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第五章 赤の地平(4)
砂混じりの風が吹いている。いつも夜明け前に吹く風だ。
昼は沙漠から谷間へと吹く風が、一番気温の下がるこの時間には、昼の熱を失った沙漠へと逆方向に流れ始める。
夜の十二時間が終わり、昼の十二時間へと切り替わる少し前に起きる現象だ。間もなく死せる太陽は、地下の危険な冥界を潜り抜け、東の空へと新たな誕生と再生を果たすだろう。太陽を食らい永遠の闇をもたらす混沌の蛇は、その時には太陽を守護する戦の神々によって打ち倒される運命にある。
地平を見渡す小高い岩の上に腰を下ろしたまま、頬に傷跡のある男は無言に世界を眺めていた。
緑のオアシスは、変らず視界の端に在る。それは、彼の望みがかなわなかったことを意味している。
けれど今宵は多くの血が流れ、将兵たちも、有象無象のならず者たちも、皆等しく西の国へと旅立っていった。何カ月にも渡り、彼は街道をゆく旅人たちを恐怖の存底に陥れ、数多の未亡人とみなし子たちを生み出してきた。
沙漠を渦巻いた混沌は、彼にとって心地よいものだった。そのために生まれた犠牲など、大したものではない。
――潮時だ。ここではもう、これ以上を生み出すことは出来ないだろう。
新たな混沌を撒くために、新たな土地を探すのだ。
腰を上げ、立ち去りかけた男の目の前を、場違いにも鷹が横切っていく。
(夜に鷹? …)
甲高い声を上げてくるりと向きを変えた鷹は、なおも彼の頭上を離れない。野生の鳥ではなく、主人がいるのだ。岩から滑り降りた男の目の前に、それらしき人物が待っていた。
「よお、探したぜ、『混沌の蛇』とやら。俺に挨拶もなしに何所へ出かけようってんだ」
不敵な笑みを浮かべた、赤い髪の若い男。とても鷹匠には見えないが、鷹を追ってここまで来たことは明白だった。
「言ったはずだぞ。次に逢う時は、お前の首を貰うと」
「獲りに来ねぇから俺のほうから来てやったんだよ。もっとも、俺のほうもタダでくれてやる気は無いが」
セティは剣を抜くと、喉元に突き付けるようにして真っすぐに切っ先を男に向けた。
「沙漠から生かして出すつもりは無ぇ。てめぇは沙漠の主の物を奪おうとした。その落とし前、キッチリつけてもらうぞ。」
「神官どものようなことを言う。お前は、自分を追放した黒い土地の国の秩序に従うのか?」
「俺が従うのは赤い土地の掟だ!」
獣が獲物に襲い掛かる時のように、セティは、俊敏な動きで跳躍した。足場の悪い狭い岩場では大胆な動きだ。けれど、彼にはそれが出来るだけの慣れと自信がある。
「己に利のある場所を選んで襲って来たか。少しは考えたようだが…」
攻撃を受け流しながら男は呟く。
「お前は生きることに執着しすぎている」
足払い。転がりながら手を突いたセティの頭上に、致命傷を与える剣がひらめく。
けれどそれは岩にぶつかっただけで、狙い通りの場所には打ち込まれなかった。セティは素早く体を折って脱出し、次の瞬間には間合いの先で態勢を整えている。
野生のままに煌めく瞳の奥には、単純な怒りや憎しみとは違う、揺らめく激情の炎が昂っている。
「お前は何故、勝てもしない戦いに挑む? 何故そうも、私と戦おうとする」
「へっ、負けっぱなしじゃ気分が悪ぃだろ? それになぁ、俺ぁてめぇが気に入らねぇんだよ。何故、本当に望むものを目指さない? 欲しいものがあるなら手に入れればいい。やりたいことがあるならすればいい! なのに不幸ぶった顔をして、他人の生きざまを羨ましそうに指くわえて見てるだけ。それで手に入らねぇ腹いせに、他人を痛めつけることで留飲を下げようしてやがるんだ。弱虫のやることだぜ、そんな生き方は」
「…弱い? この私を、弱いというのか」
「ああ、弱虫の負け犬だよ。反吐が出る。親父は自分で望んでここへ来た。俺もここで自由に生きてる。オアシスや黒い土地の連中を羨んだことなどあるものか。この生き方が俺だ! この赤い土地が、沙漠が、俺の望んだ世界なんだよ!」
頬の傷をゆっくりともたげながら、男は笑う。――犬歯を剥きだしにして、静かな暗い感情に身を焦がしながら腕を上げる。
「――ふ、そうか。お前は最初から、満たされていたのか。誘いに乗らぬのも道理だな」
