第四章 鷹の願い(3)

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第四章 鷹の願い(3)

 オアシス(ウェハト)への帰路は、何事もなく終わろうとしていた。  前回のこともあったから、セティは、依頼主は最後の街まで送り届けようと決めていた。その選択が正しかったと知るのは、ヘベトの街を出て少し経った時のことだった。  行く手の空に、何か黒い煙のようなものが何本か、ゆらめきながら立ち上っている。地平線に見えている緑の塊、ヌゥトの街があるあたりだ。  「…あれは?」 目を凝らすセティの横で、若い男が息を呑んだ。  「街が燃えてる…? か、かあさん」  「おい、勝手に飛び出すな!」 駆けだそうとする首根っこを捕まえて抑えながら、彼は腰の武器に手を掛けた。街の一部が燃えているのは確かなようだ。けれどそれが、盗賊団の仕業だという確信が持てない。街を直接、襲撃した? 沙漠のならず者たちに、そんな大それたことが出来るのか?  近づいてみると、オアシスの周りに広がる果樹園の木々や耕作地は、ひどく踏み荒らされているのが見えた。  逃げ遅れたロバが何頭か、手あたり次第に斬り殺されている。ぱちぱちと燃えている、乾いた灌木。零れたランプ油から引火したようだ。街に近付いていくと、武装して集まっている街の男たちの姿が見えた。心配そうに何か話し合っている。  「…みんな!」 セティの護衛して来た若い男が、たまらず駆けだした。振り返って、街の男たちが驚いた顔になる。  「お前、戻って来られたのか!」  「かあさんは?」  「無事だ。夜明けにふいを突かれはしたが、何とか撃退は出来た…」 住人たちの話を聞いて、男はようやくほっとした顔になり、セティのほうを振り返る。  「かあさんの様子を見てくる…すぐに戻る!」 それだけ言い残して、ロバを引き、大急ぎで街の中へ駆けていく。集まっていた街の男たちの視線がセティのほうに向けられている――セティは、頭をかきながら視線を逸らした。  一人が近付いて来て、おずおずと尋ねる。  「あんたが、あいつの言ってた『沙漠の主(セト)の代理人』か」  「そんな大層なもんじゃねぇよ。ただの…沙漠の住人だ」  「それでも、あの盗賊どもの仲間じゃないんだろう。」 別の一人が口を開く。  「ああ、仲間じゃあない。だが同類だ。お前たちの中にだって、俺がむかし襲った奴がいるかもしれねぇぞ」  「…この際、それは構わん。手を貸しちゃあくれないか? 雇い賃は、ここにいる皆で出す」  「正気かよ」  「勿論だ。今や、隣街に行くにも護衛をつけねばならん有様だ。ついに街まで攻め込まれて…このままじゃ、おれたちはここを追い出されちまうかもしれん」  「あいつらが、街を乗っ取ろうとしてるってのか」  「それとも、皆殺しにして全てを奪うつもりなのかもしれん」 街の男たちの表情は真剣そのもので、大げさに言っているような気配は全く無かった。このままでは、ここに住んでいられなくなる。そう感じさせるほど、頻繁に襲撃されているということだ。  「州軍は? 前に一度、討伐隊が来てただろう。あれから来てないのか」  「ああ。役立たずの州知事が連れて来た中から、何人も死人を出して以来、一度もな」 一人が、苦々しい表情で、吐き捨てるように言った。  「見捨てる気かもしれん。ろくに税も収められない遠方の街など、お荷物だと思っているんだろう」  「なら、自分らで身を守るしかねぇな。」 セティは、街の入り口に張り巡らされた急ごしらえの柵のようなものに、ちらりと目をやった。  「あんなもんじゃ無く、もっと本気出して壁を作ったほうがいい。せめて見張り台くらいは置け。それと街に出入りする連中をしっかり見張ってることだな。盗賊団ってのは、襲う前に街に偵察を送り込んで獲物を物色するもんだ」  「…雇われてくれるのか?!」  「勘違いすんな。お前らあまりに可哀そうだから、で少しだけ守ってやってもいいと言ってるんだ」 それでも、街の住人たちは色めき立っていた。