終章-約束の彼方

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終章-約束の彼方

 どん、どんと太鼓の音が高らかに響き、参道には色とりどりの布が風にたなびいている。  あれから一年が経ち、今年もまた、鷹神の大祭の日がやってきたのだ。  川の水位は最高潮に達し、イウニトからの船は、深い喫水のまま、ゆっくりと水面を揺らし遡上して来ようとしている。港の前には揃いの白い袈裟をまとった、まだ若い神官たちが出迎えのために並んでいる。  この一年の間に増えた、新米たちだ。  オアシスへの遠征いらい都からの寄進は増え、同時に、ウアセトや周辺の街から貴族の子弟も送り込まれてくるようになったのだ。家柄の良い若者たちは最初から読み書きの出来る者も多かったから、神官長のハルシエスの日課の仕事も随分と楽になったようだった。  鷹神の標章を掲げる役を神官に譲り、ヘリホルは今回、小姓役として香炉を手に列の端にひっそりと控えていた。  標章の先にとまっているヘカトは見るからに退屈している様子だったが、今のところ、事前に言い含めたとおり大人しくはしているようだった。  船が着岸し、乗船していた着飾った娘たちが、一人ずつ手を取られて桟橋に降りてくる。  そして最後にメリハトルが、以前見た時よりもずっと美しくなって、優雅に降りて来た。彼女は辺りを見回すと、隅の方にいたヘリホルを目ざとく見つけ、思わずどきりとするような笑みを浮かべた。そして出迎えの若い神官の手を取るふりをしながら、いたずらっぽく目くばせしてみせると、何事も無かったかのように、澄ました顔で参道のほうへと歩き出す。  あんな約束はただの気まぐれだったと思っていたのに、彼女はどうやら本気らしい。  (…やれやれ。すぐに飽きてくれるといいんだが) 今年は年寄りばかりではなく、若い神官もいるのだから。…そう思いながらも、彼にはどこか、楽しいような気分があった。  彼自身も、恋などというものを知らない。そう、誰かに想われるのは、きっと、悪いものではない。  行列を終えて神殿に戻ると、鷹神の標章で大人しくしていたヘカトが勢いよく飛んで戻ってきた。  「お父様、お父様」  「わっ…こら、今は手袋をしてないから、爪に気を付けて」  「あのねさっきね、赤い人いたよ。沙漠にいた赤い人がいたよ。」  「えっ? セティが?」 驚いて、彼は手にしていた香油を置くなりすぐに神殿を抜け出した。今日はもう、彼の出番は無い。到着した歌い手たちが夕方に、神殿前の中庭で歌を披露する時に少しだけ、手伝いに戻ってくればいい。  鷹を連れて人混みの中をかき分けていくと、参道の脇の露店の前に、確かに、よく目立つ赤い髪の男が立っている。それに、カーと、見たことのない黒髪の人物も一緒だ。  「おーい、セティ!」 手を振って声をかけると、男が振り返る。  「おっ、ヘリホル。いいのか、お勤め抜け出して」  「私はただの手伝いだ。働くのは神官たちだから構わない。それより君こそ、どうしてここへ…」  「いや何、でかい祭りやるって聞いてな。こいつが見てみたいって言うもんで連れて来たんだよ」 そう言って、セティは傍らの、頭にかぶった亜麻布の端をもじもじといじっている若い女性を指さした。セティと同じように沙漠の民の格好をしているが、どこか異国風の顔立ちで、腰には用心深く短剣を提げている。  「ん? 君、どこかで会ったことが?」  「な、無いっ」 何故か焦った様子で言うなり、彼女は、くるりと背を向けた。  「私は…他に行っている…」 小さな声でそれだけ言い残し、慌ててヘリホルの元を立ち去っていく。  「おい、一人でウロウロすると迷うぞ。…ったく、しょうがねぇな、おいカー。ついてってやれ。お前も羽目を外しすぎるなよ」  「へぇい」 余程の恥ずかしがり屋か人見知りなのだろう、とヘリホルは勝手に思うことにした。それにしても、セティが年頃の女性を祭りに連れてくるとは、何か、先を越されたような気がして少し悔しい。  「それにしても、まさかまたここで君と会えるとは。どうだい? ここの祭りは」  「まぁ悪か無えな。ちょいと人混みが過ぎるんで、毎日この調子だとキツそうだが。」 腰に手をやって神殿のほうを振り返り、彼は、どこか懐かしそうな顔をした。  「俺の親父も、昔はこんな風景を見てたんだろうな…」  「今日は、夕方から神殿の中庭で歌が披露される。是非、みんなで聞きに来るといいよ」  「歌か。酒も出るのか?」  「それは…出ないけど。今年は甘いお菓子を配ることになってる。蜂蜜をかけた、イチジク入りの焼き菓子を」 立ち話をしていたのはほんの僅かな間のことで、それからすぐに、二人は別れた。けれどこの場所で、再び会えたことだけで十分だった。  二つの地平を繋ぐ道は交わり、そしてまた通り過ぎてゆく。  それが神のお導きにせよ、偶然にせよ、この先も、繰り返し何度でも、彼らはきっと出会い、そのたびに、二つの大地を結び付けてゆく。  かつて赤と黒の、二柱の神々がそうしたように。
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