第一章 獅子と鷹(4)

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第一章 獅子と鷹(4)

 いつしか太陽の船は天頂を過ぎ、西の地平へと沈みつつあった。  水壷を取り換えつつ、うとうとしていたヘリホルは、セティに肩をゆさぶられて目を冷ました。  「おい、起きろ。出るぞ」 外を見ると、西日に面した岩の表面が赤く染まりつつある。確かに夕刻だ。セティは彼に、水のたっぷり入った革袋を投げて寄越す。  「そいつがおまえの分。しっかり抱えとけよ。西の水場までは一日半ほど歩かなきゃ着かねぇからな」  「…水場? アテがあるのか?」  「何言ってる、お前が言ったんだろうが。地図に水場の印がある、だったよな?」 言われて、ようやく思い出す。そうだ。  「一か所だけ水場がある、という話だったな。そこを目指すのか」  「ああ。ただそこは、多分その地図にあった水場とは違う。最近掘った井戸だからな。それでも、水ってのは地下で繋がってるモンだからよ。手がかりにはなるだろ」 荷物を詰め込んだ籠を背負い、短剣を腰に、どこで手に入れたのか立派な剣まで携えると、それでセティの支度は完了のようだった。どこからともなく、足音も立てずに黒い犬が舌を垂らして近付いて来る。セティは、犬の頭を撫でてやりながら話しかけた。  「いつもどおり、留守番は頼んだぞ。」  「ワフッ」 カイビトは判ったというように返事して、見送りをするように隠れ家の入り口に腰を下ろした。  「お待たせですー、こっちも準備できやした」 セティより大きな荷物を背負ったカーが、はしごを降りて来た。  「よし、行くぞ」 ほかの二人に比べればほとんど何も持っていないに等しいヘリホルは、わずかに罪悪感を感じた。が、実際のところ、これ以上の荷物を背負わされたら真っ先にへばって足手まといになってしまうだろう。悲しいが、体力のない文官には、これで精いっぱいなのだ。  夜に目印もない沙漠を旅するのは危険ではないかと思っていたが、それが杞憂だったことはすぐに知れた。  先頭を行くセティの足取りにはいささかの迷いもなく、時々出くわす蛇やサソリも、剣の鞘の先で軽く脇へどけていく。夜目が効くだけでなく、勘も優れているのだろう。同じような風景ばかりが続き、ヘルホルなどはもう既に、隠れ家への帰り道すら分からなくなっている。  「こんな闇の中でよく道が分かるな」  「まぁ、長いこと住んでりゃ慣れる」  「長いこと…って、君は沙漠で生まれたのか?」  「さぁな。物心ついた頃には、ここ(デシェレト)にいた。お前たちの住む土地(ケメト)のことは知らん。」 砂から突き出していた岩をひょいとまたぎ越えて、彼はずんずん先へ歩いていく。ヘリホルの後ろにはカーがいるから、置いて行かれる心配はないが、もう既に距離が空き始めている。  足元は歩きづらい砂地で、しかも尖った石がやたらと混じっている。どうやったら、セティやカーのように楽々と歩いていられるのだろう。  「よく見て、固そうなところを踏むんだよ」 後ろから、カーが助言してくれる。  「しっかしまあ、旦那のおっかなびっくりの歩き方ときたら。まるで生まれたてのロバですぜ。ヒヒッ」  「わ…悪かったな。こんなに歩きづらいところは、歩いたことが無いんだ」  「慣れでさぁ、慣れ」 癖っ毛の少年は、人好きのする笑顔で白い歯を見せて笑う。見るからに人畜無害で、盗賊団の一員というよりは、商人の小姓か勘定係といったところだ。  「君も、生まれた時からここに?」  「まあーそうっすね。昔は、ムゥトにいましたですけど」  「ムゥト…」 それは、南のオアシスの中でも西寄りにある、オアシスで一番大きな街の名だ。  「どうしてまた、盗賊団なんかに」   「ま、色々ありやして身より無くしちまったんで。アニキの親父さんに拾われたんっすけど、元いた盗賊団が無くなっちまったもんでね」  「ああ…」 元いた大きな盗賊団は討伐隊によって壊滅した、とセティは言っていた。彼らを取り巻く関係が、少しずつ見えて来る。  けれど、その会話は、セティの声によっておしまいになった。  「いったん、休憩するぞ。