第四章 鷹の願い(4)

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第四章 鷹の願い(4)

 本格的な暑い季節を前にして、ヘリホルの職場には何人かの助手が増えていた。  彼一人では到底仕事が回らないことと、他にやることが増えてしまったためだ。それで果実の収穫の季節に、その分の税収から、追加の手伝いを雇うことにしたのだ。  頼んだのは参拝者から受け取った供物の記録と、台所や鷹の世話で消費される、日々のこまごました出費の計算だ。これは簡単な読み書きさえ出来れば誰でも出来る。寂しかった書庫にも卓が増え、荒れ果てていた頃とは見違えるように仕事場らしくなった。  空いた時間で、ヘリホルは、かつて神殿に通っていたという元の鷹匠から鷹のしつけについて教わっていた。  ヘカトはやんちゃなお嬢様そのもので、放っておくと鳩小屋の鳩を食べようとしたり、猟師が狙っている野鳥を横取りしたりしそうになる。しかも神殿の中を我が物顔に飛び回るものだから、神殿の静謐さを保つ妨げになりかねない。人間と同じように、して良いことと悪いことを教え込む必要があった。  毎日決まった時間になると皮手袋をつけ、若い鷹をその上にとまらせて村に出ていくヘリホルを見て、アセトやネフゥトは面白がってよく茶化してきたものだ。  「何だかまるで鷹匠みたいだねぇ。他の人に頼めばいいのに」  「その鷹、あたしらにやたら攻撃的なんだよ。鳥のくせに女の嫉妬なんて見苦しいったらありゃしない」 肩先で、ヘカトが即座に言い返す。  「ふーんだ。お父様に近付くからよ」  「……。」 これが、いつものやりとりなのだった。  ただし鷹の言葉はヘリホルにしか聞こえていない。逆に言えばヘリホルには、人間の言葉として全部聞こえている。  神殿の外に出てから、彼は溜息交じりに肩に居る鷹のほうを見た。  「ヘカト、何度も言っているけれど、神殿の人たちの悪口は言ってはいけない。あの人たちは私の仕事仲間なんだ。他の誰かについても同じだ。あんな風に言うのなら、もう一緒に外には出ないよ」  「ええー…」  「ええー、じゃない。約束できるか?」 鷹は不満そうな顔をしつつも、不承不承、頷いた。  「お父様がそう言うなら…でも、…あ!」  気まぐれな少女のように、鷹は目の前を通り過ぎていく蝶に気を取られて羽根をばたつかせはじめる。  「飛びたい、飛びたい!」  「分かったよ、行っておいで。ほらいくよ、…せーの!」 腕を振りかぶると、その先から鷹が飛び立っていく。  空中に向かって投げつけるような動作だが、人間が勢いをつけて放り出すことで、飛び立つまでの助走を省略しているのだった。  これを練習するのにも、ずいぶん日数がかかったのだった。腕を振る速度と飛び立つ瞬間の息を合わせねばならず、最初は足元に落としてしまうことさえあった。しかも鷹というのは、意外と重たい。肩に乗せて歩くだけでも体が鍛えられる。  広げた翼が太陽の光を浴びて、黄金色に輝く。  飛ぶのに慣れてきたヘカトはぐんぐん高度を上げ、あっというまに青い空の向こうに小さくなってしまった。  気持ちよさそうに翼を広げ空を舞う若い鷹の姿を見あげながら、ヘリホルは、のんびりと畑のあぜ道を散歩しはじめた。  鷹の言葉が判るという件については、神官長のハルシエスにも相談していた。  けれどハルシエスにも、原因は判らなかった。神殿には歴代の鷹神の神官たちの時代に起きた出来事の記録が保管されているが、同様の現象を見た覚えはないという。  「鷹に限らなくて良いなら、動物の言葉が分かるようになるという話は、聞いたことがある。遠い昔に作られた、『知恵の神(ジェフゥティ)の呪文書』に、そのようなものがあったという」  「…知恵の神の、ですか」  「だが、それももう遥か昔に失われてしまったという。かつて神々の力が今よりも人間に届いていた時代の話だよ。」 思い当たることはあったけれど、ハルシエスには言わなかった。師であるジェフティメスにも言わなかったことだ。  鉱山で見つけた、あの呪文書が、本物の「知恵の神の呪文書」だったのかどうかも分からない。  