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第一章 獅子と鷹(3)
「…う、うん」
自分の唸り声で目が覚めた。重たい瞼を開くとヘリホルは、仰向けになったまま、しばし、天井を見あげていた。
暗がりに転がってじっとしたまま、しばしの間、ここは何所だっただろうかと考える。そして、砂嵐に乗じて盗賊に拘束されたこと、共に失われた鉱山を探しに行くという「取引」をしたことをようやく思い出した。
周囲には相変わらず、音が無い。だが、闇の向こうから辛うじて、微かな水の滴るような音が耳に届いている。
(そうだ…水壷)
セティに言われていたことを思い出し、彼は体の下に敷いていたマントを体に巻き付けて起き上がった。闇の中に手探りするように外に出ると、岩の間から湧き出した細い流れがちょうど壷を満たし切ったところで、水音の正体は、壺の縁から零れ始めた細い流れだった。
ヘリホルは、苦労して重たい壺を脇へ避けると、新しい空の壷を持ってきて、水の流れの真下に置いた。一杯になっても運べるよう、少し小さめの壷を選んでおいた。問題は、既に水の一杯になっている大きな壷のほうだ。こればっかりは、彼の力ではどう頑張っても持ち上がりそうにない。
すう、と黒いものが横切り、腕に生暖かいものが触れた。
「ひゃっ?!」
思わず声を上げ、手元を見下ろすと、闇の中で茶色い瞳が瞬きしている。
犬のカイビト。物音と人の動く気配を察知して、見回りに出て来たのだろう。
「噛まないでくれよ…お前のご主人様に言いつけられた仕事をしてるだけなんだから…」
大きな犬に見張られ、びくびくしながら不格好な形で水壷を動かそうと試みる。だが、どうしても壷は持ち上げられない。
しばし頑張ったあと、彼は、痺れた腕をさすりながら壷を運ぶのを断念した。セティにどやしつけられるかもしれないが、出来ないものは出来ないのだ。
岩の間の隠れ家はまだ暗いままだが、空のほうは、少しずつ白みかけている。多くの星々が姿を消し、残っているのは、特別に明るい星たちだけだ。
(そういえば、セティは?)
人の動く気配はない。ヘリホルはマントを体に巻き付け直し、白い息を吐きながら隠れ家の中に戻ってみた。昨日、たった一度案内されただけで、記憶はおぼろげだったが、確か最初にいた部屋は岩のずっと上のほうだった。中を歩き回るな、とは言われていないし、道を覚えるついでに探してみようと思い立った。
薄暗い狭い岩の回廊は、どこへ続くのかも分からない通路もあれば、小部屋が連なっている。ヘリホルは、迷いながらも上へ上へ、階段や梯子を伝って登っていった。
(これはまるで、…冥界からの脱出行だな)
はしごを登りながら、ヘリホルは思わずそんなことを思った。死者が冥界へと携えてゆく品の一つ、死後の世界で身を守るための呪文集の中に記された地の底の死の闇は、まさにこんな風に、狭く薄暗い危険な回廊なのだった。西の地平の下から東の地平へと続く、その回廊をぶじに通り抜け、地上への脱出を果たした魂だけが、太陽とともに復活を許される。書記学校で何度も筆者させられた、「冥界の書」の一節だ。
やがて、はしごの先に小さく切り取られた朝ぼらけの白い空が見えて来た。
首を出すと、岩のてっぺんに腰を下ろしている男の後ろ姿が見えた。
「よお、起きたのか」
居ないと思ったら、こんなところにいたのか。梯子の先から岩の上に這い出して、ヘリホルは辺りを見回した。そして思わず息を呑んだ。
それは、生まれて初めて見るような光景だった。
四方全てを見渡す鷹の視点。僅かに弧を描く地平まで続く、果てしない砂の海と、そこに突き立つ無数の岩の柱たち、岩塊の島々。そして、はるか北の方角に、砂煙に霞む緑のオアシスが、――目的地だった南のオアシスがうっすらと見て取れる。
「オアシス! …あんなところに」
「ああ、ここから見えはするな。だが、そう簡単にゃ辿りつけねぇぜ」
セティは、くっくっと悪戯っぽく笑う。「今、一瞬、あそこまでの道を探そうとしたな?」
「い、いや…」
