第四章 鷹の願い(5)

1/1

40人が本棚に入れています
本棚に追加
/29ページ

第四章 鷹の願い(5)

 祭りの日々は、大盛況のうちに過ぎていった。  楽隊による歌や演奏、鷹匠たちによる鷹の芸、鷹神と沙漠の嵐の神の王権争いの神話を再現した演劇に大道芸。  毎日、参拝客を飽きさせないための催しがあちこちで行われる。そしていつしか時は過ぎ、二週間に及んだ長い祭りの季節が終わる日が近づいてきた。  最終日を翌日に控えた日、ヘリホルはヘカトを籠から出し、翼を慣れさせていた。翌日の見送りの儀式で最後の盛り上げ役を務めるのは彼女なのだ。  「もう一度だ。行くよ、それっ!」 大きく振りかぶった腕から、勢いをつけた鷹が飛び立っていく。足には小さな金属片を結んだ帯をつけている。弧を描きながら鷹が空を舞うと、風に吹かれた帯がこすれあって、シャラン、シャランと涼やかな音をたてる。  空を見あげながら、音の聴こえ方を確認していたヘリホルは、ふと、すぐ後ろに人の気配を感じて振り返った。  「ふーん。ほんとに鷹匠みたいなことしてるんだぁ」 いつの間にかすぐ後ろに、メリハトルが立っている。今日は人前に出る時のような濃い化粧はしておらず、気取った帯も上着もなく、普段着のような格好だ。  ヘリホルは、思わず辺りを見回した。他には誰もいない――ということは、一人で抜け出して来たのだ。  「何よ、その顔。今日は、わたしの出番ないでしょ? たまには楽にいきたいの。せっかく義母(かあ)様もいないところに来られたんだし、ずっとお目付け役に付きまとわれていたんじゃ、息が詰まるわ」  「明日は大役があるでしょう? あまり出歩くのは…。」  「ねえ、あの鷹、よく躾けてあるのね。撫でたりできるの?」 メリハトルは、故意に言葉を無視してヘリホルと同じように空を見上げた。機嫌を損ねては面倒なことになるなと思いながら、ヘリホルは、用心深く当たり障りのない言葉を選んだ。  「どうでしょう。今年生まれたばかりでまだ若いし、気に入らないと噛んだりするかもしれません。祭りの主役のお相手はさせられませんよ」  「えー残念。腕に乗せたりしてみたいのに。ダメなの?」  「申し訳ありませんが。……」 言いかけて振り返ったすぐ目の前に、メリハトルの顔があった。  慌てて身を引こうとしたヘリホルの腕に、いつのまにか彼女の手がかけられている。かすかな香水の香りと、甘い囁き。  「ねえ知ってる? この祭りの意味」  「意味…とは」  「牛女神が鷹神のところにやってくるっていう意味よ。年に一度、”妻”が”夫”のところに通って、一緒に二週間、過ごすのよ。をすると思うの?」  「何って…。」  「”聖婚の儀式”。昔はここの神官長さんと、うちのお義母様がやっていたのよ。もちろん神の代理人としてだから本当に何かするわけじゃないけれど。…ね? わたし、お年寄りよりは若い人に相手してもらったほうが嬉しいのよ。…」 紅は載せていない、素のままの色づきのよい唇が、ふわりと目の前に迫った。柔らかい、イチジクのような感触が彼の口元に軽く重なる。  「…え?」 と、その時だ。  「こらぁー! お父様になにしてるのー!」 空中から鷹の羽ばたきの音が響いてきた。顔を上げると、獲物を狙う時のように猛烈な勢いで急降下してくるヘカトの姿が見えた。  「わっ…と、ヘカト、止まれ! それは駄目だ」  「きゃっ」 メリハトルの体を強引に引き離し、ほとんど突き倒すようにして庇うヘリホルの胸元に、矢のように鷹が飛び込んでくる。肩から指先まで覆う丈夫な皮手袋をはめていなかったら、腕が傷だらけになっていたに違いない。  「…はあ、危ない」  「ううーっ」 何とか抱き留めた鷹は、まだ、翼をばたつかせて暴れている。  「駄目だろう、お客さんに怪我をさせるつもりか? そういうことをするんなら、もう籠から出さないぞ!」  