第五章 赤の地平(1)

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第五章 赤の地平(1)

 川を下る船のへりに止まって、鷹のヘカトは初めて見る光景を物珍しそうに眺めている。足に紐をつけるでもなく、籠に入れるでもなく好きにさせているヘリホルに、途中で乗ってきた客たちは皆、興味津々だ。  「よく慣れてるねえ。あんたどこの鷹匠だい」  「鷹匠ではありませんが…鷹神様の神殿で働いています」 もう何度も、同じことを問われ、同じ答えを返してきた。それだけ目を引くということなのだろう。  何日もかけて川を下る乗合の船の客たちは、途中の街で降りたり、逆に乗って来たり、次々に入れ替わっていく。目的地のティスの街は近い。次はようやく、ヘリホルたちの番になりそうだった。  葦の茂川べりの向こうに、見覚えのある黒犬神の神殿が見え始めた。川の水位の高い季節には、相変わらず基礎の部分まで水に浸かっている。  「ヘカト、そろそろだ。行くよ」 声をかけ、皮手袋をはめた腕を差し出すと、鷹はぴょんとその腕に飛び乗った。荷物を背負い、ヘリホルは近付いて来る船着き場の桟橋に勢いをつけて飛び乗った。  懐かしい空気、見慣れた雑踏。ここを発ったほんの一年前が遠い昔のように思える。  故郷の道を、彼は、両親と弟妹たちの住む家へ向かってゆっくりと歩いて行った。  帰ることを事前に手紙で報せる時間は無かったから、帰郷は、不意打ちのようなものだった。  けれど両親は家に居て、驚きつつも大喜びでヘリホルを迎えてくれた。年上の弟たちは学校に行っていて、年下の弟妹たちは姉夫婦のところへ遊びに行っているという。お陰で、不思議なくらい家は静かだ。  「夕方にはみんな戻って来ると思うのよ。あんたが帰ってきたと知ったら、みんな喜ぶと思うわよ。今夜は泊っていくでしょう?」  「うん、そのつもり。だけど珍しいね、父さんまで家にいるなんて」  「たまたま仕事が休みでな。休みを取らんと体がもたん。わしも、もう年だからな」 戸口の側に備え付けた長椅子に腰を下ろして、ビールをすする父の髪の毛は、もうほとんど真っ白だ。  「お前のほうは、仕事はどうだ。順調か?」  「ええ、ついこの間、大祭が終わったばかりなんです。素晴らしいお祭りでしたよ。昔、一緒に行ったあの時よりずっと賑やかでした」  「…あの時、か」 父の表情が微かに曇り、遠くを見るような眼差しとともに、椀を側に置いた。  「思えば、あれは本当に鷹神様からのお召しだったのだな。恨んでいるか? ずっと言えずにいたことを。…あの時、下の子供らはまだ小さくて、わしらは長男のお前を神殿に取られるのが嫌だったのだ。それで、また後日送り届けるからと言いつくろって、逃げるように鷹神の街を立ち去った…。」 ヘリホルの足元でじっと見上げている鷹の瞳を見下ろしながら、男は、微かに震えるような声でそう言った。  「鷹神様は、怒っていないだろうか?」  「まさか。それに鷹神様は父さんや母さんが黙っていることくらい、とっくにお見通しだったよ。知るのは今で良かったんだ。今だったから…」 そう、あの時、何も知らずにたった一人、荷運びだけ連れて沙漠へ旅立ったからこと、セティと出会えた。  役人として働いたことがあったから、神殿の酷い状況も何とか解決することが出来た。もしも子供のころに神殿へ送られていたら、きっと、今のこの状況は無かったはずなのだ。  ヘリホルは鷹を自由に遊ばせておきながら、戸口にとりつけた長椅子に父と並んで腰を下ろし、最近のことをあれこれと話した。神殿での暮らしより、このティスの街が上流のウアセトの王のもとに付く、という話のほうが重要だった。父も、その話は良く知っているという。  「このところ州軍の動きが激しいのは、皆、知っとるよ。今年の税はいつもの年より多くとられた。遠征に必要だから、とな。オアシスの街のほうは、防御壁を築いて自分たちで何とかしようしとるらしい。沙漠を越えてくる旅人はめっきり減った。近々、大きな遠征があるという話だ」 溜息交じりに、そう言った。  「州知事がどの王に付こうと、わしら庶民には大して変わらん。ただ、税が上がるのはごめんだ。