ただ、ヘリホルは確かにあの時、時分は巻物の一部を不完全ながら読んでしまっていた。そして記憶にある限り、その中には、「生ける神の声を聴くための知恵」という、謎めいた一節も書かれていた。  生ける神、とは、神殿に捧げられた聖なる獣のことだったのかもしれない。  だから鷹神の聖鳥である鷹、しかも神殿で育てられたヘカトの声だけは、聞くことが出来る――。  (聖牛の神殿で牛の声が聴こえたら、きっとそうなんだろう。だけど、まさか…あの断片のせいでこんなことになるなんて) 今更のように、あの朽ちかけた巻物が跡形もなく失われて良かったと、ヘリホルは思った。神官でもない無学な書記が、ほんの少し触れただけでこの有様なのだ。もしも学のある悪意を持つ人間の手に渡っていたら、とんでもないことになっていたに違いない。  哀れな州知事は信じなかっただろうが、あの巻物は確かに、「王だけが持つことの出来る」特別な財宝だったのだ。  鷹の戻りを待つ間、ヘリホルは畑の側の木陰で少し、休んでいくことにした。  このあとは神殿に戻って、神官長やラネブと祭りの段取りの相談もある。必要なものも揃いつつあり、あとは祭りの当日、どのように牛女神の神殿からの楽隊を出迎えるのか、どこに舞台を設置するのかや、街を練り歩く行列の順路など動き方を決めるところまで来ていた。考えることは沢山ある。それに、やるべきことも。  ヘリホルの姿を見つけて、街の方からロバを引いて戻って来る途中の、顔なじみの村人が足を止めた。  「よーお、神殿のお役人さんじゃねぇか。今日も暑いねぇ。お祭りの準備は進んでるかい?」  「ええ、順調ですよ。…多分」 ヘリホルが空に投げかけた視線を先を見て、村人は顔をほころばせる。  「ああー。こりゃーよく飛んでるねえ。そうかい、祭りの大トリの予行演習かい。ははっ、大役だぁな」 それから、ヘリホルのほうに向きなおって笑顔でこう言った。  「うちの女房や子供たちも、久しぶりの大きな祭りで楽しみにしてるんだ。参道に屋台を出すよ。たくさん人が来るといいなあ。」 二つの神殿で同時期に行われる祭りは、互いの神殿の行き来を入れて二週間も続く。その間、ひっきりなしにやって来る参拝者をもてなし、喜ばせなければならないし、あわよくば、たっぷり鷹神様にお供えをしてから帰って貰いたい。村人たちにとっても稼ぎ時なのだ。イウニトの神殿との関係のためだけではなく、神殿所領に住む村人たちのためにも祭りは成功させなければならない。  「頑張っておくれよ、お役人さん。ウアセトの偉いさんも来るって噂だし、これで機嫌直してくれるといいんだがな」  「ええ、そうです…ね?」 ロバを引いて去って行く村人の後ろ姿を見送りながら、ヘリホルは、聞き返す機会を逸した疑問を、半分だけ口元に出したままぽかんとしていた。ウアセトから誰かやって来る?  「――ヘカト!」 手を叩いて空に向かって叫ぶと、気づいた鷹がばさばさと力強く羽ばたく音とともに舞い降りてくる。  「なあに、お父様」  「少し用事が出来たから、先に神殿に戻ってるよ。鳩は勝手に食べてはいけない。飼われている鳥もだ。」  「はぁい」 地面すれすれまで降りてきた鷹は、そのまま翼の角度を変えて再び急上昇していく。飛び方も、ずいぶん慣れたものだ。少し心配ではあったが、本来はもう巣立ちしている季節だ。足には神殿の鷹と判るよう足環を嵌めてあるし、たまには一人で好きにさせるのも、経験としては必要だ。青空に舞う鷹を残したまま、ヘリホルは、神殿への道を急いだ。  神殿に戻ると、彼はまっすぐにハルシエスの部屋を訪ねた。本当はもっと遅い時間に、ラネブと一緒に打合せのために来る予定だったのだ。ラネブはまだ来ていなかったが、ハルシエスはいつものように自室にいて、古い巻物を()っていた。  「おや? どうした、まだ時間には早いようだが」  「お耳に入れたほうがいい話があって。…今回の祭りに、ウアセトから人が来るという話を聞いたんです。ご存知ですか」 ハルシエスは複雑な表情になり、頷いた。  「聞いている。先ほどネシコンスが、港のほうで聞いた噂を届けに来てくれた。