黒い不吉な刃がひらめいた。
「いいだろう、ならば貴様もここで死ぬがいい。道半ばにして無惨に息絶える不幸こそ、我の欲するものなり!」
襲い掛かって来る剣戟は、先ほどまでとは比べ物にならないほどの激しさだった。一撃でも食らえば、確実に死に至る。一瞬たりとも気を抜くことは許されず、ほんの数瞬の差が命運を分ける。
体に刻まれていく浅い傷からは、次々と血が噴き出し、纏った亜麻布を重たく染めていく。
これが、この男の”本気”なのか。
受け流すことも出来ず、逃げ回るのが精いっぱいのセティは、致命傷だけは食らわないよう必死だった。勝てるなどとは最初から思っていなかったが、これでは時間稼ぎさえ難しい。
東の空が明け始めている。
そろそろだ。
視界の端に、何かを足にぶら下げた鷹が舞い上がるのが見える。セティは思い切って、剣を大きく振りかぶった。そして、いきなり男めがけて剣を投げつけると、腰から短剣を抜いて逆方向に駆けだした。
「? 何を」
投げつけられた剣を受け流した男は、それを破れかぶれの無駄な戦術と思ったようだった。
「この期に及んで逃げようとは。」
セティを追う男の目の前に、突然、真っ白なものが広がった。
「!」
端に小石を括り付けた大きな亜麻布――鷹がその上から男の顔にかぎ爪をたて、激しく啼いて今だと報せる。
「ピィッ、ピィィイッ」
「くっ、無駄なことを…」
布を払いのけた目の前には、僅かな隙をついて間合いを詰めたセティが迫っている。
だが、手にしているのは短剣だ。剣を持つ敵に傷を負わせるには、懐深くまで飛び込まねばならない。相打ち狙いとも思える捨て身の攻撃に備えるため、戦いに慣れた男は、ためらわず剣をセティに向けた。
その、ほんの一瞬のことだった。
背中から胸元に向けて、さっきセティが手放したはずの剣の切っ先が突き出した。
「…ごふっ」
血を吐きながら、男は信じられないという目で自分の胸から突き出す剣を見た。
それから、全体重をかけて剣を突きたて、後ろでぜいぜいと息をついている、真っ青な顔をしたもう一人の貧弱な腕をした男を見た。
「貴様、は…あの時の…」
セティは、攻撃すると見せかけて直前で足を止めていた。
そして、渾身の一撃を成功させたはずみで糸が切れたようなへたりこむヘリホルを抱えて、少し離れた場所まで退いた。
「はあ、はあ…で、出来たよ」
「ああ、よくやった。悪ぃな、こんな汚れ仕事、お前にまで手伝わせちまって」
「いや…役に立てて、良かった…」
人に武器を向けるのなど初めてのヘリホルは、まだ手をこわばらせたまま微かに震えている。
最初から、二人がかりのつもりだった。セティは囮。本命はヘリホル。
そう、これは、――二人で話し合って決めた、一世一代の”賭け"だったのだ。
致命傷を負ったアペピは、その場に膝をつき、血にまみれた口元を押さえていた。胸の傷からも、指の間からも次々と血が溢れてくる。
「二人がかりとは卑怯な、と、言いたいところだが…これも、戦いだな」
消えかけた息の下からそう言って、男は微かに自嘲するような笑みを口元に浮かべた。
敗因は明らかだった。驚異にもならぬと見做したヘリホルを見逃していたこと。視界の端に映っていたかもしれない姿を、故意に無いものとして認識した、強すぎるがゆえの慢心。
敵の居ない男にとって、敵は、意外なところに潜んでいたのだ。
「だが、なぜ…お前たちはそうも、互いを信じていられる? お前たちは、生きる世界さえ違う…決して交わらぬはずの者たちだ」
「はあ? 何言ってんだお前。他人が自分と違うなんてのは、当たり前だろうが。そんなんでいちいち敵対してたら、この世は敵しかいなくなっちまうぞ?」
さも当たり前だと言わんばかりの、容赦ないセティの口調には、思わずヘリホルも苦笑していた。
「身もふたもない言い方だけど、間違いではないね。そう、違うからこそ、判り合えることもある。それに正反対ということは、背中合わせということだ。君には、背中を預けられる相手は居なかったのか?」
驚き目を見開いたアペピの、既に血の気を失い始めた唇が歪んだ。
「……ふっ」
掠れた笑い声を上げた。
「ははっ、は、…完敗だな。だが、十分に楽しめたぞ。この世に、大いなる混沌を…」