おい、お役人、今のうちにしっかり足揉んどけよ」 歩くのに夢中で気づいていなかったが、いつの間にか辺りは再び、岩が壁のように林立する谷間の様相になっていた。屋根のように反って突き出した岩壁には、その下で夜を明かしただろう多くの旅人たちの残した落書きが、あちこちに残っている。文字らしきものもあるが、ほとんどは人だったり、動物だったり、得体のしれない線だったりする。  「凄い量だな。あんな上のほうまで…」  「それだけ色んな奴が来てたんだろ。カーの言うには、南のほうに住む珍しい獣の絵もあるそうだ」  「獅子(ミァイ)でやすね。ここには、おいらが描き足したやつもあるんでさぁ。ほら、あれです」 少年は、岩肌を抉った痕がくっきりと新しい人間の絵を指した。  「おいらの死んだおっ母さんっす。金がなくて墓も作ってやれなかったから、その代わりっす」  「……。」 返す言葉も出てこない。ヘリホルは、黙ったままぼんやりと、岩壁に刻まれた無数の絵を眺めて思いふけらずにはいられなかった。岩肌には見知らぬ獣たちの姿も、人や、ただの模様のような掘り込みや、伝言らしき殴り書きもある。それら全て、過去のいつかにここを訪れた人々が残していったものだ。世界の果てにも等しい、こんな過酷な辺境を辿った旅人たち、それぞれに事情があったはずだった。  一方でセティは、しきりと風向きを気にして、辺りを警戒している。彼にとっては、過去は問題ではない。現在と、そこから続く未来だけが視界の中にある。  岩の上に登って何やら見回していた彼は、はっと何かに気づいたような顔をした。一気に駆け下りて来て二人を促した。  「そろそろ行くぞ。今のうちだ」  「何かあったのか?」  「砂嵐さ。いつものことだ」 不思議に思って、ヘリホルは空を見上げた。星空は雲一つなく澄んで、風さえ吹いていない。辺りは平和そのものだ。それなのに、これから砂嵐が来るというのだろうか。  半信半疑のまま荷物を背負い直し、歩き始めた。  唐突に風が吹き始めたのは、それから半刻も経たないうちのことだった。岩の隙間に唸り声のような風の音が鳴り響き、足元の砂が勢いよく流れていく。空は覆いつくされ、何も見えない。  けれど一行は、そのとき既に風を避けられる岩陰の道に入っていた。もしほんの少しでも遅れていたか、早すぎて通り抜けていたら、このとんでもなくあり狂う嵐に巻き込まれて酷い目に遭っていたに違いない。   「嵐が来るのは判るんだ。セトの咆哮だからな」 その時はじめて、赤毛の男は、自らの守護者の名を口にした。  「嵐の前にはいつも、荒野の王が不機嫌になる気配がする」  (気配…。) 暴風が通り過ぎるまで、風よけの道でしばし休息を取り、その日は、そこからそれほど遠くない場所で夜明けの時を迎えた。  温度が上がる前に、涼しい岩陰のねぐらを見つけて潜り込み、三人は、めいめいに夜を待つことにした。そこは思いのほか快適な場所だった。ほどよい薄暗さが、夜通し歩いて疲れた体を心地よく包み込む。  太陽の熱も、刺すような輝きも大地(ゲブ)の深い懐に抱かれて過ごす者を害することはなく、その日の昼は、何事もなく過ぎて行った。  日が沈み、天に星々が姿を現しだすころ、再び行軍が始まった。  「水の残りは? まだあるな。今夜には水場に着く。枯れてなきゃあな」 不吉なことを言いながら、セティは再び、一行の先頭に立った。思っていたより近かった、と言うべきか。それでもヘリホルには、とても一人でここまで往復出来るとは思われない。  慣れた足取りで歩きながら、セティはふいと岩に手を伸ばし、大きなトカゲを捕まえた。どうするのかと見ていると、腰の短剣に手を伸ばし、ちょんと首を切りつけて、直接口をつけて血を吸い取っている。  「ひっ…」  「ん? 美味くはないが体力はつくぞ、試してみるか」  「い、いや。」 まだぴくぴくしているトカゲを目の前に差し出されて、ヘリホルは少女のように青くなっていた。丸焼きにしたものは数日前に食べていたけれど、さすがに生を試してみる気にはならない。セティはそれきり無理強いもせず、トカゲの血を吸い終わると無造作に腰の袋に突っ込んだ。次の食事の時に焼いて食べるつもりなのだろう。  昨日と同じように休息を挟みつつ前進する。