セティは慌てて付け加える。  「ただな、盗賊団には手練れの傭兵どもがいる。俺一人じゃあ、あいつらはどうにも出来ねぇ。連中のやり口を教えてはやれるが、あんたら自身が戦ってくれねぇと」 はっとした様子で、奥の方にいたひときわ体格のいい男が進み出た。手にヤシの木を斬り倒すための大きな斧を持ち、少しは腕に覚えがありそうな雰囲気を漂わせている。  「その、傭兵というのは――、頬に傷のある奴が率いている連中か?」  「ああ。知ってるのか?」 男は頷いた。  「今回の襲撃は、そいつがやったことだ。たった数人で攻めて来て、あっという間に何人も殺された…奴は『混沌の蛇(アペピ)』と名乗っていた」  「……。」 セティは眉を寄せ、記憶を辿った。  「確か、その蛇ってのは…世界の全てを混沌に戻す、とかいうあれか?」  「ああそうだ。”太陽を呑む蛇”だよ。全ての神々の敵だ」  「大層な名前を名乗ったもんだ」 だが、その名はあの得体のしれない男には相応しいような気もしていた。  ゲレグは欲にまみれた盗賊らしい盗賊だが、あの男は何か、もっと別のものを求めて動いているような気がする。  結局、街の住人たちと雇用の契約は、取りかわさなかった。約束に縛られるのは面倒だとセティが断ったのだ。  その代わり、街の代表者の男とはことばで約束を交わした。  セティは、いつ訪ねて来ても、去っても良い。訪ねてくれば水や食事を振る舞う。その代わり、オアシスの街に滞在する間は街の人々を護衛する。  街の人々は、彼の盗賊としての行為を不問にする。盗賊団の脅威が去るか、州軍が到着した後は、互助関係は消滅する。  不確かで、セティのほうに有利過ぎると思われる約束だというのに街の人々は信用した。それほど切羽つまっていたのもあるが、護衛を引き受けたあの若い男が、皆に吹聴した回ったせいもある。  大きすぎる期待も、実体にそぐわない二つ名も彼にとっては煩わしいものだったが、不思議と、嫌悪感を覚えるほどではなかった。  それは、交渉に当たった街の男たちが本当に困っており、助けてほしいと下手に出て懇願してきたからかもしれない。  (守ってやる、か。…ま、それもあの厄介な連中をどうにかするまでのことだ) 滅多に来ることもない、豊かな緑のそよぐオアシスの街を眺めまわしながら、彼の胸の中には、今までに感じたことのない感情が生まれつつあった。  セティの指示で、街の人々は急ごしらえに見張り台を作った。ヤシの木よりも高い場所まで登れば、オアシスの四方まで見渡せる。見張り台の上には沙漠で探してきた、金属のように硬い石が吊るされて、異常があれば叩いて報せることになっていた。  「怪しい奴が接近してくるのを見つけたら、すぐに叩け。夜の見張りでは火を灯すな。弓兵に狙われるだけだぞ。それと月のない夜は夜目の効く奴じゃなきゃ無理だ。つっても、闇夜に動ける奴なんざ盗賊でも少ない。大抵は、少し明るくなってきた夜明け前を狙うもんだ」 ”経験者”のセティが語ることを、街の人々は真剣に聞いていた。  見張りは昼間でもきちんと立てておくこと。それと、街に見慣れない旅人や商人が来た時には、それとなく見張っておいて、余計なことは喋るなときつく言い渡した。  誰が盗賊団に通じているか判らないのだ。外からやって来なくても、もしかしたらもう、住人に成りすまして入り込んでいるかもしれない。  (ここ最近、住み着いた奴を疑うべきか…いや、そこまでやっても、おそらく間者が入り込むことは防げねぇ。) 人目に付きにくいヤシの木の木陰に身を隠し、ヘベトの街の往来に注意深く視線を投げかけながら、彼は考え込んでいた。  広いオアシスの中には、中心となるいくつかの街のほかに、耕作地を挟んで小さな村がいくつも点在している。それらの全ての住人や親族関係を把握している者は誰もいない。  しかもここでは街や村の住人同士が、それぞれの場所の生産物を交換し合って生きている。川べりの黒い土地(ケメト)からやって来る者や、南北の交易路を通ってくる異国人のほうが少ない。地元民の顔をして入り込まれたら判別がつかないのだ。  