盗賊がこっちに攻めてくるかもしれんし、早いとこ解決してくれるといいんだが」 母が、川で冷やした瓜を運んでくる。近くの畑で取れたものだ。小ぶりだが、割ると中から赤い果実が、溢れる果汁とともに弾けるように飛び出してくる。ほんのりと甘く、そして冷たい。種を指でほじくり出しながら、すするようにして食べる。  「――そういえばなぁ、ヘリホル。お前、結婚はしないのか?」  「ぶふっ。」 思わず、種がのどに詰まった。  「何だよ、父さん。いきなり」  「いや、お前もいい年だろう。独立もしたのだし、そろそろ嫁を貰わないのか? 向こうでもこっちでも、誰かこれという娘はおらんのか。居るなら、わしが話をつけてくるぞ」  「い、居ませんよ…」  「本当に?」  「ええ、今のところは。ごちそうさまでした、それじゃ夜までに神殿で先生に逢ってこなくちゃならないので、また後で。」 彼は急いで長椅子を立つと、鷹を拾い上げ、肩に乗せて逃げるように立ち去った。  「お父様、もういいの? もういいの?」 肩から、ヘカトの声が聴こえてくる。  「あとでまた戻って来る。お前は少し飛んでくるか?」  「いいの? 飛んでいい?」  「街が見える範囲から離れすぎないように。それから、飼われている鳥や人を襲わないように。もしも迷ったら、さっきの家に戻っておいで。」  「はぁい」  「それじゃ、行くぞ…せーの!」 勢いをつけて空中に放り投げた鷹が、その勢いに乗って翼をひらめかせて宙に上がっていく。たまたま見ていた近所の子供たちが歓声を上げる。金色の足環をひらめかせながら、鷹は、青い空の彼方へ吸い込まれていった。  街の雑踏を抜け、目の前に、黒犬神の神殿が見えてくる。  ジェフティメスはいつものように、祈りの間にいた。香油壷を手に、祈祷の言葉とともに手を差し出した信徒に清めの儀式をしている。両の手に、そして頭に油を注ぐ儀式は、冥界の使者である黒犬の姿をした神を祀るこの神殿では、難病から快癒するための悪霊払いや、身内に不幸が続いた場合の清めとして行われている。香油を注がれているのは若い親子で、様子からしておそらく後者だろう。  油を注がれた二人は、老神官に深く礼をし、祈りの間のほうに戻っていく。  ジェフティメスが香油壺を片づけるのを待って、ヘリホルは彼に近付いていった。  「先生」  「…来たか。」 まるで、待っていたといわんばかりに頷くと、老人はヘリホルに、奥へついてくるよう目で促した。  くぐり戸の奥の、誰もいない静かな回廊に出ると、ジェフティメスは静かに口を開いた。  「つい先日、ティスの州軍から先発隊が、オアシスへ向けて出発して行った。沙漠はひどい戦場になっておると聞くぞ。兵たちは足場の悪いところに誘い込まれ、砂に足を取られているうちに殺されてしまうのだとか。さきほど香油を注がれに来ておったのも、夫と兄、それに息子の一人を失った婦人じゃ」  「……。」  「この黒犬神(インプ)の神殿では、冥界へ降りて行く死者の魂を送り出す事しか出来ぬ。戦神の…沙漠の神(セト)に匹敵する強い守護神を、軍は求めておるのだ。お前が戻ってきたのは、そのためなのだろう?」  「ええ。」 ヘリホルは頷いた。  「でも、鷹神様はきっと、沙漠の神と戦うつもりはないでしょう。赤い土地(デシェレト)は元々、沙漠の神の領域です。我らの鷹神は黒い土地(ケメト)の王に過ぎないのですから」  「ウアセトの王はそうは考えておらん。赤い土地を平定し、オアシスに記念碑を建てたがっておる。そうすることで、『下の国』の王たちに先んずることが出来ると信じておるのだ。王とは本来、『二つの国』を統べるもの。されど今いる王たちの中に、この黒い土地の国(ケメト)を統一することの出来る者はおらぬのだから」  「だからと言って、赤い土地と黒い土地の二つを、…というのは」  「ああ。それに、方法が間違っておる」 老人は、小さくため息をついた。  「沙漠の神は決して何者にも、屈服させることなど出来ぬのだ。そしてまた、しようとしてはならぬ。あれはこの世の、秩序だった世界の裏側の面なのだ。黒き土地の秩序からはみ出した者たちを救い上げる、もう一つの秩序だ。沙漠の神とて、かつては、秩序世界の王たる鷹神の対なる存在にして、王権を支える二柱の神の片方だった」  「つまり――どちらか一方だけでは秩序は成立しない、と?」  