「だって、…だって」 ヘカトは涙目になりながら、拗ねたような声を上げている。  「ぷっ」 側で見ていたメリハトルが噴き出した。  「あはは、何? まるで子守りしてるみたい~。あんたって、鷹にも人間みたいに接するのね」 腹を抱えて笑う彼女からは、さきほどの一瞬に見せた別人のように色めかしい大人びた表情は消えている。  「実際、子供の教育みたいなものですよ。私は鷹匠ではなくただの会計係で、この鷹はひなの時に親を亡くしたのをたまたま私が育てただけなので」 まだ暴れている鷹を押さえながら、ヘリホルは表面上、そっけなさを取り繕って言った。  「さ、もう用が済んだのなら行ってください。鷹の訓練の邪魔になります」  「はいはい。それじゃまた、…ね?」 何か意味深な目くばせをしながら、メリハトルは去ってゆく。斜めに射す光が彼女の纏う薄い亜麻布ごしに細い肩を浮き立たせ、ヘリホルは、自分の心臓が激しく鼓動を打っていることに気づいた。  (…そういえば、さっきのあれ、は…。) 彼は口元に手をやった。  役所勤めでは年頃の女性と近しくなる機会などなく、神殿での暮らしも仕事ばかりやっていた。もしかしてこれが、話に聞く、男女の駆け引きというやつなのだろうか。  でも、何故自分に? ほとんど話をしたこともなく、会うのもたったの二度目だというのに。  混乱するヘリホルの側に残った微かな残り香が、風に乗って流されていった。  ヘカトの飛行訓練を終えて神殿に戻ると、ネシコンスがやって来た。  「ああ、ちょうど良かった。探しに行こうと思ってたんだ。神官長が呼んでるよ」  「判りました、行ってみます」 明日の段取りの相談か何かだろう。そう思って訪ねた神官長の部屋には、意外にも、ハルシエス以外にもう一人、見覚えのない身なりのいい人物が待っていた。  「初めまして。貴殿が、話に聞く”捧げもの”か」 腕に嵌められた、重たそうな金の腕輪。整えられた口元の髭に、重たい立派なかつら。砕けたところのない、堅苦しい口調とがっしりと引き締まった体格からして、ただの貴族ではないだろう。  即座に相手が何者であるかを察して、ヘリホルは慌てて入り口に立ったまま頭を下げた。  「ヘリホルと申します。お目にかかることが出来て光栄です、閣下」 きっとこれが、噂にあった、ウアセトの高官だ。  「ウアセトより祭りの見物に来られた、パディアメンどのだ。此度の祭りを大変気に入っていただけたようでな。この祭りを取り仕切ってくれたのはお前だ。お褒めの言葉を賜るなら、一緒にいてもらわねばと思い呼んだのだ」  「勿体ないことです。」 頭を下げて言いながら、彼はハルシエスの後ろへと移動した。上位者と同席するならば、部屋の中では下座に居なければならない。ヘリホルの何気ない言動が、パディアメンを面白がらせたようだった。  「貴殿は元は役人か何かだったのか」  「ええ。以前は、ティスの役人を」  「ほう?」 男は、まじまじと目の前の平凡な若者を見やる。  「鷹神に選ばれた」という話があるだけで、とりたてて目を引くところもない、いかにも書記といった色の白い肌をした大人しそうな青年だ。けれど何かが、この地位ある男の注意を引いたのだ。  「どうか、されましたかな」 ハルシエスは、ヘリホルを見つめたままのパディアメンを不安そうに伺う。  「――いや。ティスの元役人がジェバで鷹神の祭りを取り仕切っているというのは、実に妙な縁だ、と思ったのだ。」  「と仰るのは」  「どこかで聞いているかもしれんが、ティスはオアシス(ウェハト)を荒らす盗賊の問題で困窮している。そこで、我がウアセトの陛下からの救援と引き換えに、以降は陛下の権威を支えると言って来たのだ。」  「聞き及んでおります」 ハルシエスが、神妙な顔で頷いた。  「栄光ある陛下にご健康と長寿のあらんことを。また赤い土地(デシェレト)に秩序をもたらさんとする勇敢なる兵たちにも、神々のご加護があるよう祈っております」  「それだ。