ゴボッ、と喉が音をたて、それが最期の息となった。
力なく、だらりと垂れ下がった腕が地面につくと同時に、体は前のめりとなって、自らの血が作り出した赤い海の中に沈んでゆく。その色が見えるということは、夜の中に光が戻って来つつあるということだ。
東のほうから星々が消えて行く。
動かなくなった男に近付くと、セティはその背中に突き立ったままの剣を引き抜いた。
生死をかけた戦いを生き延びたばかりだというのに、彼は意外なほど淡々として、まだ震えてまともに立ち上がれもしないヘリホルなどとは雲泥の差だ。
「結局こいつは、何がしたかったんだ?」
「…さあ。もしかしたら本気で、全てを壊して、殺し尽くして、世界を始まりの状態に戻したかった、…のかもしれないな。神話の中の『混沌の蛇』のように。」
「ただの人間が? 出来るわけないだろ」
バッサリと言って、彼は剣の血を拭って腰に下げた鞘に納めた。沙漠に生きる彼にとっては、これも、日常の一部なのだろう。
空で様子を伺っていた鷹が、舞い降りてくる。戻って来たセティが手を差し出した。
「立てるか? ヘリホル」
「何とかね。」
腕を掴んで引っ張り上げられた時、脇から、眩い光が押し寄せてきた。
思わず手を翳した空に、東の地平に、金色の翼を広げた太陽の船が天を目指して昇って来る。
視界に広がる世界の全てが、赤く、朝焼けの色に染まっていく。
「――ああ、今日もまた、太陽のお出ましだな。」
嬉しそうに呟くセティの横顔も、光の中で赤く染まっている。
沙漠の地平には満足げな沙漠の神の吐息が流れ、谷間にも、オアシスの街にも、砂の丘にも、いつしか静けさが戻って来ていた。
返り血まみれの酷い格好で戻って来たヘリホルを見ても、もはやウェンアメンは驚かなかった。ただ短く、尋ねた。
「終わったのか」
「はい。なんとか片付きました」
頷いて、彼は眠そうにしている鷹をそっと撫でる。
長い夜は明けた。
あちこちで、疲れ果てた兵士たちが横になっていたり、仲間たちから傷の手当てを受けたりしている。
まだ動く元気のある者たちは、沙漠に転がった屍を拾い集めに回っている。盗賊たちの遺体は穴を掘ってまとめて埋め、兵や街の住人であればそれぞれの家族のもとに返すのだ。
見たところ、後者の被害はそれほど大きくない。
「盗賊団の隠れ家のほうは?」
「問題無く一網打尽だ。盗んだものをどこに隠したか聞き出すために、頭だけは一応、生かして捕えさせた。」
ウェンアメンは、後ろのほうで兵士たちに引きたてられている男のほうにちらりと視線をやった。歯が折れて顔中腫れあがっているが、ゲレグに違いない。
「なあ、助けてくれよォ! 何でもするからよォ! お、お宝のありかは教えてやったろ?!」
「終始あの調子でな。」
うんざりした様子で、彼はひとつため息をついた。
「あんな男に率いられた連中にいいようにあしらわれていたとは、我が身の不甲斐なさよ」
「実際には、雇われていた傭兵の男のほうが頭に近かったのでしょう」
と、ヘリホル。
「思想こそまともではありませんでしたが、あの男は強い意思と、実力と…どこか、見逃せない威厳のようなものを持っていた」
「奴隷だったとは思えない。一体何者だったのだろうな。」
「さあ、…どうでしょうね」
今となっては、知る由もない。
けれどあの男の余裕に満ちた立ち居振る舞いからして、どこか地位の高い家柄なのではないかという気がしていた。他者が自分に従うことに何らの違和感も、疑いも持たない、生まれながらの王者のような貫禄。
彼に誤算だったのは、この赤い土地にはもう一人の、「王」が存在したこと。
――ここでは、誰かを従えることは「王」の条件ではない。何者にも従うことのない自由なる存在こそ、真の「王」なのだ。
「あっお、お前! セティの奴と一緒にいた役人! お前!」
ヘリホルの姿を見つけたゲレグが、唾を飛ばしながら怒鳴った。
「セティは何所だ?! あの、裏切り者! あいつの親父はすげぇ財宝を隠してやがったんだぞ。王家から盗み出したっていう、秘宝をな!」
「やれやれ。まだ言ってるのか」
苦笑しながら、ヘリホルは哀れな男に近付いて、親切にも言ってやった。
「君はセティの近くにいて、全く気付いてもいなかったんだな。その財宝、どこにあったと思う?」