ヤシの緑の先には、この南のオアシス(ウェハト・レスィト)で唯一の、石造りの立派な神殿がある。盗賊団の襲撃が増えてから、神殿への参拝者は増えていた。誰もが最後は神頼みなのだ。もっとも、己の力を頼って生きる者にしても、追加で神の加護はあったほうがいい。  「よお、あんた」 セティの姿を見つけた街の住人が、声をかけてくる。年配の、頭の禿げかけた男だ。  「沙漠の神様にお供えするにゃ、何がいいんだい?」  「何で俺に聞くんだよ、そんなもん知るか。神官にでも聞けよ」  「不吉の神に神官になんて居ねぇよお。居るとしても黒い土地(ケメト)のどっかだろ? 神殿にも祭壇は無いし、どうしたもんだか」  「…いや、それでよく、お供えしようと思ったな。やめとけ、ありゃあ神っていうより、気まぐれでとんでもない嵐そのものだ。祈ってどうにかしてくれる情けがあるとも思えねぇ」 神官もいない、祭壇もない「不吉な」神へのお供えをしたいなどと言いだした上に、盗賊くずれの得体のしれない用心棒に気安くそれを尋ねてくるとは、どこまでもおめでたい。  けれど男は、とぼけた顔を呑気に傾げただけだった。  「そうかい? 最近じゃあ、祈ってる奴はよく見かけるよ。何しろここは赤い土地(デシェレト)なんだ。いちばん効くんじゃないか、ってね。他の神様たちはみんな、黒い土地(ケメト)のほうが大事なはずさ」  「……。」  「で、食い物と酒、どっちがいいと思う?」  半ば押し切られるように供物の提案をさせられたあと、セティは、まだ神殿の裏に立っていた。沙漠の神に祈りたいなどという酔狂は、本当に他にもいるのだろうかと疑っていたからだ。  祈りの間の奥には、この神殿を建てさせた古い時代王の信奉していた神の部屋がしつらえられている。その手前には沢山の一般的な神々のための祭壇があるが、その中に、沙漠の神のものは据えられていない。「神々の王の座を簒奪しようとし、沙漠へと追放された」という神話のせいだろう。ともすれば王の首さえ狙ってくる危険な神は、怒りを買わない程度に敬いつつも、それとなく無視される程度でなければならないのだ。  考え込みながら立っていたセティは、ふと首筋にちくちくするような違和感を覚えた。  視線だ。  はっきりと、観察の対象としてこちらを見ている。それも気配を悟られないよう隠しながら。  体は動かさず、目だけを慎重に動かして、彼は辺りの様子を伺った。武器に手をかけられるよう、それとなく構えながらゆっくりと移動する。視線もついてくるようだ。彼はそのまま街を通り抜け、人のいない耕作地の端へと移動した。  「出て来いよ。つけてきてんだろう」 振り返ると、一瞬の間を置いて男が一人、ゆらりと木陰から姿を現した。頬に傷のある男――、セティは咄嗟に剣を抜いた。  「いい反応だ」  「てめぇ、何しに来やがった!」  「”何”? また随分と、つれないものだな。」 男は武器を手にすることなく、ゆっくりとした足取りで間合いを詰めてくる。打ちかかられても何とでも出来る、という自信に裏打ちされた、強者ならではの風格だ。  「あの時の答えを聞きに来たのだ」  「……。」 睨みつけるセティに余裕の笑みを向けながら、男は、首を斜めに(かし)いだ。  「こちらに来る気は、ないのか?」  「断る」 即答だった。  「お前らのやり方は気に入らねえ。信用も出来ねえ。つるむなんて真っ平だ」  「それは残念」 言葉だけでなく心底、残念だというように、男は肩をすくめてみせた。  「失望したぞ、ここに住む腰抜けどものほうを選ぶとは。お前は知っているはずだ――この見捨てられた土地には元来、法も秩序も無い。王や貴族も、神々すらも居ない。神々の定めた運命の外、見捨てられた土地だ。ここでは誰もが等しく死んでゆく。力だけが全てだ。そうだろう?」  「何を…わけのわからないことを。てめぇ一体、何を企んでやがる? 街の連中を手あたり次第に殺して、根こそぎ奪って、このままじゃ誰もオアシスに住まなくなるぞ」  「それが何か問題か?」  