私がここへ来たのも、まさにその『ご加護』のためなのだよ」 パディアメンは意味深な軽やかな舌のままに言葉を継いだ。  「あれから時も経った。神々の(すえ)なる慈悲深き陛下は、戦神たる鷹神の旗印も遠征隊に、と望まれておられる」 はっ、と神官長の表情が強張った。  「それは――。しかし、我が神殿は、かつて――」  「”かつて”など、公の何所にも記録されておらぬ。忌まわしき出来事の全ては無きものとして扱われた。違うかな?」  「……。」 沈黙が落ちた。  二人の男の間では、言葉にされない暗黙の了解が交わされている。この申し出は好機なのか、罠なのか。ハルシエスは考え、推し測ろうとしている。  神官長が口を開きかけた、丁度その時だった。  ばたばたと、奇妙に足をひきずるような廊下を走る音が響いてきた。続いて、顔中を真っ赤にした汗だくの老神官ラネブが、死にそうに喉を鳴らしながら倒れ込むようにして部屋の中に駆け込んで来た。よほど急いできたのか、肩にかけた袈裟は腰まで垂れ落ち、サンダルは片方脱げてしまっている。  「申し…申し上げ…」 舌をもつれさせながら、ラネブはよろめきつつ進み出てパディアメンの腕をつかむ。これには、その場にいたハルシエスも、ヘリホルも慌てた。  「な、何をする。」  「申し上げまする。お願いしまする。どうか、どうか――ホルナクトを許してやってくだされい!」 血を吐くような勢いとともに口にされたその名を耳にした瞬間、ハルシエスの顔が青ざめるのが分かった。  「口を閉ざせラネブ! 何を言ってているか判っておるのか?! その名は――」  「判っておりますとも、ええ、判っておりますとも。この身はもはや老いぼれです。いつでも神に呼ばれる覚悟は出来ておりますわい。それでも、わしのたった一人の友人を、いつまでも冥界の闇に囚われたままにはしておけませんのです。わしが言わねばなりませんのです。忘れることなどなぜ出来ましょうか。ホルナクトがしでかしたことは判っておりまする。それでも、どうか、どうか…」  「ええい黙れ! その名を口にするでない!」 ヘリホルが止める間もなく、ハルシエスは卓の上にあった祈祷用の錫杖を取り上げ、パディアメンの前で床に平伏するラネブの背を力いっぱい何度も打った。そして、廊下に向かって怒鳴った。  「ネシコンス! どこにいるのだ。急いで来い! この()れ者の口を塞いで、祭りが終わるまでどこかへ監禁しておけ!」 普段は穏やかで、一度として声を荒げることなど無かった神官長が、そんな表情を見せるのは初めてのことだった。  慌てふためいて駆けつけてきたネシコンスは、ヘリホル同様に言葉もなく、うろたえて、命じられるままにラネブを引きずって部屋を出て行った。泣き喚く声が廊下に遠ざかっていく。  深いため息とともに、ハルシエスは力無く錫杖を取り落として背を向けた。  「…お見苦しいところを。あれが、当時を知る最後の神官なのです。見ての通り年寄で、最近はすこし正気を失い始めております。あれはもう、先も長くはない。今の棒打ちで、許して頂けないでしょうか」  「本来ならば見逃すわけにはいかないが、時期も時期だ。老人で、しかも神官を罰するのは、陛下としても気が重い。此度、この神殿に申し付けるはずだった遠征隊への協力の話、請けてくれるならば不問としよう。」 パディアメンは、意味ありげな視線をヘリホルのほうに投げかけると、返事も待たずにくるりと背を向けた。  「期待している」  「―――。」 言葉にならない声とともに口を動すと、ハルシエスは、軽く頭を下げて高貴な客が部屋から出ていくのを見送った。疲れ切った表情だった。  「神官長。私ならば、構いませんよ。」  「遠征隊に従軍することになるのだぞ」 神官長は、額に手をやりながら力無く椅子に腰を下ろした。  