第一章 獅子と鷹(2)

1/1
40人が本棚に入れています
本棚に追加
/29ページ

第一章 獅子と鷹(2)

 目を覚ましたのは、ひんやりとした岩の上だった。  (ここは…) 意識がはっきりしてくるとすぐ、口の中の不快感に気づく。砂だ。薄暗い洞窟のような場所。起き上がってヘリホルは、急き込みながら口の中に張り付いた細かな砂を吐き出そうと試みる。けれど、からからに乾いた口からは、砂粒は巧く剥がれ落ちてくれない。おまけに頭痛が酷い。どこかにぶつけでもしたのか、後頭部が、ひどく膨らんでいるようだ。  「ごほっ、ごほっ」  「ほれ、そこに、水があるだろ。」  「ごほっ、…?」 目が慣れてくると、壁から出っ張った岩の端を椅子のようにして腰かける、若い男の姿が目に入った。珍しい赤毛に、褐色に日焼けした引き締まった身体。それに、昼間じゅう放たれる太陽の腕をかわすために工夫された、風通しの良いたっぷりとした長衣。典型的な「赤い土地」の民の風貌だ。まだ少年のようにも見えるその男は、荷物から取り出したのか、懐でも探ったのか、ヘリホルが携えてきた地図を勝手に眺め回している。  男の指した方へ顔を上げると、それまで気付かなかった水壷が、彼の寝かされていた粗末な茣蓙(ござ)の直ぐ側に、柄杓と一緒に置かれているのが見て取れた。ここは、誰かの住まいなのだ。おそらくは、目の前にいるこの男の。  だが、問いかけるのはまともに喋れるようになってからでも遅くない。  勧められたとおり、柄杓を手に、口の中をゆすいで一口、二口。乾ききった沙漠に水が沁みわたるように、体の中に生命の流れが吸い込まれていくのが判る。これで今しばらく、命を長らえられる。  「ありがとう。あの、それで、ここは…」 安堵の溜息とともに柄杓を置き、振り返ろうとした時、――彼の喉元に、鈍く光るものが突きつけられていた。  「で、あんた名前は? 出身と身分は。役職でもいいや。身元らしきものは、荷物の中には無かったからなぁ」  「は? わ、私は怪しい者では…名はヘリホル、ティスの街の会計役人だ。しがない文官だよ。普段は、納税書類の書きつけを管理している。州知事殿からの言いつけで、この辺りに…」  「ふーん、下級役人かー。」 赤毛の男は、残念そうな顔をして、少し短剣を引いた。「んじゃ、大した身代金は取れそうにないなぁ。あっちの二人もロクなもん持ってなかったし、こりゃ久々に見込み違いか」  「見込み、って…」  「決まってるだろ。稼ぎの、だよ」 ヘリホルの脳裏に朧げに、意識を失う直前の光景が蘇って来た。砂嵐に呑まれた直後、暴風の中で一瞬だけ見えた赤毛。その後に襲って来た衝撃。今もずきずきしている後頭部の大きなたんこぶ…。  はっとして、思わず叫んでいた。  「ま、まさか、盗賊か! あの時、私を殴って気絶させたのは君だな?!」  「『君』? きみ…きみって、あははっ、あははは。こりゃあ傑作だ。本物のお役人様だよ~」  「な、何が可笑しい!」 ヘリホルが険しい顔になっても、男は笑うのを止めない。よほど役人めいた口調が可笑しかったらしい。  ひとしきり大笑いしたあと、赤毛の男はヘリホルの前に片膝をついた。真顔に戻っている。  「で? お役人様が、一体なんだってこんな辺鄙なところに迷いこんだんだい。この先のオアシスはエドフの管轄地じゃ無ぇだろ? 伝令にしても、公文書も持って無かったしな」  「……。」  「こいつは何だ? 大事そうに懐に入れてたが」 男は、さっき見ていた地図をヘリホルの目の前にひらひらと翳して見せる。「何かの地図のようだが?」  口調こそ冗談めかしているが、目は笑っていない。