少しはこの歩きにくい地形にも慣れて来たなと思える頃、大きな丘のふもとにたどり着いた。  「ここだ」 言いながら、セティは荷物を脇にぽいと投げ、身軽になって駆けだした。「ちょっと待ってろ」  辺りを見回すと、何やら半分砂に埋もれた村のような跡がある。石積みの階段を視線で辿ると、丘の上のほうには見張り台か何かのような跡もある。放棄されたのは、そう昔のことでは無さそうだ。  足を止めて待っていると、セティが戻って来た。  「水はまだ枯れちゃいなかったぜ。こっちだ」 砂を脇に寄せた広場の中に、丸く石組を積み上げた井戸があった。つるべを吊るす縄は新しく、水壷が一つ、側に置かれている。  「まだ誰か、住んでいるのか?」  「いや。この近所に住む連中が来てるんだろう」 何か含むことがあるような口調で言って、セティは辺りの空気に警戒を凝らした。  「…今は、居ない」  「見回って来やしょうか?」 と、カー。  「それは、俺がやる。お前は今日の宿を支度しとけ。あと、途中で捕まえた飯だ。」 トカゲの入った腰の袋を渡す。  「へへ、料理しときやす。行ってらっしゃい」 セティはどこかへ姿を消し、カーは火を起こして料理の準備にとりかかった。空には大きな月が顔を出し、風はほとんどない。  何をしろとは言われていないし、出歩くなとも言われていない。ほとんど空になっていた水袋に水をつめると、ヘリホルは、地図を手に辺りを見回した。  (この辺りに、目印に合致しそうなものは…。)  集落跡には家畜小屋があり、宿場だったかもしれない寝台の並ぶ家々もあった。だがどれも新しすぎる。ここに残されている集落が放棄されたのは、まだ、十年かそこら前のことに過ぎないだろうが、鉱山が忘れ去られたのは遥かな昔、まだ黒い土の国(ケメト)が一人の王によって統治されていた時代のことだったはずだ。  ここではないとすれば、候補となる地形は近くにあるだろうか。これまで歩いてきた場所を思い出しながら、ヘリホルは考え込んだ。  地図に書かれた『太陽を崇めし しもべたちの回廊』は、回廊という名前からして、ここまでの道で通って来たような岩と岩の間を通り抜ける場所のことだろう。『蛇の裂け目』とは、蛇が沢山住むような谷間だろうか。似たような地形が多すぎて、これだけでは手がかりになりそうもない。水場と、回廊と、谷――。地形の組み合わせだけなら、無数にありそうだ。  溜息をつきつつ、ヘリホルは焚火のところへ引き返した。カーが腹ごしらえの準備をしている。セティはまだ戻ってきていないようだ。  「この村は、最近まで人が住んでいたようだね」  「村じゃないっス。盗賊団の隠れ家だったんすよ」 カーは、干し肉を炙りながらこともなげに言う。 「アニキとおいらが昔いたとこっスね」  「何だって? それじゃあ…」ヘリホルは、思わず辺りを見回した。「ここが、全滅したっていう盗賊団の? …隠れ家にしては、立派過ぎるような」  「でしょ。まあ、なんで、攻め込まれてあっさり。あ、大丈夫っス。死体は全部埋めやしたし、落ちてた武器だの何だのは全部、噂聞きつけてやって来た他の盗賊団の連中がきれいに持ち去っていったんで。」  「…セティは、何も言わなかった」 そんな場所なのに、彼は何か思い入れがありそうな素振りすら見せなかった。  「死んだ人間はもう居ないっすから。それにここは、西方の死者の国(ドゥアト)から近いんで。死者は楽に冥府まで歩いて行けやす。」 冗談とも本気ともつかないことを言って、カーはにかっと笑った。  「ささ、先に食べて待ってやしょう。アニキもそのうち、戻ってくるんで」  「ああ、…そうしよう」 小さな焚火を囲んで、ささやかな食事をとる。 けれどセティは中々戻って来ず、夜明けが近くなる頃、二人は近くの、比較的荒れていない家の跡に入り込んで、マントを敷いて眠った。穴の開いた天井から砂混じりの風が入り込んでくるのさえ気にしなければ、コウモリやトカゲに邪魔されない、快適な寝床だった。  何やら騒がしい気配で目を覚ましたのは、いくらも眠らないうちのことだった。  辺りは明るい。ということは、既に日は昇っているということか。