第二章 天啓(1)

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第二章 天啓(1)

 沙漠の旅を終え、ヘリホルは今、二度と生きて見ることはないと思っていた「黒い土地」へと戻ってきていた。  目の前には汲み上げきれないほどの水をたたえた大河が悠々と流れ、川べりにはナツメヤシがそよいでいる。畑には青い亜麻の花が咲き、その上を蝶や蜂が忙し気に飛び交っている。  戻って来た。  ロバの背に揺られて行政区へ向かいながら、彼はまだ信じられないような気持ちでいた。まるで、西方の死の国から抜け出して生まれ変わったような気分だ。沙漠のそれとは違い、ここでは太陽の光さえいくぶん柔らかく、容赦なく打ち据えるような厳しさを持っていない。  軍の詰め所と役所が左右に分かれるところまで来ると、先ぶれに報せを受けて待っていたヘリホルの上司にあたる上級文官が、ロバの背にいるヘリホルを見つけて小走りにやって来た。  「おおヘリホル。本当に、生きて戻れたのだな。その…、すまんが、一緒に来てくれんか。報せを受けて、州知事殿がどうしても今すぐ話を聞きたいと仰せなのだ。 横にいたウェンアメンが、やや不機嫌そうに言い返す。  「長旅で疲れた怪我人を、直ぐに召すとは何事だ。言い訳でもつけて断れんのか」  「……。」  「構いませんよ。私も、面倒ごとは綺麗に終わらせてから、ゆっくり休みたいので。」 ヘリホルは、気の毒そうな顔をしているウェンアメンに、形だけの笑顔を見せた。  「ここまで有難うございました。それでは」  傷は癒えておらず、ヘリホルは、まだロバを降りて歩くには覚束(おぼつか)ない。それでも気の急いている貴族出身の上級文官は、ヘリホルをロバに乗せたまま、慣れない手つきでロバの手綱を握り、生まれて初めてロバを引き始めた。  上司にこんなことをさせられる日が来るなど、思ってもみなかった。インチキなくじ引きで死ぬかもしれない任務に送り込まれた恨みも、これで帳消しだ。  ――それにしても、あの飽きっぽい州知事が、鉱山のことをまだ気にかけていたとは、意外だった。  近付いて来る州知事の立派な屋敷を眺めながら、彼は首を傾げていた。奪われた王家への献上品は少し前にこの街に送り返されているはずで、てっきり、そちらに気を取られていると思ったのに。  屋敷の入り口に到着すると、ヘリホルは、屋敷から出て来た召使たちの手を借りてロバを降りた。小太りの上司はふうふうと汗を拭いている。案内されるまま、豪華な装飾のされた白い屋敷の奥へ導かれ、上等な絨毯の上に座らされた。  目の前には、山ほどの厚手の座布団に埋もれる様にして、段々腹の青白い肌の男が座っている。手元には果実酒と蜂蜜漬けの干し杏。  この州の州知事、パネヘシ。遠目に見かけたことくらいはあったが、実際に相対するのはこれが最初だ。  「よい」 傷口を庇いながら頭を下げようとするヘリホルを、州知事は指輪をいくつも嵌めた手で制した。  「結論から聞かせてもらおう。鉱山は見つかったのか? 見つからなかったのか?」  「…地図に一致する場所は、ありました」  「あったのか!」 座布団の一つが転がり落ちるほど勢いよく、パネヘシは身を乗り出した。すぐ後ろで、上司が溜息をつくのが分かる。ヘリホルは、慌てて付けたした。  「場所はありました。ですが、長年の間に砂に埋もれていて何も見えなかったのです。あの砂を完全に取り除くのは、大事業です。おまけに、中は完全に崩落しているかもしれません。」 後ろで、少しほっとしたような溜息が聞こえる。だが、パネヘシはまだ諦めてはいないようだった。  「それは、どの辺りなのだ。そちは盗賊団に捕まっていたのであろう? どうやって、そこまで辿り着いたのだ」  「場所は…分かりません。私は地図を取り上げられ、拷問を受けてあらいざらい喋らされたのです。盗賊たちは地図を使って鉱山まで辿り着きましたが、その後、内輪もめを始めました。私は、その機に乗じて逃げようとしました。その途中で矢を射かけられ、傷を負い…、オアシスの近くまで逃げたところで力尽きたのです。」 すらすらと、報告が口を突いて出てくる。  それは、ここまでの道中、ウェンアメンの見た状況と矛盾なく体験を説明するために、何度も考えて練った嘘だった。  「ふん。では、オアシスからそう遠くない場所だというのは間違いないのだな。おい、討伐隊のほうはどうなっている? 盗賊どもをどのあたりで見かけたのか覚えている奴に、報告に来させろ」  「はい…」 召使いが、げんなりした顔で奥へ引っ込んでいく。気まぐれな主人からの言いつけで四六時中走り回らされるのは、さぞかし大変だろう。ヘリホルは、その召使に少し同情した。  「報告はそれだけか。なら、もう下がってよろしい。」  「…失礼します。」 命がけで持ち帰った情報に対する労いは、たったのそれだけだった。さすがの上司も不憫に思ったのか、帰り際、再びロバに載せられる時、ヘリホルに囁いた。  「後で特別報酬をお願いしてみるから。傷病手当の申請はこちらで代わりにやっておこう。傷が治るまでは登庁しなくていいぞ」  「…お心遣いに感謝いたします。