正式な使者や聖職者ではなく、それなりの地位にある官僚の、あくまでな視察、らしい」  「様子見、…ということですか」  「おそらくは。この神殿との関係は、もう何年も途絶えたままなのだ。」そう言ってから、彼は小さく付け足した。「…神官たちが王のように振る舞うなどという、思い上がった大神殿とは、関係を持たぬほうがましだと思っていた。何事もなければ良いのだが」  「隠れし神(アメン)の大神殿と、都の王とは別でしょう」 元気づけるように、ヘリホルは言った。  「今回の視察は、王のほうの部下なのでは? でなければ、わざわざ鷹神の神殿に来たりはしないでしょう。うまくすれば、寄進が再開されるかもしれません」  「そうだな。ああ、その通りだ。悪い方には考えたくないものだ。」  「ですが、なぜ今になって興味を持ったのでしょうか。ずっと関係を絶っていたなら、急に必要になるとも思えませんし」 ヘリホルが言うと、ハルシエスは意味深に笑みを浮かべた。そして、何故か少しばかり後ろめたいような口調で、僅かに声を押さえて早口に呟いた。  「神の御利益は、無いよりはあったほうが良いのだ。ことにその神殿が、民の支持を受けている間は。王たちにとっては、神殿に寄進をするのは支配下に置くのと同じことだ。神殿を支配するということは、その神殿に帰依する周辺の無辜の民たちを意のままにする手段を手に入れるのと同じことだ。…神殿は、常にその街の中心に在り、繁栄と衰退をともにするものだから。」 それから、急に話題を変えて、声の調子を元に戻した。  「――そういえば、お前は黒犬神の街の出身だったな。あの辺りはどの王に属するかいつも微妙なものだが、もしかすると、ウアセトの王の下につくかもしれぬぞ」  「え? …それは、どういう」  「オアシス(ウェハト)の問題だ。オアシスで盗賊が暴れまわっているのを、ティスの州ひとつでは抑えきれんという。それを下流の王たちは、身内と争うのに忙しく、支援出来ずにいるらしい」 このところの忙しさにかまけて意識の中から消えかけていた記憶が蘇って来る。二度の赤い沙漠への遠征。そこで出くわした盗賊団と、厄介な敵。  「まだ解決していなかったんですか、あの問題は」  「それどころか、悪化しているようだな。このことは、古い付き合いのある知人からの手紙で知ったのだ。その者も鷹神の神殿に仕えている。ここよりもずっと下流のほうの」 ハルシエスは、深いため息をついた。  「…鷹の神は、軍の守護神の一柱だ。そして、赤い土地(デシェレト)に追放されし嵐の神に対抗できる唯一の存在でもある。軍を率いるために、この神殿が必要とされているのかもしれぬ。」 どうやら神官長は、無視され、無いも同然とされるよりも、表舞台に引き出され期待をかけられることのほうを恐れている様子だった。  頻繁に繰り返される「王」たちの政争に、関わりたくないというのもあるかもしれない。  それはヘリホルも同じだったが、長らくどの「王」に対してもはっきりとした立場を表明してこなかったティスが、敢えて川の上流の古き都に付くという可能性には、興味を示さずにはいられなかった。  (もしも付く王が変わったなら、役所の書類は全部、書き換えだ。皆、大変だろうな…) かつての同僚たちを思い出し、そんなことを気遣ったりもしていた。  けれどその話題についての詳細な続報は無く、噂に耳を澄ませている余裕もなく、それきり、ヘリホルも忘れていた。  月日は飛ぶように過ぎ、最高潮に達した川の水位がゆっくりと引き始める頃、祭り本番の日は訪れていた。  高く青く澄み渡る空の下、街には今まで見たことのないほど大勢の人が溢れていた。  神殿と船着き場の間に作られた参道の脇には色鮮やかに染め抜かれた布が風に吹かれている。川べりにも大勢の人が集まって、イウニトからの船の到着を今か今かと待っていた。  「そろそろ来ます。いま、手前の村を通過中です!」 桟橋で待つ神官長のもとに、様子を見にいっていた若者が息せき切って駆け戻って来る。神妙な顔で頷いたハルシエスは、この日のためにしつらえた新しい真っ白な衣の袖を翻し、額の飾りをそっと直した。  