「そうだ。いにしえの王たちは王権の守護者たる鷹神に祈りを捧げながら、同時に異境の赤い神にも敬意を払ったものだった。大地の結合(セマァ・タウィ)の儀式は、そうして生まれた。それこそが、この世を正しく保つ唯一の方法だった。……」 杖の先で軽く床石を叩き、老人はゆっくりと、差し込む光のほうに顔を上げる。  「荒れ狂う沙漠の混沌に立ち向かうには、赤い神の力も必要だ。――お前には、それが出来るか?」  「はい」 ヘリホルは、頷いた。  「もう二度も行ったことがあるのですから。鷹神様はこの時のために、私を沙漠へ遣わしたのだと思います。」  「そうか。ならば、もう何も言わん。こんな老いぼれの浅知恵など、深淵なる天の神々には及ぶべくも無いのだから」 微笑みながら、ジェフティメスはしわがれた手でヘリホルの手をとり、自分の額に当てるようにしながら、祝福と清めの詞を呟いた。  「行っておいで、我が愛しい弟子よ。そなたに生ける者の守護者たちよりのご加護のあらんことを」 神殿を出ると、どこかから、甲高い鳶のような声が響いて来る。  葬列がやって来るのだ。声は、先頭を歩く泣き女たちのものだ。項垂れた喪主が続き、後ろには、そりに乗せた棺をかつぐ男たち。  神殿と川辺の間にある「清めの幕屋」で処置された遺体を、西の墓地へと運んでいくのだ。女たちはひっきりなしに泣きわめき、髪を振り乱して砂を被っている。棺に添えられた折れた槍と切り裂かれた盾を見るに、この死者も、軍人の誰かに違いない。  (沙漠では今も、人が殺されている…) 州知事とともに野営した丘で、あっという間に同行の兵たちを殺された日のことを思い出し、ヘリホルの胸が微かに疼いた。  こんな惨劇はもう、止めなければならない。  誰にも、どんな理由があれ、無駄に命を奪うことなど許されない。  怒り。憎しみ。…胸の奥に沸き上がるそうした感情は、おそらく、鷹神よりは嵐の神に属するものなのだ。けれど人間は誰しも、そうした混沌とした感情を持っている。――生きるということ自体が『欲』である以上、人の内側には、常に嵐の神(セト)の一部が棲んでいるのだ。  「お父様ー」 太陽の光を浴びて金色の羽毛を輝かせながら、空から鷹が舞い降りてくる。ヘリホルが腕を差し出すと、鷹はその上に器用に着地した。  「そろそろ戻ろうか、ヘカト。楽しかったか?」  「うん、あのねあのね、いっぱい人がいたのよ。おいしい匂いもたくさんしたよ。それからねえ。…」 これから向かう戦場に、人間世界のことなど無関係に生きているヘカトを連れていくことは少しだけ罪悪感があった。けれどこれは、ヘカト自身が望み、ウアセトの高官パディアメンも強く要望したことなのだ。  「生ける神たる聖鷹を戦場へ連れてくるように」と。  もちろん、ヘリホルはヘカトが鷹神の使いだなどとは思ってもいない。そもそも雌なのだし、まだ若く何でも興味を持ってあちこち突きまわる姿からしても、聖鷹というには程遠い。  けれど鷹神の神殿で飼われている、まるで人間の言うことが分かるように「賢い」鷹は、それだけで特別な存在として見られ、奇跡を期待される。鷹神の神殿への、王や有力貴族たちからの失われた信頼の回復にも繋がるはずだ。  今やヘリホルの肩にかかっているのは、単なる彼自身への期待と責任だけではないのだった。  * * * * * *  狭い谷を、砂混じりの風が吹き抜ける。  熱に喘ぎながら、数名の兵士を引き連れた大柄な男が、血眼に辺りを見回していた。体を覆う皮鎧には無数の傷がつき、盾には折れた矢先が残されている。  少し前、大きな戦闘が終わったのだ。  オアシスから半日ほどの距離だ。偵察隊が見つけた少人数の盗賊団を追って進軍していた州軍の部隊は、誘い込まれたこの隘路で左右から奇襲を受け、成すすべなく撤退した。逃げる仲間の時間を稼ぐため、最後まで戦場に残ったのが、指揮官らしきこの男だった。足元には、力尽きた敵味方双方の骸が点々と転がっている。悲惨な状況だ。  「…くっ。逃がしたか」 敵の姿が無いことに苛立って呟く男の言葉に、どこかから、応える声がある。  「んだよ、あんたがな。良かったな、あいつらがメシの時間に忠実で」  「?! 何者だ」 見上げて目を凝らしたウェンアメンは、頭上の岩陰に誰かがいるのに気が付いた。