんだろうな? 安くはないぜ」  「ええ勿論です――助けて貰えるんだね!」  「今回だけだぞ。それと、セトの代理人なんて大それた名前を吹聴するな。俺は、ただの人間だ。戦の神みてぇに何でも打ち倒す力は無ぇんだからな」 それでも若い男は、勢いこんで頷いた。一人前になる年頃とはいえ、まだ年若く、一家の主人としてはやや頼りない。  値切りや交渉という概念もなく、報酬はいくらでも出すと張り切る男に、セティは、一抹の不安を覚えた。よほどの金持ちだったのか、いつも父や兄に頼りきりだったのか。  だがそれも、旅の支度を整えて集合した時に理由を知った。  往きの商品はぶどう酒だという。神殿や貴族に卸すための品。つまり、高級品だ。  「ぼくはぶどう園で働いていて、王様のところに収めた残りを給料代わりにもらうんだ。いつも、それを黒い土地(ケメト)の街まで持っていって品物に換えてくる。」  「ほぉ。ずいぶんと気前のいい荘園主だな。売りに行くのは手間だが、給料としちゃあ悪くない」 ぶどう酒は滅多に出回らず、大きな街ならば、売り手の言い値で売れていく。駆け引きも値切りも、この商品を扱う限りはあまり縁が無い。  「それじゃ、さっさと行くか。目的地は川沿いの街だな? 最短距離で川まで出る。それでいいか」  「最短、…って、え? 『壺の道』を行くんじゃないの」  「阿呆か、街道沿いなんて、盗賊に襲ってくれと言ってるようなもんだぞ。街道に頼らなくても沙漠を突っ切ればいいだろうが。ったく、そのために俺を雇ったんじゃねぇのかよ」 ぶどう酒の壷と、水壷とを交互に提げた数頭のロバをちらと見やってから、セティは、方角を見定めた。  「――この先だ。途中に水場は一か所だけ。水量はそう多くない。万が一枯れてた時は、その酒の壷をからにすることになる。覚悟はしとけよな」 道なき沙漠も、彼にとっては庭の一部だ。けれどそれでも、川べりの「黒い土地」の近くまでは、一度も行ったことがない。  住み慣れた「赤い土地」から見た境界の小高い山々から先は、彼の知らない世界なのだった。
/29ページ

最初のコメントを投稿しよう!

40人が本棚に入れています
本棚に追加