それにもう片方の手にはさりげなく、さっき突き付けられた短刀が握られている。使い込まれた鈍い輝きは、これがただの脅しなどではないことを物語っている。  ヘリホルは小さく息をつき、諦めて口を開いた。極秘の任務でもないのだ、洩らしても咎めは受けないだろう。  「――そう、地図だ…。私の任務の目的地を示している。」  「目的地、とは? 描かれているのはオアシスじゃねぇようだが」  「古い鉱山だよ。貴石が出るらしい。前王朝の時代に採掘されていたが、その後のどさくさに紛れて場所が分からなくなった。書庫の奥から古い記録が見つけ出されて、それで、知事殿の命で、私が探しに行くことになったんだ」  「貴石、だと」 男の目が一瞬、きらめいた。だが、それも一瞬のことだ。話に惹かれたことなどすぐに覆い隠し、何食わぬ顔で話を続ける。  「この辺りでそんな話は聞いたこともないな。どこまで信ぴょう性がある? 忘れ去られたんじゃなく、掘りつくされて放棄されたんじゃないか?」  「その可能性も、あるな」 ヘリホルは渋い顔で頷いた。  その可能性は、彼自身も、同僚たちも再三、上司に進言したのだ。地図がどこまで正確か分からない上に、まだ採掘の余地があるかどうかも見えないのだ。そんな不確かな情報を頼りに、わざわざ危険を冒して「赤い土地」に出かける必要など何処にるのか、と。  だが知事は、頑として受け入れようとしなかった。  「それにお前は文官だと言ったな。何で文官が出てくる? こういうのは、軍隊あたりの仕事だろう」  「それも進言したさ。せめて従者のほかに護衛を何人か付けて欲しい、沙漠の無法地帯には盗賊も出るのだから、とね。だが却下されたんだ。まだ何があるかも分からないのに、事を荒げたくない、と。――大々的に探索に出かけて空振りだったら恥ずかしい、そういうことだ。それで、地図の文字が読めて体力のある若い文官の間で、神託の間でくじを引いたんだよ。で、」  「あんたが当たりくじを引き当てた? ほほー、なんだなんだ。あんたらの神様ってのは、実に見る目があるじゃないか、ん?」 男は妙に嬉しそうだ。「喜べよ、あんたは見事、心配してた『盗賊』に出くわしたんだぜ。」  「ああ、まったくだ。こればっかりは、私の守護者である鷹神を恨みたくならないでもない。だが」彼は顔を上げ、毅然とした顔できっぱりと言った。「これが神託によって私に定められた運命なのだ、受け入れる他にない。それにな、私は命ある限りは、自分の仕事はきちんとこなすつもりだ。さあ、話はもう分かったんだろう? その地図と、それから、私のサンダルだけは返してくれ。素足で砂を歩くのは無理だからな。他の品とロバはくれてやる」  予想外の反撃に逢い、男は一瞬、驚いたような顔をした。盗賊に軟禁されて短剣まで突き付けられていながら、この目の前のひょろりとした、腕も白いいかにも弱そうな文官は、まだここから生きて出られるつもりでいる。しかも、こんな風に言い返してくるとは。  男の顔に、次第に笑みが広がっていく。  「ふふ、ははは」  「何だ。なぜ笑う」  「可笑しいからさ。こいつは傑作<神の御手による賜物>だよ、まったく」額に手をやりながら肩を震わせ、男は、わざと勿体ぶるような笑みを見せた。「ほら、返してやるよ。だが、ここからオアシスを目指すってぇんなら、ちょいと考え直したほうがいいぜ。」  「何故…?」  「何故って、ほら」 立ち上がって、男は傍らに垂らしてあった厚い布を引いた。途端に、まばゆいばかりの外の日差しが差し込んでくる。  思わず手を翳し、眉間にしわを寄せながら目を凝らすことしばし。ヘリホルの目にようやくのこと、洞窟の外に続く果てしない赤い沙漠と、入り組んだ奇妙な岩の柱が見えて来た。