「な、――」 男は、平然とした様子で街の方に目を向けた。  「何の苦労もなく安穏と生きている連中に、生きる価値があるのか? 恵まれた場所に生まれたというだけで、その立場を享受することに疑いすら抱いていない者たちに思い知らせてやるのだ。奴らが奪ってきたように、今度は奴らから奪ってやる。そうして意味を知るがいい」 喋りながら、男は次第に興奮していく。  「そうだ、混沌だ。混沌の蛇が全てを飲み込む…!」  「……。」 セティは、付き合いきれないと思い始めていた。  男の口から流れ出してくる言葉は、全く意味が分からない。ただ判るのは、以前であった弓兵の女と同じように、この男もまた、何かに「追われて」、この地へたどり着いたということだ。  恨み。絶望。怒り。  どす黒い感情が、沙漠に荒れ狂う砂嵐のように、言葉の裏にうごめいている。  ゆるりと、狂気を孕んだ視線がこちらに向けられる。手が、腰の武器へと滑り落ちていく。  「ああ、残念だ。お前は我らと同じ、飢えた獣かと思っていたのだがな」 武器を構えながら、セティは間合いをはかり、視線の端に逃走経路を探した。まともに戦えば勝ち目はないが、どうにかして街に逃げ込めば何とかなる。畑の縁に植えられている、灌木を回り込んで逃げれば――  ――と、その時だ。  「おい! そこで何をしてる!」 ちょうど畑仕事に出て来た街の住人たちが、剣を抜いて対峙するセティたちに気づいて声を上げた。目の前の男がそちらに注意を向けるのに気づいて、セティは慌てて声を上げた。  「来るな! こいつは、盗賊団の雇ってる傭兵だ!」  「なっ…え? 敵?!」 慌てて、住人たちが街のほうに向かって駆け戻っていく。  「て、敵だ! 敵襲だーっ」  「ふん、騒々しいことだ」 興ざめしたのか、抜きかけた武器を戻しながら、男はするりとセティの側を通り抜けた。  「次に逢う時は、お前の首を貰う」  「!」 男の去って行く気配を背中ごしに感じながら、彼は思わず、唇を噛んだ。  「…くそっ!」 去り際の一瞬とはいえ、やすやすと間合いの中に入られた。  警戒はしていたのに、それが途切れたほんの僅かな隙間を縫って――もし本当に殺す気があったのなら、あの一瞬があれば、喉を切り裂くのも、背中から心臓を一突きするのも思いのままだった。  見逃されたのだ、二度も。  それは今のセティがあの男にとって、深刻な脅威ではないことを意味している。  (この俺を、取るに足りないもの扱いだと…? ふざけたことを…) 屈辱に肩を震わせながら、彼は乱暴に剣を収めた。そして、街のほうから走り出てくる人々には見向きもせずに、沙漠の方に向かって歩き出した。  じりじりと肌を焦がす太陽の輝きが、隠れ家の外の赤い大地を照らし出している。  眩しい照り返しを避けるように、セティは、隠れ家の北側の涼しい岩の隙間に寝そべって、岩間の陰が動くのを眺めていた。傍らには、夜が明けるまで降り続けていた剣が転がっている。オアシスでの一件のあと、悔しさと腹立ちを紛らわすために振り回していた跡だ。  「あれー、お疲れですかぁ、アニキ」 視界にひょっこりと、覗きこむカーの顔が現れた。  「昨日は遅くまで訓練してやしたもんね。メシと水、持ってきます?」  「…ああ。頼む」 仰向けになったまま、セティは、空を見上げて考え込んでいた。  これまでに二度、あの頬に傷のある傭兵と対峙した。そしてどちらも、軽くあしらわれただけで手も足も出ずに終わってしまった。  (どう足掻いたって、あいつには勝てない…。) そもそもからして、武器を手にする目的が違うのだ。身を守るために振るう野生の剣の技は、殺しを目的とした対人専門の剣の技とは相入れない。生きるために殺す者と、殺すために殺す者では違うのだ。  だから、真似しようとは微塵も思わなかった。  あの男の剣には、弱い獲物を執拗になぶるような不愉快さがある。セティとて必要があれば敵を殺すことくらい厭わないが、それは本当に必要な時だけ、向かってくる相手に対してだけだ。  無為に命を奪う行為は獣にも劣る。