考えを見透かされたようで、ヘリホルは思わず口ごもった。けれど、セティは一向に気にしていないようだった。事実、道もないのに、どれだけ眺めたところで一人でこの荒野は越えられない。遥か遠くに見える緑<ウァジュ>の塊、手を延ばせば届きそうなその色までの距離は、実際には、果てしなく遠い。
「いい眺めだろう。ここが俺たちの世界だ。お前たち、川辺の民にゃ一生見られないものだ」
遥か彼方から吹いて来る風に、男の見事な赤毛が乱されて、炎のように揺らめいている。そろそろ夜明けの時刻だ。東から押し迫る黄金の船の輝きに、闇は西へと追いやられてゆく。
「さあ、来るぞ」
セティにつられて振り返った瞬間、空が一瞬、まばゆい黄金色に輝いた。
「――太陽のお出ましだ」
声も無く岩の上に張り付いているヘリホルの目の前で、光は大地を赤く染めあげてゆく。
生まれてこの方、幾度となく見てきたはずなのに、どうしてだろう。今初めて、日の出を前にして「畏怖」という言葉の意味を知った。
夜の十二時間の終わり、昼の十二時間の始まり。日没とともに死せる太陽の、復活と再生。世界の全てが、ただ一つの色に染まっている。血と災いの色。熱い生命の色。そして、太陽の色…。
これが、赤い土地の日常なのだ。人の住むところではないとされた、この果てしなき沙漠の真の姿。
混沌の大地に正義の光が届き、太陽の御手が地上から一つ一つ、闇を引きはがしていく。それとともに、熱がじりじりと体に伝わって来るのを感じた。
「じきに暑くなるぞ。その前に準備を整える。」
まだ風景に見とれているヘリホルの脇を通り抜け、セティは下へ降りる穴に足をかける。
「あっ、待…」
呼び止める間もなく、彼の姿は中へ消えた。小さき溜息をつき、ヘリホルは、明るくなってより鮮明に見え始めた、当初の目的地だったオアシスのほうに目をやった。
(あの二人…従者たちのほうは、無事にあそこまで辿り着けただろうか)
他の二人については、セティは何も言っていなかった。彼の口調からするに、身ぐるみは剥いだかもしれないが、命までは取らずその場に残してきたのだろう。砂嵐に襲われたあの場所は、オアシスからもうそれほど遠くないところまで来ていた。水も食料もなく徒歩であっても、無事、オアシスには辿り着けたと信じたかった。
(私とはぐれた、と思っているだろうか? まだ、あそこで待っていてくれているか…。それとも、不測の事態が起きたことを報せに、引き返そうとしているかもしれないな)
けれど、あまり多くは期待できなかった。
あの従者たちは、手ごろな報酬で雇われたに過ぎない人夫で、報酬以上の仕事はしそうに思えなかった。後払い金の支払いを求めに役所に出向くついでに、雇い主が行方不明になった状況を伝えるくらいか。最も、それだけでも、報告してくれるだけ有難いのだが。
(…私を探してくれるだろうか? 州知事殿は)
微かな不安が過る。元はといえば、不確かな状況のまま大騒ぎしたくない、などという理由で、非力な文官一人をこんな僻地に送り込んだ人だ。下級役人ひとり行方知れずになったからといって、捜索隊まで送り込んでくれるとも思えない。
この任務は最初から無茶だった。この先、生き延びられたとしても、外からの助けは期待できない。
街へ、家族のもとへ戻りたければ、自力で何とかするほかにないのだ。
はしごを降りていくと、かすかに肉の焼けるいい匂いが漂って来た。
匂いのするほうに歩いていくと、セティが、石を積み上げた小さなかまどの前でせっせと料理を作っていた。
「おう、ようやく来たか。お前の分はそこだ。適当に食え」
粗密なかわらけの上に、丸焼きにされたサバクトカゲ、干したナツメヤシ、乾いたパンの塊に、干し肉が何切れか添えてある。
「朝食にしては…、豪華だな」
「そりゃそうだ。これから歩くから体力をつけないとな」
「歩く?」
「おいおい、もう忘れたのか? 鉱山を探すんだろうよ、鉱山を」
ナツメヤシに手を延ばそうとしていたヘリホルは、はっとした。
「今日から、なのか」
「正確には今夜だな。昼間のクソ暑い時に遠征なんてするもんじゃねぇ。赤い土地を旅するなら、涼しい夜の内に限る。」