先に目を覚ましていたらしいカーと、いつの間にか戻って来たセティが深刻そうに話し合っている。セティの腰に剣が提げられていることに気づいて、ヘリホルはどきりとした。  「起きたか」 振り返った赤毛の男は、低い声で言った。「どうやら厄介なのに目ぇつけられちまったようでな。囲まれてる」  「囲まれ…え?」  「『西方のハイエナ』だ。俺らに用事があるらしい」 言い終わらないうちに、壁に石が投げつけられる、大きな音が響く。  「おらっ、出てこいや! 居るんだろう?!」 舌打ちして、セティはカーのほうに目くばせしながら一人で外へ出ていく。  「旦那は隠れててください。大丈夫、アニキは強いっすから」 ヘリホルは、カーとともに家の中に隠れたまま、壁に空いた穴からそっと外の様子を伺った。いつの間に集まって来たのか、手に手に棍棒や投石ベルトを持った荒くれたちが四、五人、今いる廃墟を取り囲んでいる。  「うっせーんだよ。俺らはちょいとヤボ用でこの辺を通りかかっただけだ。てめーらの縄張り荒らす気は無ぇ、キャンキャン吠えてないでとっとと失せろ」  「んなこたぁ聞いてねぇ! 言え、お宝はどこに隠した? てめぇの親父が持ってた王家の秘宝だ!」  「無えよ、そんなもん。何回言わせりゃ気が済むんだ。隠されたお宝なんぞ、何所にも無ぇ。ただの噂話だ」  「嘘をつけ!」  「ったく…しつけーなぁ…」 セティの声が苛立っているのが分かる。  「あいつら、前にここに暮らしてた盗賊団が持ってた財宝がまだどこかに隠されてると思ってて、それで、アニキがここへ財宝を回収しに来るのを張り込んで待ってたらしいんで」 と、カー。  「成程。それで、井戸に使われた跡があったのか…。」  「けど、ほんとに財宝なんて無ぇんでさ。盗賊団が討伐隊にやられちまったあと、ここは徹底的に家探しされたし、裏切った奴があらいざらい喋っちまったから何も残って無ぇです」  「王家の秘宝、っていうのは?」  「それも、ただの噂っス。アニキの親父さん、前はどこかの偉いお役人か何かで、財宝を盗み出して逃げてきたんじゃないかって噂。けど、アニキも何も知らねぇんです。誓って、それは本当ですよ」 カーの様子からしても、それは真実のように思われた。けれど、いま目の前にいる血走った眼をした荒くれたちは、聞く耳を持たないようだった。  「いいだろう。素直に言わねぇんなら、少々痛い目に遭ってもらうぜ」 ひゅう、と皮の投石器が唸る。セティは素早く横に飛んで躱したが、思い切り投げつけられた石が壁に突き刺さり、細かな破片を散らした。まともに受けていたら、骨が折れていたに違いない。荒くれたちには、手加減などする気は、はなから無いのだ。  「おらおらっ!」 棍棒を振りかざしながら、男たちが殴り掛かって来る。  「言ってもわから無ぇのかよ、この――阿呆どもが!」 赤い髪がざわめき立ち、白い犬歯を歯茎ごと剥いた。剣を抜く――朝の太陽の輝きに、研ぎ澄まされた黄金色の銅の刃が不気味に輝いた。  鞘を腰にぶら下げたまま、彼は両手で柄をしっかりと握り、襲撃者めがけて力任せに横なぎにした。時間は、不思議にゆっくりと過ぎていくように思えた。鮮血が飛び散り、男が後ろのめりに砂の中に崩れ落ちる。振り向きざま、セティは背後を狙っていた別の一人の腕に切り付けた。棍棒ごと腕が飛び、悲鳴が漏れる。  身体を切り返すや否や、彼はさらに、投石の男めがけて突進した。ちょうど石を構えようとしていた男は反応が遅れ、砂に足を取られて倒れかかるところに背中から胸まで、深々と剣が刺し貫く。  ほんの一瞬のことだ。  ヘリホルが我に返った時、残りの連中は取るものも取り合えず、這(ほ)う這うの体で逃げ出していた。セティの足元では、一人が即死、一人は半死半生で、残る一人は切り落とされた腕と血の滴る跡だけを点々と残して、よろめきながら逃げて行くところだ。  こちらに背を向けたまま剣の血を拭い、鞘に納めると、セティは肩で小さく息をついた。  「おい。カー」  「へ、へいっ」  「片付けとけ。他に居ないか、見回って来る」 それだけ言い残して去っていく足取りには、こんなものは日常茶飯事だ、と言いたそうな気配が漂っていた。  ヘリホルは、カーを手伝って、苦労して穴を掘り、死体を埋めた。  