ヘリホルは、手にした竿の先で飛び立ちたそうにうずうずしている鷹の様子を伺った。神の表象を載せるべき聖竿の上に、今回は、本物の鷹を載せたのだ。これなら模型を作る手間も省けるし、作り物よりよほど見栄えがする。  間もなく、川向うから船が姿を現した。  思っていたより大きな、しかも貴族たちが宴に使うような豪華な船だ。船体には赤と緑で花と茂みが彩られ、川を遡る風を受けるための、大きな白い帆が張られている。  長い櫂が優雅に船の向きを変えると、見物人たちは大きな歓声を上げた。船着き場に向かってくる豪華な船首には、蓮の花を象った飾りが花開いている。  川岸が近づくと、船はを畳み、手すりにくくりつけた荒縄を岸に向かって投げた。最後はそれで引っ張って着岸させるのだ。  「さあ皆、縄をとれ!」 ネシコンスが声をかけると、見物人の中にいた若者たちが、わっと声を上げて我さきに川の中に飛び込んでいく。腰までつかりながら荒縄を掴み、岸辺へと引っ張るのだ。  葦で作った緩衝材が軋むような音を立てる。  船が完全に着岸すると、船着き場から板が渡された。老神官のラネブがうやうやしく船に近付いて、船から降りてくる美しく着飾った楽団の娘たちの手をとっては、一人ずつ下ろしていく。見物人が近づきすぎないよう牽制するのは、この日のためにしつらえた下級神官のための真っ白な帯を肩にかけた、神殿所領の村の男たち。女たちは花をまき散らし、舌を震わす「鳶の声」で歓迎する。  最後の少女が船から降りて来るのを見て、ヘリホルは思わずはっとした。  メリハトルだった。  黒く目の周りを縁取りし、赤い紅で頬と口元を際立たせる大人びた化粧で、女神の髪型を真似た髪の房を顔の両脇に垂らしている。彼女のほうもヘリホルに気づいたようで、一瞬、視線を向けてにこりと微笑んだが、すぐにつん、と顎を上に向けた。  ひだのある透き通るような上等の亜麻布を優雅に翻してやってくる彼女の差し出した手を、神官長がうやうやしく受け取った。そしてヘリホルに、出発するよう目で合図した。  鷹の乗った聖竿を先頭に、行列が動き出す。  遠来の女神に扮したメリハトルの手をとる鷹神の代理人が、しずしずと進んでゆく。その後ろに少女たち、楽器を手にした牛女神の神殿の女神官たち、鷹の街の男たちが続く。  これから神殿へ向かい、神事が行われるのだ。そして夜には、灯りのもとで宴が始まる。女神に愛された者の類まれな美声も、その時はじめて鷹の街に響くだろう。  最初の大役を終えたヘリホルは、少しほっとしながらも、素早く衣装を替えて普段の動きやすい書記の服に着替えていた。棹にとまっているだけったヘカトは退屈してしまったようで、檻に入れられて自由に外に出られないことに文句を言っている。   「どうして、外を見て回っちゃいけないの?」  「あと何日かは我慢していて。お客さんが驚くといけないから。」 今は神殿の中も外も、人でごった返している。お供えを記録する係はひっきりなしに倉庫を行ったり来たりしているし、壁に名前を書いてもらいたいという行列を前にイビィさえ目をまわしそうな忙しさだ。  アセトは朝から晩まで手伝いに来た人々のまかないを作っているし、普段は姉の仕事を手伝いたがらないネフゥトも今回ばかりは、汚れた食器や空になったかごを手に、台所に運び込む役を悪態をつく暇もなくこなしている。  ハルシエスは香炉を手にしたラネブを従えて、祈りの間や回廊を歩き回りながら威厳たっぷりに祈祷文を読み上げ、集まった人々に感銘を与えていた。  それでも、祭りはまだ始まったばかりなのだ。これから何日もかけて、神殿でも街でも、沢山の催しが行われることになる。  「お前はここにいるんだ。あとで、様子を見に来るからね」 ヘカトを入れた檻を、神殿の裏庭の他の鷹たちのところに置いて、ヘリホルは大急ぎで神殿の端に立てている天幕へと向かった。  イウニトからの来客に泊まってもらうための、急場ごしらえの宿舎だ。今ある狭い建物では、どんなに取り繕っても満足してはもらえないだろうからと、何日もかけて作ったのだった。  ちょうど向こうから、ネシコンスが引き上げてくる。  「ネシコンス、楽隊は宿舎に?」  