言いながら、何だか分からない動物の肉――コウモリ、だろうか?――を皿の端にひょいと盛り付け、彼は、指についた肉汁を舐めながらもう片方の手でパンを割り取った。
「昨日言ったもう一人の仲間は、さっき上から見た時、ここからそう遠くないとこにいたからな。昼までには戻って来る。そいつも連れて行く」
「え…人なんて、見えたっけ…?」
動くものなど何もない風景だったはずなのに。
「ほれ、遠慮せずに食え。お前に途中で倒れられちゃ困るんだからな。そのトカゲは精がつくぞ。罠で今朝とったんだ。イキがいい」
「…あ、ああ。有難くいただくよ」
妙な気前の良さに戸惑いながら、ヘリホルは、慣れない沙漠式の食事をなんとか水で喉に流し込んだ。セティは、コウモリを豪快に頭から齧って食べている。一部は襲った旅人から奪ったか、オアシスで物々交換したもののようだが、この沙漠でも自力で調達できる食べ物はあるようだった。
食事を終えたあと、ヘリホルは歯の間に挟まった肉片をほじくりながら、あぐらを崩して話しかけてきた。
「で、だ。その鉱山、場所のアタリはついてんのか? 目印でもあんのか」
「ああ。目印はある…ただ、その意味がよく分からない。『太陽を崇めししもべたちの回廊』の奥、『蛇の裂け目』の底、そう書かれている」
「なんだそりゃ。謎かけか?」
「当時の地名かもしれないと思っている。ただ、地図からすると、『しもべたちの回廊』の入り口は、オアシスから南南西の方角のはずなんだ。それで、私たちは最初にオアシスを目指そうとしていた。」
「ふーん。今いる場所がオアシスの南だから、つまりは、ここから西のほうを探してみりゃいい、ってことか。あまりにも大雑把だなぁ」セティは少し考えた後、ちょいちょいとヘリホルに指を出した。「地図、見せてみろ」
「えっ…」
「大丈夫だ。すぐ返してやるよ」
ふところから取り出した脆いパピルスの地図をおそるおそる手渡すと、セティは、それをぐるりとひっくり返した。
「さっきあんたの言ってた、その『太陽のしもべ』とか何とかってぇのは、この辺の文字が並んでるところか?」
「そうだ」
「で…ここにある、これも文字じゃないのか? 何て書いてある」
セティが指しているのは、地図を上下さかさまにひっくり返した端のほうに描かれている、数文字だけの言葉だ。文字は確かに、パピルスを回しながら四方から描かれている。その言葉は、いまセティが見ている天地がさかさまな状態こそ、正しく読める状態なのだ。
「それは水場、という文字だ」
驚きながらも、ヘリホルは答える。「どこかで文字を習ったことが?」
「いいや。ただ、見たことのある文字だったからな。以外と多いんだぜ? この辺は。」
地図を返しながら、セティは言う。
「岩陰のそこかしこに、過去にここらを通って行った連中の残した落書きやら伝言やらが残されている。よく出てくる文字は大抵、見覚えがあるんでね。…そうか、水、か。ふん、成程。その、うねうねした文字が水面を現してるってわけだな」
習ったことはないと言いながら、セティは瞬時に文字の起源を当てて見せる。「地名なんかアテにならねぇ。そういう目印が必要なんだよ。で、他には? 近くに他に、何があるって書いてある」
「他には、『宿場』に『集積所』。『ロバの留り場』」
「それじゃ役にたたねぇな。地形に関係しそうなものは? オアシスから南南西ってことは、距離でも書いていないのか」
「『ロバで一日と半』。…それだけだ。この地図は、書庫で見つけたものから判読できる場所を忠実に書き写してきた。かなり劣化していて、これ以外の文字は読めなかった」
「ふん。直ぐに場所の判るもんじゃあなさそうだな」
セティは考え込んでいる。
「しかし、水場か。…ここの西の水場といやぁ一か所だけだが、あの辺りは…いや、昔はあったのか…? だとすれば、跡くらいは残ってるかもな。謎かけみてぇな目印はともかく、水場なら間違いようが無ぇ。そこから探してみるか」
「あ、ああ…」
ヘリホルが口ごもり、言葉に窮していた時、唐突に、明るい子供の声が岩の隠れ家の中に響き渡った。
「アニキー! ただいま戻りやした」