腹を切られたほうの男はまだ息があったが、腹から内臓がはみ出していて、とても助かる状態ではなかった。どうすることも出来ず、結局カーが止めを刺し、そのままもう一人と重ねて穴に収めた。  その間、ヘリホルはほとんど呆然自失の状態だった。暴力によって人が死ぬところを見るのは初めてだったし、生きた人間の内臓を見る機会など今まで無かった。しかもまだ息のある人間の介錯など。十歳かそこらでしかない少年が顔色一つ変えずに短剣を振りかざしている間、ヘリホルは、震えて青ざめたまま、目をそらさずにいるのが精いっぱいの状態だった。  (情けない) 砂の下に埋もれていく、さきほどまで生きていた人間の体を見下ろしながら、彼は唇を噛んだ。  何もかもを甘く見ていた。  これが、「赤い土地」の日常なのだ。もちろん人殺しは悪いことなどと言う気はさらさらない。一つ間違えば彼自身が埋められる側になっていたのだから。  ここは、法に守られた川べりの街の、安穏とした暮らしとは何もかもが違う。  尽きせぬ流れからいくらでも水が手に入る世界ではない。  暑い昼日中をやり過ごす涼しい木陰も、冷えた果実もない。  殺人者から守ってくれる衛兵も居ない。  全てを、自分の知恵と力に頼って生きる世界――力無き者には死のみが待っているのだ。  セティは、昼を周る頃に戻って来た。  「他には居なかった」 短くそれだけ告げて、二人を促した。  「逃げた連中が戻って来る前に移動するぞ。数を増やされると厄介だ。水は、補充したな?」  「へい」  「ならいい。ちょいと思い当たるところがあるんだ。行ってみよう」 ほとんど休んでいないはずなのに、セティは疲れた様子も見せない。再び重たくなった革袋を背負い、廃墟を後にした。向かう先は、谷間のようになった入り組んだ道だ。  「こんなところで襲われたら、ひとたまりもないんじゃないか?」 ヘリホルが言うと、彼は笑った。  「あいつらは、ここまで追いかけちゃ来ない。この谷は”呪われてる”ことで有名だからな」  「呪われてる?」  「見ろ」 セティが指した岩壁を見あげたヘリホルは、思わず息を呑んだ。  大きな、獣の骨――灰色の石と化した骨が、岩壁に張り付いている。  「この谷には石になった、色んな獣の骨が転がってる。谷に長く居ると石にされる、なんてな。つまらない迷信だ。」  「つまらない、って…。どうして、そう言えるんだ」  「どうして、って、この谷で石にされた人間がいないからさ。」 セティは、さも当然だというように言ってのける。  「人間の骨は一つも無ぇ。獣の骨だって、出来損ないの不格好なやつばっかりだぜ? おまけに、魚や貝の骨まで出てきやがる。どーせ大昔の、世界がまだ海の中にあった頃のやつだろ。昔のことなんて気にする必要は無ぇよ。」 微かな違和感があった。「世界は、かつて海の中にあった」。確かにそれは、神殿の教義にもある世界の始まりの神話だが、どうしてそれを、沙漠の民であるセティが知っているのだろう。  「(ヤム)なんて言葉、どこで聞いたんだ? 君は見たことが無いんだろう? あ、いや…私も実際には見たことは無いが」  「んー? 何所だったかな…たぶん、親父じゃねぇかな。やたら物知りだったし」  「…君の父上は、どこかで教育を受けていたのか? 役人だった?」  「単なるウワサだ。ま、もしそうだったとしても、何も言い残しちゃいねぇよ。親父は――重罪人だったからな。」振り返って、セティは自分の顔を指でつついた。「鼻と耳を切り落とされてたんだ。あんたなら、その意味は判るだろ?」  「!…オアシス流刑、か」  「刑期は二十年。まぁ、生きて戻って来んな、沙漠で野垂れ死ね、っつーことだよ。実際、野垂れ死んじまったけどな。」 唯一の血縁者のことを語る時だけ、セティの声は僅かに曇る。おどけた口調を装っていても、彼にとってはまだ、完全に過去には出来ない感情が何所かに残っているのだろう。  (だが、耳鼻を削がれていたのなら逆に、本当に高官だった可能性はある…。) 歩きながら、ヘリホルは考えていた。  犯罪者の刑は、おおむね内容によって決まっている。窃盗の罪は二度と盗みを働けないよう利き手を切り落とす。