それなのに、あの「混沌の蛇」を名乗る男と仲間たちは、不必要な者まで命を奪い、しかもそれを、何やら大層な思想で意味付けして正当化している。  (気にいらねぇな…何もかもが気にいらねぇ。ぬくぬくと暮らすも何も、オアシス(ウェハト)の連中は、ここで生まれて、ここで死ぬしか無ぇんだ。ここに在るもん使って生きてるだけだしな。そんなに羨ましいのなら、殺しなどせずに仲間に入れて貰えばいいだろうが。何故殺す? あいつらが恨んでいるのは、ここの人間じゃ無ぇはずだ) ごろん、と向きを変えながら、彼は腕を枕に考え込む。  (追われて来た…、あの弓兵の女はそう言った。他の連中もそうなのか? まさか本当に、ここに住む人間を皆殺しにしたいのか…?) 考えていても答えは出ない。時間が無駄になるだけだ。  はあ、と一つ大きくため息をついて起き上がったところへ、ちょうど、カーが炙った干し魚とパンを手に現れた。  「アニキ、これ食って元気出してくださいよ。」  「これは…こないだの護衛の報酬か」 魚をひっくり返し、頭からぱりっとかぶりつく。  「…ふん、塩っ毛が効いてて、なかなか美味いな」  「へへー、でやしょ。街の連中の頼みを訊いてやったら、いいもん食えますね。ね、アニキ。盗賊は廃業して、護衛業でもやります?」  「冗談だろ。雇い主を探してウロウロするだけで面倒だ。」  「えー、今のアニキなら探さなくても声がかかりますよー?」  「知らねぇ奴と旅すんのもうんざりなんだよ…。気心の知れた奴以外とは、一緒に寝泊まりするだけで気が疲れる。」  「んなこと言って、あのお役人の時は、あっさりここに泊めたじゃないっすか。」  「ん、それは、…だな…。」 口ごもりながら、彼はごまかすように、急いでパンをちぎって飲み込んだ。  今にして思えば、あの時、どうしてヘリホルをここまで連れて戻って来たのか分からない。よく考えてみれば、隠れ家ではない手ごろな岩陰で尋問して、そのまま放り出しても良かったのだ。そうしなかったのが何故なのか。  (あいつは…最初から、どこか特別だった。話していても妙にしっくりきた。俺を恐れもしなかった) 盗賊に身ぐるみを剥がれておきながら泣き喚くでもなく、沙漠を歩いて帰るからサンダルだけ返せ、などと言い出す役人は、他にいないだろう。  しかもその男は、戦う術も持たないくせに、あの恐ろしい傭兵とも立ち会ったのだ。  「あいつなら、どう戦うんだろうな」  「へい?」  「前に、ヘリホルがあの傭兵に目つぶし食らわせて隙を作った時のことを思い出してたんだ。まともに正面から戦ってもどうにもならねぇ。あいつくらい図太く、小細工でもしたほうがいいのかもしれねぇと思ってな。」 勝つためには手段を選ばない。それも、「殺すため」ではなく「生きるため」に戦う者のやり方の一つだ。  考え方はオアシスの住人たちも同じで、「生きるため」なら盗賊くずれの護衛を泣き落としで雇いもするし、忌み嫌われる不吉な神話の神に祈りもする。  大義も、過去も、誇り高さも、そのためにむざむざ死ぬことになるなら意味のないものと見なされる。  この赤い沙漠の掟はただ一つ。  「死ぬ時までは生きろ」だ。  食事の終わった指に残った塩を舐め、水で口の中の残り滓を流し込んでしまうと、セティは立ち上がって大きく伸びをした。  「――よーし、ちょいと腹ごなしにそのへん散歩してくっかな」  「いってらっしゃいやし」 階段を降りていくと、日陰と同化するように真っ黒な犬が、赤みを帯びた舌を垂らしながらセティの側にやって来る。今日は一緒に行ってくれるらしい。片手で軽く犬の頭を撫でて、彼は真昼の谷間へと一歩、踏み出した。  太陽の熱が砂を灼く。陽射しのあるところは触れるだけで火傷しそうなほど熱い。生きてゆける生き物などいない。  けれどひとたび日陰に踏み込めば、そこはまだ砂も冷たいままで、岩間には夜行性の昆虫や小動物たちが、涼しい夜を待って息を潜めているのだった。
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