「壺の道」から見えていた景色とは全く違う。  「……。」  「ここを渡っていくのかい、水も、目印もなしに?」 呆然としているヘリホルの隣で、くっくっと男が笑う。  「ど、どちらに行けば…」  「ああ、方角的にはこっちさ、北天の星々(疲れを知らぬ者たち)の浮かぶ方だ。ただし途中にサソリだらけの谷があるがな?」  「迂回の道は」  「あるにはあるが、俺らは岩の形で覚えていてね。あんたに口で伝えて、覚えきれるかな?」 そう、なのだ。  ヘリホルはようやく悟った。ここは――盗賊の隠れ家は、あの「道」からは、ずいぶんと離れた場所にあるのだ。そう容易く見つかる場所ではないからこそ、こうして、周囲の風景を見せても余裕でいられるのだろう。そして彼らには、使い物にならない獲物をわざわざ生かしたまま安全な場所まで送り届ける義務などない。  黙りこくっているヘリホルを覗き込むようにして、男は囁いた。  「なぁ? お役人さんよ。取引をしないか?」  「取引…だと」  「ああ。その地図の場所を探すのを手伝ってやるよぉ。見つけた鉱山にもし何かあれば、俺らの懐は潤うし、取りっぱぐれたあんたの身代金の埋め合わせも出来るだろう。あんたはご自分のお仕事を無事完了。悪い話じゃないだろ?」 ヘリホルの顔が、さっと青ざめた。  「盗賊を、鉱山の場所まで案内しろというのか?!」  「おいおい、何もそんなに構えなくてもいいだろ。自分で認めたじゃあないか、『掘りつくされて放棄された可能性もある』ってな」  「それは…。」  「これは、あんたのほうに分のある取引だと思うぜぇ? 俺はこのへんの地形も危険もよく知ってる。それに一緒なら同業者も手出しはして来ねぇ。あんたの仕事は鉱山を見つけることで、保護することじゃあない。あんたは地図を読む。俺は地形と風を読む。役割分担も完璧だな。どうだ? いい話だろ」 ヘリホルには他の選択肢は無かった。もし断れば、今すぐここで喉を掻ききられるか、道も判らぬまま放り出されて野垂れ死にだ。それに、認めたくなかったが、この男の言うとおり、この取引はヘリホルのほうが有利だった。  「…分かった。」  「んじゃ、交渉成立だな。」 にやりと笑って、男が右手を差し出した。  「俺の名はセティだ。」  「セティ…」 奇妙な運命のめぐりあわせにぼうっとなりながら、ヘリホルは、男の名を繰り返した。  それは、いかにもこの男に相応しい名のように思われた。  名に込められた神名は、この茫漠たる無情の赤い沙漠の主だったからだ。  「さて、と」 取引成立の握手のあと、短剣をするりと腰の鞘に収めながら、セティは、洞窟の奥のほうにあごをしゃくってヘリホルを促した。「ここを案内しておく。便所に行くのに迷われても困るからな」  「……。」 用心しながらも、ヘリホルは後に続いた。とにかく今は、この男の気分を損ねないようにしなければ。その名の示すとおり、粗暴にして混沌の担い手たる荒野の神の如き性格ならば、大人しく従うに越したことは無い。それに、もし巧く鉱山を見つけられたとして、その後も生かしておいてもらえる保証はどこにも無い。それとなく周囲の地形を探って、オアシスまでの逃走経路を見つけなくてはならないのだ。  そんなヘリホルの計算に気づいているのか、いないのか、セティは、振り返りもせずに慣れた足取りで岩をくり抜いて作られた盗賊の砦を歩いていく。階段を下り、岩の割れ目に指し渡された板を越え、ぐるぐる回っているうちに次第にどこを歩いているのか判らなくなってくる。  どれくらい、歩いただろう。  「そうだな、お前の寝床はここにしよう」 ふいに、そう言って男は立ち止まった。