下級役人の汚職であれば、二度と金勘定の出来ないよう目を潰す。虚偽の申告や誹謗中傷なら舌を斬る。そのほか、軽犯罪なら背中を鞭打ち、一定期間の重労働など。僻地への兵役を強制されることもあれば、神殿への奉仕で済むこともある。  その中でも鼻と耳をそぐ刑罰は、貴族や王族、神官など、本来は死刑でもおかしくない罪を犯していながら、神々の怒りを買う可能性があるために処刑出来ない者に対して行われることが多い。敢えて殺しはせず、まともな生活を送れないようにして、自ら恥辱の中で死ぬよう仕向けるのだ。  セティの父親に、一体何が起きたのかは分からない。だが、少なくとも一部は、根も葉もない噂では無さそうだ。  「おう、思ったとおりだぜ。ここだ、ここだ」 そんなヘリホルの思考に気づいた様子もなく、セティは、道の脇に出来た水の流れたような跡にしゃがみ込んで地面を撫でている。  「多分、あの井戸に繋がる水脈だ。ここの下を通ってる」  「どうして判る?」  「石の裏がほんの少し湿ってるからさ。夜になって冷えると下から水滴が上がって来るんだ。ちょいと掘れば少しは水が出そうだな。カー、手伝え」  「へいっ」 二人は、剣の鞘やそこらの石、それに手を使って、せっせと砂と石を退けていく。ヘリホルはその間、使えるものがないか辺りを探して、落ちていた細長い灰色の石(何かの肋骨のような形に見えたが…敢えてそれは考えないことにした)を穴の脇に支えとして突っ込んだり、掘り出された砂を邪魔にならないところへ押しやったりしていた。  苦労は報いられた。やがて空が夕刻の色に染まりだす頃、土の底からじんわりと染み出して来た水が、両手ですくいとれるほどの深さまで溜まっていた。  「よーし、これであの井戸まで戻らなくても、しばらく何とかなるぞ。」 セティは上機嫌で、小さな井戸からくみ上げた濁った水で顔を拭った。「ここに拠点を作るとするか。おいカー、食料の残りはまだあるな? 今夜、一度戻って追加を持ってきてくれるか」  「へい」  「拠点? ここに住むのか?」 ヘリホルは、慌てて辺りを見回した。屋根は勿論、壁もない。天然の岩壁…それも、はるか昔に死んだ獣たちの骨が、あちこちに塗りこめられている。  「ああ、そうだ。この谷沿いのどっかに昔の水場があるはずだ。俺の勘じゃ、あんたの探してる鉱山があるとすれば、ここからそう遠く無ぇ。」 それだけ言って、セティはごろりと地面に横になった。「んじゃ、俺はちいと寝る。あんま歩き回って迷うなよ。」  「……。」  「んじゃ、オイラもそろそろ」最低限の水と食料だけ担いで立ち上がると、カーはさっさと、元来た道のほうへ歩き出した。  ヘリホルだけが、置いてきぼりという感じだ。セティは身体の脇に置いた剣に手をかけたまま、もう眠りに落ちている。黙って眠っている時の男の横顔は、父親ゆずりなのだろうか、妙に垢抜けて端正だ。  (…鼻と耳を削がれた男、か。追放前にわざわざ顔を損なうからには、その人は美男だったのかもしれないな。…沙漠への放逐、流刑。考えるだけでも恐ろしい) ぞっとするような想像に、彼はは思わず身震いした。罪人の印が刻まれた者は、たとえ生きてオアシスまで辿り着けても受け入れられることはなく、沙漠の中で、それこそ盗賊団のようなならず者の集団にでも混じって、生き延びるしかない。一生、この赤い大地で暮らすなど、とても想像できない。  十日ほど前に発って来た、緑のそよぐ川べりの街が、たまらなく恋しかった。神々の守護する黒の大地。大河の作る谷間に広がる田園と、小さな村々の連なる光景。緑の大河が南から北へと流れ落ちるほとりだけが、彼の知る唯一の世界だった。年の離れた姉と、まだ小さな弟妹たち。同じ書記学校を卒業した同僚たちや師。気の置けない幼いころからの友人たち。大切な人々のいる場所は今や遠く、再び彼らと会える日が来るかどうかも分からない。  彼の守護者にとっては異邦の地であるここからでは、届かないかもしれない、と思いつつ彼は祈った。そうする他に、不安に揺れて泣き出してしまいそうになる心を勇気づける方法が思いつかなかったから。
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