「沙漠に、赤い土地(デシェレト)に行くのだ。神々の加護もない、恐ろしい土地に」 ヘリホルは、思わず微笑んだ。そう、この黒い土地(ケメト)から出たことのない人々は、皆そう言う。かつての自分もそうだった。けれど彼はもう、その土地を知っている。  「そんなものは怖くも何ともありませんよ。ティスには私の知っている軍人もいますし、役人だった頃に州軍についてオアシスまで行ったこともありますからね。それでラネブが無罪放免になるのなら、安いものです。」  「あれ以上のことをしでかさなければな」 ハルシエスは、心配そうにそわそわしている。  「…あの者が、かつて仲の良かった会計係のことをずっと引きずっているのは判っていた。だが、まさかこれほどとは。ヘリホル、すまないが、ラネブがどうしているか様子を見てきてはくれないか。少しは落ち着いているといいのだが。」  「分りました。」 部屋を出たところで、ヘリホルは戻って来たネシコンスとばったり会った。  「ちょうどいいところに。ラネブは?」  「地下室に閉じ込めてきたよ。あそこなら騒いでも誰にも聞こえないし、外から閂を閉められるからな」  「私が様子を見て来ます。ネシコンスは、神官長さまのほうをお願いできますか? 随分お疲れのようだったから」  「あ、ああ…」 ネシコンスも、初めての出来事に動揺している様子だった。  それでも、明日はいよいよ、この大祭りの最後の仕上げなのだ。ラネブは出られないとしても、残る全員で最後まで乗り切らなければ。  地下室は、しん、と静まり返ったまま、人の気配もなかった。  「…ラネブ?」 扉を叩いて呼びかけるが、返事が無い。小窓から中を覗き込むと、がらんとした石の壁に背を当てたまま、ぼんやりと虚空を見つめる老人の姿があった。さるぐつわなどは嵌められていない。  「背中が痛いんですか? 水をもってきましょうか」  「…要らん」 口を半分開いたまま、天井の向こうを見上げる老人の頬には、涙の流れた跡が残っている。  「ああ、神官長には悪いことをしてしもうた。せっかくまた、この神殿に寄進が入って来るはずじゃったのに。怒られて当然じゃ。だが、どうせわしは処刑されるんじゃ。せめてものお詫びを…」  「そんなわけがないでしょう。」 ヘリホルは、慌てて言った。  「殺されたりしませんよ。今回だけなら大目に見てくれると言っています。あの偉い人も、それほど怒っていませんでしたよ。鷹神様の加護が必要なのだそうで」  「ふん、どうせ、ウアセトにいるのも王を名乗るだけの有象無象の一人じゃ。昔のような真の王など、もはやどこにもおらんのだ」 どうやらラネブは、地下室からしばらく出る気はなさそうだった。それに口調も、いつものふざけたような調子とは違っている。  ヘリホルは辺りを見回してから、そっと閂を外して部屋の中に入ると、ラネブの側に腰を下ろした。  「ここなら誰にも聞かれないはずです。――聞かせて下さい。かつて、一体何があったのか。ホルナクトというのが、私の前任だった会計係の名前なんですね?」 深いため息とともに、老人は、赤く擦り剝けた自分の膝を撫でた。  「神官長からは、どこまで聞いている?」  「その人は、この神殿を訪れた、『アメンの神妻』に手を出したと。…それで忘却の罪に処され、相手の女性も、呪われた死に方をしたのだと」  「そうだ。ああ、そうなのだ。ネシタネベトエンネフェルウ。美しいお方じゃった…ホルナクトとはあっという間に恋に落ちた。処女で在るべき神妻が身籠ったと知れて、彼女の肌に触れた男が誰なのか追及された。奴は馬鹿正直に名乗り出た。ウアセトに連行されていった後、わしは神官長に内緒でこっそり都まで逢いに行ったのじゃ。どうにか逃がしてやれんもんかと思ってな。あの頃はまだ――わしも、今ほどの年よりでは無かった――。」 掠れた声で、ゆっくりと話していくラネブの言葉は、時々、涙まじりになり、暗がりに鼻をすすり上げるような音が響いた。  