目の前に大きな窓――のような穴が、ぽっかりと口を開けている。岩を掘り込んで作られた水盤があり、その脇に、なみなみと水がたたえられた水壷がいくつも並べられている。  「この水は、どこから」  「あ? そこからだ、決まってるだろ」 セティは、窓から垂らされた縄と、つるべを指さした。窓からのぞき込むと、すぐそばの岩の割れ目から、細い水の流れが染み出しているのが見えた。なるほど、ここには地下水が湧き出しているのだ。だからセティは、こんな辺鄙なところに拠点を構えていられる。  「水壷は四半日もすれば一杯になる。一杯になりそうなのに気が付いたら、空のと取っ換えとけよ。ここに寝泊まりしてりゃ、壷から水が漏れるのは嫌でも気づくだろ?」  「水汲み…を、やれというのか」  「ん?」 セティは、白い歯を見せてにやりと笑った。「まさか、水汲みなんて女の仕事はやりたくねぇ、なんて言わねぇよなあ? え、お役人様」  「……。」 出来る、とは言えなかった。それほど裕福な家に生まれたわけではないにしろ、家には子供の頃から小間使いがいて家の仕事の手伝いもしたことがないし、書記学校を出てからは役所勤めで、重たいものの持ち運びに離れていない。それに、目の前の大きな水壷は、どう見ても抱えるので精一杯だ。  だが、嫌だとも言えない。  「やってみる…ことは出来る…と思う…。」  「ま、何事も経験だ。もし手ぇ滑らせて割ったら、飯は抜きだぞ。いいな」 にやにやしながらセティがそう言った時、水場の影から、「影」が一つ、ぬうっと立ち上がった。  「ひっ?!」 影――真っ黒で、ほんの僅かに白い部分もない影のような犬は、吠えもせず、舌も出さず、無言に近付いてきてセティの足元に座った。  「こいつはカイビト。賢い奴だぞ」 セティは犬の前で膝を折り、頭を撫でてやりながら傍らのヘリホルのほうを指す。「いいかカイビト、この人間は人質のヘリホルだ。今日はここに泊めてやることになった。殺すなよ? ただ、勝手に出て行こうとしたら痛い目に遭わせてやれ。」  「ワフッ」 犬は、茶色く縁どられた目でじっ、とヘリホルのほうを見つめた。この犬にとって、自分はどう映っているのだろう。底知れぬ獣の瞳には全てを見透かしているような輝きがある。背中に冷たいものが流れるのを感じながら、ヘリホルは固唾を飲みこんだ。  「で、あともう一人、俺の子分がいるんだが、――そいつは今、出かけていてな。ま、戻ってきたら紹介するさ。仲間はそれだけだ。」  「それ、だけ?」 拍子抜けした。「てっきり、盗賊団だと――」  「盗賊団だが」  「あ、いや。盗賊団というと、何十人もいるものかと…」 セティは、渋い顔になった。  「あんた、本当に文官なんだなぁ。何も知らねぇのかよ。そんな大規模にやらかしてたら、あっという間に軍が出てくるじゃねぇか。こういう仕事はなぁ、少ない人数でこぢんまりと、手早く身軽に限るんだよ。」  「そう…なのか?」  「ああ。俺の親父のいた盗賊団も、いっときは五十人だかいて『砂嵐の申し子』とか何とか大層な名前名乗ってたがな、オトリの商隊にまんまと食いついて、あっさり一網打尽よ。知事に買収されて仲間を売った奴もいたってぇ話さ。ま、つるんでりゃつるんでるほど、そういうことが起きる。俺にゃ信頼のおける仲間以外は必要ない」 ふい、と横を向いた男の顔には、複雑な感情が一瞬だけ浮かんで、すぐに消えた。  (――ああ、そういうことか) ヘリホルは瞬時に理解した。彼はおそらく、父親をその襲撃で失ったのだ。  そして、思い出した。  州軍の兵士たちは確かに、定期的に「壺の道」を巡回しては盗賊やならず者の狩り出しを行っていた。  