「あ?…」
「彼の心臓の中だ。盗み出したものというのは、彼に流れる血だよ。」
ゲレグの顔が、面白いほどぽかんとなるのが分かった。
「意味が判ったか?」
にやりと笑って、ヘリホルは踵を返した。
この男に関わるのはもう、これでお終いになるだろう。どんなに命ごいしようが、無駄なことだ。罪状は明らかで、黒い土地の国の法廷に引き出されることすらないだろう。
戦場の片付けが終わって、全軍の責任者であるパディアメンが戻ってきたら、彼が沙汰を言い渡す。そうしたら、部下たちが盗賊の遺体を放り込んだ穴の前で、刑を下すだろう。
天幕に入り、血に汚れた服を脱いで丸めて放り出すと、ヘリホルは深いため息とともに敷き布の上に横たわった。
この遠征の前に抱いていた怒りは、いつしか哀れみへと変わっていた。
飢えから逃れるために死に物狂いで街を目指した盗賊たちも、人を屠ることが自分の仕事だと信じてぼろぼろになるまで短剣を振るっていたあの男も、きっと本当は生きていたかったはずなのだ。
ただ、生きる方法と、生きる場所とを間違えただけなのだ。
* * * * * *
傷だらけになって戻って来たセティを出迎えたのは、先に戻っていた黒犬のカイビトだった。隠れ家の入り口に立って、匂いのする方角をじっと見つめていた彼女は、セティが近づいていくと珍しく尾を振りながら駆け寄って来ると、湿った鼻を掌に押し付ける。
「何だよ、心配させるなって? ちゃんと帰ってきたからいいだろ。」
「…クゥン」
「お前もな。ご苦労だった、カイビト」
首のあたりに腕を回してしっかり撫でてやったあと、セティは、隠れ家の中に入っていった。
「あっ、アニキ!」
一階の少し入ったあたりの部屋から、カーが飛び出してくる。
「わあ、いっぱいケガしてるんでやすね?! ちょ、ちょっと待っててください。切り傷の薬が上に…」
ばたばたと梯子を駆け上がっていく少年を見送ってから、彼は、さっきまでカーがいたあたりに、後ろ手に縛られたままむっつりと座っている女を見下ろした。
性別を偽るためにきつく頭に撒いていた布がほどけて、肩まである結んだ髪が肩に垂れている。だぶっとした上着は手を結ぶのに使われてしまって、ほっそりした上半身の輪郭があらわになっている。
血にまみれたセティの姿を見て、女は低く、ぽつりと言った。
「…殺したんだな」
「ああ、殺した。――何だ? あんた、やっぱりあいつに惚れ…」
「違う!」
ヨアキムと名乗っていた女は、激しく頭を振って唇を噛む。大きな瞳からは、涙がぽろぽろと零れ落ちる。
「あの方は私を、私の力を必要としてくれたんだ。行き場のない私に、意味を…場所をくれた。…どこへ行けばいい…帰る場所はなくなってしまった…」
「はあ、やれやれ。結局、それがお前の欲しかったものなのか。」
セティは、大仰に溜息をついた。
「なら、何所でも、自分の行きたいところへ行けばいいだろうが。居場所なんてなぁ、人に貰うもんじゃねぇんだよ。自分で決めて住み着きゃ、そこが自分の『居場所』になるんだよ」
「か、簡単に言うな! お前のような好き勝手生きてる奴と一緒にするなっ」
「んなこと言ったって、お前はまだ生きてるんだし、いますぐ首括るんでもなきゃ、居場所は自分で見つけなきゃどうにもならんだろうが。違うか? あーあ、俺もちぃと疲れたし、色々と聞き出すつもりだったが、何か面倒になっちまったな」
大きく伸びをすると、セティは女の後ろ手を括っていた布を外してやった。
「ま、しばらくは泊めてやってもいい。その代わり、そこの外にある水壷の取り換えはしろよ。四半日もすれば一杯になる。一杯になりそうなのに気が付いたら、空のと取っ換えるんだ」
「水壷…? 水汲み…を、やれというのか」
「おいおい、まさか、水汲みなんて女の仕事はやりたくねぇ、なんて言わねぇよなあ?」
セティは、白い歯を見せてにやりと笑った。
「俺ぁな、ここに泊りに来た奴には、男だろうが女だろうが全員この仕事をさせてるんだよ。前に此処へ来たお役人さんは、文句も言わずにやってたぜ?」
「……。」
「さーてと。そんじゃ俺は上でひと眠りしてくっか。…おいカイビト、こいつがヘタなことしねーように見張っといてくれよなあ」