けれど太陽の光を背にした眩しさで、その姿はほとんど影のようにしか見えない。  「現状を見た方がいいぜ指揮官さん。あんたは連中にいいように誘い込まれて、死ななくてもいい部下をむざむざ見殺しにしたんだ。沙漠(ここ)じゃ単なる腕っぷしだけじゃ生き残れない」  「――貴様…いや、お前は」 頭に巻いた布の下にかすかに見える赤い髪に気づいて、男は口調をわずかに変える。  「オアシスの住人たちが言っていた沙漠の神(セト)の代理人、とやらか」  「そんなんじゃねぇって。まったく、どいつもこいつも、人に適当な仇名つけやがって」 光を背にしたまま、男は、ウェンアメンに告げた。  「あいつらの根城なら知ってるが、頭に血の昇ったあんたに教えても、真っすぐ突撃して無駄死にするだけだ。もっとマシな指揮官はいねぇのか」  「マシな、とは。…は、はは。言ってくれる。これでも私は、幾たびかこの沙漠へ遠征して来た。州知事どのの護衛も務めてな」  「州知事? …ん、あんたもしかして、鉱山を掘り出しに来てた時の?」  「知っているのか」  「ああ、俺の庭ん中での出来事だしな。ということは、――あんた、ヘリホルって役人を知ってるか?」  「何?」 ウェンアメンの表情が変わった。「なぜ、その名を…」  「知り合いか。…なら、まぁ一応、助けてやる理由くらいにはなるな。」 振り返って、赤い髪の男は叫んだ。  「カー! この、ふらふらの旦那たちに水を配ってやれ」  「へーい」 どこからともなく声がして、革袋を背負った少年がひょっこり、崖から姿を現した。そして、どう見ても足場の無さそうな崖を、身軽にひょいひょいと駆け下りて来て、喉の渇きで倒れそうになっている兵士たちに配って回る。  「あ、ありがてえ…」  「たんと飲んでくだせえ。今んとこ、このへんにゃ敵はいやせんから」 ウェンアメンは怪訝そうな顔をしたまま、まだ、セティのほうを見つめている。  「…なぜ、助ける? 聞けばお前たちは盗賊くずれで、我々とは何の契約も結んでいないはずだ」  「俺ぁ契約だの約束だのが苦手でね。やりたいようにやるだけだ。少なくとも今は、あんたらは俺の敵じゃ無ぇ。俺はな、あんたらに、あの厄介なハイエナどもを退治させてぇんだ。そのためにはまだ、ここで死んでもらうわけにはいかねぇんだよな。」 どこか小ばかにしたようでもある軽い口調には、しかし、冗談ではないと信じさせるだけの響きがある。  「――ヘリホル殿はここへ戻って来るぞ。次の、ウアセトからの増援隊と一緒に」  「へえ? あいつ神殿に転職したんじゃなかったっけ? 何でまた」  「その、神殿の代表としてだ。鷹神の標章(しるし)を携えて、遠征隊への神のご加護を示すために」 言いながら、ウェンアメンは驚いた顔をしていた。  「神殿に行ったことまで知っているということは、最近、どこかで会ったのか?」  「さぁーてな。沙漠ってのは、あんたらが思ってるよりも案外、狭いもんなんだ。」 はぐらかすように言って、セティは、ひょいと岩を飛び越えた。  「一休みが済んだら、ついて来な。オアシスに戻る近道を教えてやるよ。」  「……。」 この得体のしれない男を、信用してもいいのかどうか。ウァンアメンは僅かに迷っていた。  けれど口を付けた皮袋の中から流れ込んでくる冷たい水には抗いがたい。どうやら毒などは入っていないようだ。それに、もう連れの兵士たちはたらふく飲んでしまっている。  「早くしろよー」 遠くから声が急かしている。袋を半分ほど開けてから、ウェンアメンは、意を決したように後に続いた。  不吉の神の申し子だろうが、盗賊くずれだろうが、今は少しでも味方が欲しい。このままでは手も足も出ず、汚名を着たまま無駄死にすることになるのは確実なのだから。  彼はまだ知るよしもない。  その頃、オアシスの街では、今までに見たことのないほど沢山の兵が「壺の道」を向かってくるというので、大騒ぎになっていた。  先頭に掲げられた軍旗はいつものティス州のものではなく、もっと上流のウアセトのものだったと。そしてその中に、金色に輝く鷹を連れた、兵にも神官にも見えない奇妙な人物が一人いた、という。
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