「奴は、愛する女を残して逃げられんと言った。それに、女の腹の中にいる子のことも心配だと。月満ちて、お産の日がやって来た。それは恐ろしい日になった。…裏切られた神は女の膝を閉ざし、子供が参道を通れぬように、そうして長きに渡る産みの苦しみの中で力尽きるよう仕向けたのじゃ。」 肩で息をしながら、老人は言葉を継いだ。  「――もはやこれまでと悟った女は、最後に自分の腹を裂いて子供を取り出すように言った。そうして、わしはな、立会人の一人だったわしが腹を裂いたのじゃ。忘れるものか、あの恐ろしい光景を。母親の命と引き換えに、腰を破って生まれた赤子の髪は、呪われた沙漠の神の色をしておった! 男の赤子じゃった。へその緒のついたまま、生まれながらに歯が生えた口を開けて、母親の血にまみれて笑っておったわ。」  「……?」 黙って聞いていたヘリホルの脳裏に、微かな疑問がちらついた。沙漠の色の髪…?  「その子は、それからどうしたんですか」  「父親に渡したのだ。都の神官たちがそう決めた。呪われた子であれ、赤ん坊の命を奪うのは天上の神々の好むところではない。呪われた子は、呪われた地へ還すべきだ、とな。二度と黒い土地(ケメト)へ帰れぬよう鼻と耳を削がて、ホルナクトは赤子とともに沙漠へ放逐された。それきりだ。可哀そうに、二人とも、すぐに死んでしまったろう」  「…ああ」 ヘリホルは、思わずため息をついた。そうして気が付けば、声を上げて笑い出していた。  ぎょっとして、ラネブは組んでいたひざを崩して身をよじった。  「どうした? なぜ笑っておる」  「だって、こんなことがあるなんて思わないでしょう? 鷹神様は何ていじわるな方なんだろう。どうして今まで気が付かなかったんだ」 笑いすぎて滲んできた涙を指で拭いながら、ヘリホルは、ぽかんとしている老人のほうを見やった。  「死んでなんていませんよ。ホルナクトも、息子のセティも。――残念ながらホルナクトは何年か前に亡くなってしまったらしいけど、セティは元気で生きています! ついこの間、この街にも来ていたんだから。」  「ほ、本当なのか、それは。なぜ知っている。どこで会ったのだ」  「オアシス(ウェハト)へ行こうとしていた時ですよ。赤い髪の、私とそう歳の変わらない男。父親は耳と鼻を削がれて沙漠へ流されていた。…そんな人物が、この世に二人もいるはずがない」 彼は、セティとどんな風に出会ったのか、どうやって暮らしているのかをかいつまんで話した。その出会いが、自分をこの神殿に戻らせる切っ掛けになったということも。  「…そう、か」 最初は信じられないといった様子だったラネブも、ヘリホルの話すのを聞いているうちに、だんだんと納得したような顔になっていった。  そして、ぽつりとつぶやいた。  「あの、呪われた赤子は生きている…のか。赤い土地で」  「ええ、赤い土地(デシェレト)で。」 たとえ黒い土地の神に呪われたとしても、そんなことは関係なかった。――そこは神々の住まう土地の外側にある、沙漠の神が治める別の世界なのだから。  「わしは、ずっと、鷹神様はホルナクトを見捨てたと思っておったのじゃ。どうして救ってくれなかったのかと何度も尋ね、祈っても応えてはくれぬことを(なじ)って来た。なんと愚かなことを…深淵なるお方の考えなど、わしのような小っぽけな人間に判るはずもなかったのに。」 頭を抱え、肩を震わせながら、老神官は床に涙を落として嗚咽した。  その背中をさすってやりながら、ヘリホルもまた、至聖所の奥の物言わぬ神像のことを思った。  何十年という長い時の中で運命をより合わせ、細い絆を繋ごうと試みた、人知の及ばぬ神の御業のことも。  祭りの最終日がやって来た。  今日は、イウニトからやってきた楽団が立ち去る日だ。