影に紛れるようにしてこちらを見ている黒犬に言いつけると、セティは、さっきカーが登った梯子の先へと消えて行く。
大粒の涙を頬に残したまま、女は、ただぽかんとしてその姿を見送っていた。
* * * * * *
オアシスでの後始末は、数日のうちに終わっていた。
パディアメンはオアシスの住人たちを集め、長らく人々の生活を脅かしてきた盗賊団が「ウアセトの王の威光によって」残さず倒されたこと、今後は「偉大なるウアセトの王が」責任をもってオアシスと、そこを通過する旅人たちの安全を保障することを高らかに告げた。
「そしてまた、街にあるアメン神の神殿も、いずれは真の民人の守護者たる陛下の御名において、増築されるだろう。」
住人たちは、顔を見合わせて何やら話し合った。奇妙なざわめきが収まったあと、一人の代表者が手を上げた。
「あのう、それなら一つお願いがあるんですが」
「何だ」
「神殿を増築するんなら、沙漠の神様の祭壇も作ってくださいよ」
これは意外な要望だったと見え、パディアメンは微かに眉を跳ね上げた。
「不吉なる赤い土地の神を祀れというのか」
「ええ、だって、ここは赤い土地ですから」
どこかから、くすくすと小さな笑い声が起こる。
「それに、――今回は沙漠の神様へのお供えが、やっぱ一番、効いたので。」
「検討はしてみよう。」
渋い顔で頷いて、パディアメンはその先も続くはずだった演説を打ち切って、そそくさと引き上げていってしまった。
これには、離れた場所で見ていたヘリホルも、思わず吹き出さずにはいられなかった。セティが聞いたらどんな顔をするだろうか。
「実際、どうなのだろうな」
振り返ると、後ろでウェンアメンが難しい顔をして腕を組んでいた。
「ウアセトの王は代々、見えざる神の大神殿の支配下に置かれてきた。この地を治めるために沙漠の神の力が必要だとしても、そう簡単に認められはすまいが」
「必要ならば祭壇くらい作るのでは? 彼らがどうしてもここを手に入れたかったのは、オアシスを通る交易路から上がってくる税収が魅力的だからでしょう。沙漠の街道を押さえてしまえば、クシュやワワトから来る高価な品も、下の国へ流れる前に抑えることが出来る」
僅かに驚いた顔をしつつも、ウェンアメンは、どこか嬉しそうに顔になっていた。
「…安心した。貴殿はまだ、役人の考え方のままなのだな」
街の人々が散らばっていく。兵たちは、天幕を解体してロバに積み、帰り支度を始めている。それぞれの街へ、長い帰路につくのだ。
腕をほどいて部下たちの動きを眺めやっているウェンアメンの表情は穏やかで、仕事を立派に終えた男の顔をしていた。
「そういえば、…ウェンアメン殿は州知事どのの異母兄弟、と伺いましたが」
と、ヘリホルは、ずっと気になっていたことを思い切って尋ねてみてた。
「ケリから聞いたのか」
「ええ。不思議だったんですよ。どうして、貴方ほどの方があの州知事どのに変わらず仕えていられるのか」
ウェンアメンは、小さく俯いた。
「傍目に見れば、そうかもしれん。確かに兄には、無能と謗られてもしようのないところが沢山ある。だがな。私はそんな、あの異母兄を家族して愛しているのだよ。妾腹の子である私を弟と呼んで親しく接してくれた、母の死に共に涙してくれた…愚かだがお人好しで、考え無しだが正直な、あの男をな。」
「…そうですか。それなら、私ももう何も言いません。州知事どのの今回の決断が、ティスのために良きものとなることを願っています。」
「ああ。そうしてくれ」
ティスがウアセトの王につき、オアシスと沙漠の街道がウアセトの王の支配するところとなったことで、黒い土地の国の王たちの力関係は多少は動くだろう。
けれど、その地を統一するたった一人の王が立つまでは、それから何世代もの時を待たねばならない。そして、黒い土地の王が誰になろうとも、この赤い土地では、真の王は常に変わることはない。――
――大きな歴史の嵐が迫りつつある。黒い土地の秩序が細切れにされ、全て消えてゆく時は、いずれやって来る
けれどそれでも赤い沙漠に住む人々は、変らずここに、この地の秩序とともに、生きていくだろう。
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