「ああ、案内してきた。ひとまず問題はなさそうだ」 頷いて、彼はちょっと肩を竦めた。  「しっかし、お嬢様がたの相手は疲れるねぇ。やれビールが欲しいだの、冷やした果実が食いたいだの、クッションがもう一つ欲しいだの、何でもかんでも言いつける」  「お客さんだから出来る限りもてなしてあげてほしい」  「ああ、そうするよ。だが、一人じゃ到底無理だな…。」 ぶつぶつ文句を言いながらも、ネシコンスは台所のほうへ消えていく。要望されたものを取りに行くのだろう。  ヘリホルが天幕の宿舎の様子を見に行ってみると、少女たちはくつろいだ様子で天幕の前に絨毯や折り畳みの椅子を広げ、楽器を手に弦を調整したり、発声の練習をしたりしていた。  どうやら、急ごしらえのもてなしを気に入ってくれたようだ。  ほっとしながら、彼は神殿の表のほうの様子も見に行ってもみた。前庭には、これからの祭りで何度も使うことになる日干しれんがを積み上げた舞台が作られている。祭りが終わったら解体できるよう、れんがは漆喰で固めただけになっている。舞台の側面の模様は、ネシコンスが神殿の壁を見ながら真似した渾身の力作だ。  舞台の周囲には、夜の舞台のために取り付けた松明が火の灯されるのを待っている。空には、気の早い一番星が見えている。そろそろ、楽団が動き出す頃だろうか。  神殿の外に出てみると、街から続く参道にはたくさんの露店が並び、この時間だというのにまだ大勢の人たちが行き交っている。普段の何十倍もの人の出で、イウニトで見た賑やかさよりもずっと上だ。あまりの人混みにヘリホルのほうが驚いたくらいだ。  ――およそ十年前、はじめて鷹神の街を訪れた時の記憶では、こんなに人はいなかった。  あれも大祭の季節だったはずだが、どこか眠たげな、ゆるやかな空気が流れていた。  けれど、今なら判る。あの時、鷹の神殿はもう、痛ましい喪失の記憶とともに一時の眠りについていたのだ。おそらくは今の姿こそ、二十年前、前任の会計係が居た頃の、鷹神の大祭の本来の姿なのだ。  「♪交わす言葉を~ 愛の歌を歌う~」 年老いた女性が、手拍子とともに口ずさんでいる。  「♪月を巡り、川を遡り~ 想う貴方の元へ~」  「♪一年の約束を~ 川の水の満つる時~」  「♪涼しいヤシの木陰でともに~ 甘い果実を~」 それは聞いたことのない歌だったが、曲の調子はどこか懐かしい。年寄の女性たちは皆、その歌を知っているようだった。  一人が歌うと、別の一人が答えるように歌う。夫婦で祭りを見にやって来た男は妻の腰を抱き、思い人のいる少女は頬を赤らめながらその人のほうを見やる。きっとそういう歌なのだ。愛しい、大切な誰かを想う時に口ずさむもの。かつては毎年歌われていたのだろう、この日に相応しい愛の女神(ハトル)の賛歌。  皆、忘れてしいなかったのだ。かつてこの街が賑やかに栄えていた日のことも、祭りのことも、…おそらくは、その中にかつていた、神殿の会計係の男のことも。  この街の止まっていた時が、動き出そうとしている。  それを告げるかのように高らかに、神殿の中庭から笛の音が一条、凛として夕刻の空に響き渡る。  人の流れが動き出す前に神殿へ戻ろうとしたヘリホルは、ふと、港のほうに、イウニトから来た船とは別にもう一隻の、少し小さ目の木造船がいつのまにか停泊していることに気が付いた。近くの街に住む貴族か裕福な商人のものだろうか。そう思ってから、ふと、思い出した。  この祭りには、ウアセトの高官が”私的”に訪問するという噂があったはずだ。  (もう来ているのか? どこに?) 慌てて辺りを見回すが、この人混みではそう簡単に見つけられない。ぐずぐずしていると混雑に押されて戻れなくなりそうだった。  (…どうせ、舞台は見に来るはずだ。あとで探そう) そう決めて、ヘリホルは大急ぎで神殿の裏口から、今日の舞台の持ち場へと向かった。  藍色の空を背に立つ、塗りなおされたばかりの鮮やかな色彩を持つ鷹の神殿は、それまでに見た中でいちばん、美しく思われた。
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