神殿の中庭で別れの儀式が執り行われ、女神に扮したメリハトルたちが、別れと再会を願う歌を歌って船に乗り込むのを見送ることになっている。  舞台の上には前座となる歌い手の少女たちが、歌と楽器を披露している。神殿の前に並んでで出番を待つメリハトルの側にはヘリホルが、鷹を肩に乗せて待っていた。  人々のざわめきと音楽が、二人の周囲を包んで声を聞こえにくくしている。話しているのが遠目に判らないよう、視線を合わせずにヘリホルは囁いた。  「あの時、私に接吻したのは何故だ? 君は何を企んでる」  「企んでるだなんて。分からないの?」  「ああ、さっぱりだ。」 正面を向いたまま、メリハトルは視線だけをちらと彼のほうに向けた。  「それなら教えてあげるわ、うぶな”お役人”さん。わたし、恋がしてみたいの」 舞台では、少女たちの歌声が最高潮に達しようしている。神官長のハルシエスが、急遽、お供の神官の役を引き受けたイビィを傍らに連れて、舞台へと上がっていく。  「牛女神(ハトル)の歌は恋の歌ばかり。このお祭りの曲だって、遠くにいる愛しい貴方、なんて歌うのよ? わたしには、そんな人なんていないのに。」  「…つまり君は、自分の職務を果たすために、歌詞に歌われるような気持ちを試してみたいわけだ」  「いやあね、色気のない言い方しちゃって。わたしだって歌い手の前に一人の女よ。神殿に閉じ込められて一生を終えるにしても、恋くらいしてみたいと思ってもいいじゃない」  「悪いとは思わないよ。ただ、私に相手が務まるかどうかは――」 言いかけた時、どん、どんと太鼓の音が響き渡った。主役の出番の合図だ。  「あっ、始まるわ」 一歩前に進み出た彼女は、ふと、振り返って、ヘリホルのほうを見た。  「ね、このお祭り、また来年もやるでしょう? そうしたら、わたしまた此処へ来るわ! 一年後、またここで逢いましょうね。約束してくれる?」  「……それくらいなら」  「ふふ、ありがと。じゃあね、わたしの鷹神さん」 薄い亜麻布の上着の裾を翻しながら、彼女は、両手を大きく広げるようにして舞台へと上がってゆく。  「♪年を経巡り、次の年、再び月の満ちる頃~」 澄んだ歌声は、雑踏も、ざわめきも全て打ち消して、楽器の伴奏に乗って青い空に溶けてゆく。  「♪あなたに逢える日を待ちわびて~…」 白い喉を震わせて、神の歌い手は歌う。一年後の再会を願う、約束の歌。舞台の上で光を浴びて輝くメリハトルの姿は、とても美しかった。  「ヘカト」 声をかけると、鷹は、なぜか不機嫌そうに顔を上げた。  「お前の出番だ。行ってこい」  「…はぁい」 何か言いたげな顔をしながらも、彼女は高らかな声とともに大きく翼を広げた。  足に括りつけた布が風にはためいた。こすれあう金属の軽やかな音が響くのを合図に、歌い手を中心とした行列は港へ向かって動き出す。  一年後、自分はどうしているのだろう。  去りゆく船を見送りながらヘリホルは、メリハトルとの約束を思い返してたいた。一年前には、今の自分の姿を想像もできなかった。明日のことでさえ何も判らないのに、一年後など、はるか遠くに思われる。  けれどその日はいつかやってきて、そしてまた、ここで神々の、「美しき出会い」は再現されるだろう。  こうして、大祭は無事に終わった。  遠方から来ていた見物客たちの船が全て去る頃には、神殿の周辺からも、一人、また一人と住人たちが去ってゆく。街には元の、ゆるりとした時間が戻りつつある。  けれどヘリホルにとっては、これからが始まりなのだ。  ウアセトからの協力の要請に応じることは、ハルシエスから正式に返答していた。これから、ウアセトからの援軍はティスの軍と合流してオアシスへ向かう。彼もそこに参加するのだ。  ティスの街へ戻るため、荷物をまとめてジェバの街を後にしたのは、それから何日も経たないうちのことだった。
/29ページ

最初のコメントを投稿しよう!

40人が本棚に入れています
本棚に追加