ぱたぱたと元気な足音がして、ヤシの葉を編んだ丈夫なサンダルを履いた少年が、日除けのフードつきの長いマントをたなびかせながら駆けこんでくる。
年の頃はセティよりはずっと下、十になるかならないかといったところだ。くりくりとした黒い瞳に掘りの深い顔立ち、それに色の濃い肌と縮れた髪は、少年が、ここよりもっと南に住む、クシュ人の血を引いていることを匂わせる。
「おう、カー。ようやく戻ったか。どうだった?」
「はい。ばっちり、売れやしたですよー」
笑顔の少年は、悪びれも無く指折り数える。
「ロバ三頭にィー、腕輪と杖とマント。あと水壷が占めて四つっすね。いつも通り、当面の食料に替えて残りは足のつかねぇブツに換えていつもんとこに隠して来やした」
「なっ…ちょ、それは…」
ヘリホルは青ざめ、口をぱくぱくしている。まさにそれは、昨日まで、自分たちが携えていたものではないか。
「あっはっは、そんな顔すんなよ。どうせここじゃ、ロバに食わせるもんなんて手に入らねぇからよ。身軽なほうがいいだろ?」
「それは、…そう、だが」
「んで? こっちの旦那との商談は、どうなりやした?」
ちょこんとセティの横に腰を下ろし、朝食の残りに手を伸ばしながら少年は訊ねる。
「おう、いいネタ持ってやがったぜ。なんと偉大なるティスの州知事閣下は、このひょろっこいお役人の兄ちゃんに失われた鉱山のありかを探り当てる密命を課したんだそーだ。で、困ってるお役人様のために、俺らが手を貸して、その鉱山とやらを見つけてやるって話になったぜ。人助けをして、あわよくばお宝も手に入る! いいことづくめだな、ん。」
「へえー! さぁーすがーアニキ、あったまいいですねー!」
「……。」
言い返す気力もなく、ヘリホルは、黙ってかわらけの中の、まだ冷たい水をすすった。窓から見える外の世界は、昨日と同じようにまばゆい、目も眩むばかりの白に染まっている。岩の中はひんやりしているが、おそらく外に出れば一瞬にして、灼熱の腕(かいな)に貫かれてしまうだろう。これは確かにセティの言うとおり、昼間に出歩ける場所ではない。
「と、いうわけでカー、戻ってすぐで悪いが、支度を手伝ってくれ。今夜出る。」
「へい、わかりやした。…あ、でもアニキ、用心したほうがいいかもしれませんよ」
「ん? 何かあったのか」
「へい。オアシスで噂を聞いたんですが、『西方のハイエナ』の連中がクシュからの使者を襲って、王様への献上品を盗んじまったらしいです」
ぴく、とセティのこめかみが動いた。黒い瞳が鋭い光を放つ。
「…王家の連中のもんに手ぇ出したのか。チッ、あいつら。余計なことしやがって…面倒なことになるぞ、これは」
「討伐隊が出る、ってことか」
と、ヘリホル。
「そうなるだろうな。偉いさんどもがメンツ潰されて黙ってるわけ無ぇからな。ったく、あいつら…」
男は、ざんばらな赤毛をぼそぼそと掻きまわし、溜息をついて立ち上がった。「念のため武器も準備しとく。カー、お前は食糧の支度しとけ。二、三日ぶんでいい。もしそれ以上かかるようなら、いったんここへ戻る」
「へい。分かりやした~」
「ああ、あとお役人さんよ、あんたは夜まで適当に仮眠でもしとけ。日が暮れたら出発するからな」
それだけ言って、セティは隠れ家の奥へと消えていく。実質、夜までは自由行動ということだ。
(見張りもつけずに? …いや、逃げようとすれば、あの犬に気づかれるか。どちらにしても、いま出来ることは無い…。)
少し外に出てみようかと思ったが、岩の隠れ家の外に照り付ける灼熱の太陽を見たとたん、その気も失せた。岩陰こそ涼しいが、外はひどい暑さだ。少し前まで、こんなところを旅していたのが冗談のように思えてくる。
諦めて昨日一夜を過ごした部屋まで戻り、水壷の様子を確かめた。溜まっているのはまだ半分ほどで、取り替えが必要になるまでもう少し時間はかかりそうだった。水の染み出すその一角だけは、特にひんやりとして、入り組んだ複雑な岸壁に囲まれ、ちょっとした中庭のようになっている。
カイビトの姿は見えない。どこかへ散歩に出かけているのだろうか。
ふと見ると、中庭のようになった空間の一画に、岩と岩の隙間から光が漏れている。
(…ん? 道がある…?)