川べりの街からオアシスまでの道の安全を守ることは、ティスにいる州知事の仕事のうちの一つだった。そして、この辺りを通過する商人たちからの税収は、国庫に納められるべきものだ。税収が減れば、州知事は厳しくお咎めを受けることになる。もし裕福な商人が襲われて大きな被害が出でもすれば、州軍は全力を挙げて討伐のための遠征を行うだろう。  どんな人間でも、食べて飲まなければ生きてはいけない。人数が多ければ多いほど、食料の調達などでアジトの位置は割れやすい。  (この男…、結構考えているんだな…) それは、学校で学んだ他人行儀な知識などではない、自ら体験して身に着けた生きた智慧だ。  「さて、と。それじゃあヘリホル、続きを案内しようか? まずは便所だ。水場に近いところで絶対にするなよ。場所は反対側だ。あーあと、夜はたまにサソリが入って来る。そこの入り口の板を渡すのを忘れんなよ。いいな」 歩き出すセティの後ろを慌てて追いかけながら、ヘリホルは、横目にちらりと、影のような犬のほうを見やった。だが犬のほうは、既に彼に関心を失くしてしまったのか、どこか別の場所へ歩き去っていくところだった。  岩の間を潜ったり登ったり下ったり、一通りの案内が終わる頃、ヘリホルは既にぐったり疲れ果てていた。  最初に案内されたねぐらに戻って来るのがやっとで、そのまま、壁ぎわに引かれた茣蓙の上にぐったりと伸びてしまう。  「おいおい、ヘバるのが早すぎやしないか? お役人様ってのは、本当に体力が無いな」 セティは、にやにやしながら彼の足元に粗末なかわらけを一つ、置いた。  「ほらよ、飯だ。食ったらさっさと寝ろ。次に水壷が一杯になるのは、明け方頃だろうよ。寝過ごすなよ? それと、灯りは消して寝ろ。油が勿体ないからな」 それだけ一方的に言って、じゃあな、と姿を消してしまう。あとは勝手にしろと言わんばかりだ。ヘリホルが逃げ出すとは考えていない。もちろん、ヘリホルにもそんなつもりは無かったが――、少なくとも、その点においては信用されていると考えていいのかもしれない。  もっとも、それも今だけかもしれないが。  セティが持って来た小さな陶器製の燭台が、それ専用に掘り込まれた壁の穴の中で細く揺らめいている。岩の中に作られた沙漠の盗賊団の隠れ家には、夕暮れが空を染めるより早く宵闇が忍び込んでいた。日が暮れはじめてから、辺りの気温は昼間と一転、一気に下がり始めている。岩壁に残る昼間の熱が無ければ、寒くてとても眠るどころではなかっただろう。  沙漠の旅の間に使っていた厚手のマントを床に敷き、ヘリホルは、貪るようにして薄い麦粥をすすった。この麦は、どこから来たのだろう。もしかしたら、ヘリホルたちの一行が旅の食料としてロバに積んでいたものだろうか? 確か、あの中には干し魚や、少しだが肉あったはずだが。  (いや…、生かしておいてもらえるだけでも今は良しとしないとな。私は、囚人なんだから) かわらけの中身を空け、最初にセティに言われたとおり入り口にサソリ避けの板を渡すと、ランプの灯芯を指でつまんで火を消した。暗闇とともに、耳が痛くなるほどの静寂が押し寄せてくる。沙漠の夜には、滅多に音が無い。それは、音の源となる他の生命が、ほとんど存在しないからだ。  聴こえてくるのは、自らのたてる布ずれと、呼吸の音だけ。  横になると同時に疲れと緊張から、あっという間に意識が遠のいた。泥の中に沈み込んでいくような深い眠りの中、彼は、決して快適とはいえない夢を見ていた。  それは、熱くも寒くもない、灰色の砂の荒野を一人延々と彷徨い続ける、ひどく疲れる夢だった。
/29ページ

最初のコメントを投稿しよう!