身体を横にしなければ通れないような狭い隙間だ。犬の黒い毛が落ちているところからして、カイビトの出入口でもあるらしい。今朝、水汲みをしている時に現れたのは、ここからだったのか。
よく見ると隙間の入り口には、何かすり減った文字のようなものが刻まれている。神殿の壁のようにきちんと掘り込まれた文字ではなく、まるで殴り書きのような線だ。その文字は、岩の隙間の奥のほうへと続いているようだ。興味を惹かれ、ヘリホルは隙間へと体を滑り込ませた。
隙間を潜り抜けると、何の前触れもなく目の前に、大きな段差が現れた。崖、と呼んでもいい。奇妙に真っすぐに掘り込まれた人工的な崖の正体に気づくまで、そう時間はかからなった。
採石場跡だ。
思いもよらない発見に、ヘリホルはしばらく、その場に立ち尽くしたままでいた。今の今まで、前人未到に近い辺鄙な砂漠の奥にいるのだと思っていた。けれど、どのくらい前かは分からないが――ここはかつて、大勢の人間の働く、大規模な採石場だったのだ。あの、奇妙に複雑な、いくつもの部屋の連なる隠れ家は、セティたちよりずっと以前にここに来た誰かが作ったものだったに違いない。
(だが…こんなところに採石場があったという記録は、見た覚えがない…)
岩肌に刻まれたのみの跡は、風化して丸みを帯びている。岩の表面に残された作業を記録する文字は半ば消えかけ、「永遠の輪」とともに刻まれた王名らしきものも、ほとんど岩の溝と化している。辛うじて読めるのは「…の月 第二日 ここまで」というような、石の切り出しの記録だけだ。
岩の間に挟まっていた布切れをひっぱってみると、手の中でぼろぼろと崩れ落ちた。百年か、二百年か。人々の記憶からも、記録からも消え去るだけの長い時間が経っている。
当たりを見て回っていると、どこからともなく黒い犬が軽い足取りで走り出してきた。
「ワフッ」
ヘリホルの前に立って一声吠えると、くるりと背を向けてどこかへ走り去っていく。道案内でも、してくれるつもりなのだろうか。犬の後を追って、彼は、採石場の端に立った。おそらく全盛期にはかなりの面積を採掘していたのだろうが、今や大半が黄色い砂に埋もれ、ところどころ顔を出している白い石の角がなければ、人の活動していた痕跡を見落としてしまいそうになる。
(この沙漠には、私の探しに来た鉱山以外にも…忘れられた記憶が沢山、眠っているんだな。)
日陰の岩に腰を下ろし、そんなことを思いながら、彼は考え込んでいた。
「忘れ去られた鉱山」が見つからない可能性については思いめぐらせたことがあったが、「複数見つかるかもしれない」という可能性を考えてみたことはなかった。もし、この辺りに埋もれている忘れ去られた鉱山が一つではなかったとしたら、…一体どうやって、見つけたものが探しに来た鉱山だったと知ることができるだろう?
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