慈悲深き州知事殿に、神々のご加護のあらんことを」 上司は、ロバの手綱を州知事家の召使の一人に委ねると、そそくさと自分の仕事へ戻って行ってしまった。  家路を辿る間、ヘリホルは、とてつもない疲労感を感じていた。これで、全て終わったのだ。気まぐれな州知事殿は討伐隊から盗賊の死体が転がっていた場所を聞き出し、あとは、ヘリホルなどあずかり知らぬところで物事は進むだろう。  壁を白く塗られた二階建ての家々が立ち並ぶ中流階層の住宅街に差し掛かったとき、ヘリホルの顔見知りが、驚いたように声をかけてきた。  「ヘリホル! 死んだって聞いたぞ。生きていたのか」  「おやま、無事に…無事じゃなさそうだけど、戻って来られたの!」  「おふくろさんたちは、ずっと信じて待っていたよ。今なら家にいるはずだ」 見知った近所の知り合いたちが、次々と家の外に出てきて声をかけてくる。  家の前に着いてみると、誰かが先に報せに走っていたらしく、母と、学校に行っていない弟妹たちとが、揃って彼の帰りを待っていた。  「ああ、ヘリホル! あんたは、こんなとこで死ぬ子じゃないと思ってた。」 声をつまらせながら、母がロバの上のヘリホルを抱く。  「ただいま、母さん」  「兄ちゃん! お帰り」  「怪我してるの? だいじょうぶ?」 賑やかな弟妹たちに囲まれた時、彼は、ようやく本当の意味でこの旅が終わったのだと感じた。赤い沙漠とは全く違う、穏やかな風が吹き抜けていく――  そう、平和な文官の人生において、もう二度とあんな冒険を体験することは、無いはず…なのだった。  それから数週間の間、ヘリホルは、家からほとんど出ないまま、何となくだらだらと過ごした。  傷が癒えるまでは登庁しないでいい、と上司のお墨付きは貰っている。本当はもう随分良くなってはいたのだが、あんな目に遭わされたあとだ。少しくらい多めに休みを貰っても、罰は当たらないはずだった。それに正直に言えば、この先も役人を続ける気は、薄れつつあったのだ。  (転職するかどうか…どうしようかなあ) 身体を擦りつけながら膝に乗って来る猫を撫でながら、彼はぼんやりと、窓の外にそよぐナツメヤシの木を眺めていた。  両親の助けになりそうな稼げる仕事で、安定した職業といえば、役所勤めの文官でなければ神殿という手がある。下級神官として会計係も兼ねる役職くらいなら、今の知識でも何とかなりそうだ。  (そういえば、書記学校のジェフティメス先生は、神官もやっていらしたな。口利きをして貰えないか訊ねてみよう) 思い立ったら足が動き出した。  階段を降りていくと、台所でパンの生地をこねていた母が顔を上げた。  「あら、出かけるの? もう体調は良くなったの」  「だいぶね。身体が鈍るのも困るから、少し神殿まで歩いて来ようと思うんだ。」  「それなら、お供えを持っていくといいわ。あんたが生きて戻れたのは、神様のご加護の賜物だからね。」 母は焼き立てのパンを幾つか籠に詰め、丸ごとの鵞鳥まで添えてヘリホルに手渡した。ずっしりと重たい豪華なお供え籠を眺めながら、ふと、彼は訊ねた。  「そういえば、昔、皆で鷹神の街に出かけたことがあったよね。あの時も、何かお供えをしたっけ?」  「えっ…」 何故か、パン作りに戻ろうとしていた母の動きが、ぴたりと止まった。  「ど、どうしてそんなことを訊くの」  「いや、何となく。――ヘリホルって名前は、鷹神(ホル)様から貰ったものでしょ? この街の神殿は黒犬神様だけど、鷹神様の加護だったら、お供えはどこにすればいいのかと思って」  「そっ、そんなことは、気にしなくていいのよ。神殿は神殿なんだから。お祀りされている神様はあくまでその神殿の主で、他の神様たちも合わせてお祀りされているんだから、ね。」  「……。」 母はそれ以上、この話題を続けたくはない様子だった。  仕方なく、ヘリホルはそれ以上は聞かず、籠を手に家を出た。歩くと脇腹はまだ少し傷むが、鬱血していた跡ももうほとんど消え、皮は腐ることなくぴったりとくっ付いて、穴は塞がっている。  (これなら神殿まで行ったあと、どこかに寄っても大丈夫かもしれないな)  久しぶりの往来だ。行きかう人の波はどこか懐かしくさえある。  街の神殿は、川のほとりの畑に囲まれた場所にある。  古くから建つ古びたこぢんまりとした神殿で、かつては川の奥のほうにあったというが、川の位置が少しずつ移動するにつれて川沿いへと移動していったのだ。そのせいで今は、半分、川の流れに浸かるようにしてその姿を水面に映している。  増水した川の水に肢を濡らさずに神殿に入るためには、神殿の裏に設けられた渡し板を渡っていく必要がある。参拝の人々が狭い板の上をすれ違う。ぐるりと神殿の表側に回り込んでいくと、そこは神官たちが清めの香油や護符を手に希望者に祝福を与え、供え物を受け取る前庭だ。  ここへ来るのは、沙漠へ出かける担当を選ぶ時、くじを引くために神託の間に来て以来だ。  思えば―― たったのひと月と少し前に過ぎないあの時から、随分と色々なことがあったものだ。一生分の経験をしたような気さえする。  怪我を負ったはいえ、生きて戻れたのは、確かに不思議なことにも思えた。それが、どんな神の意図にせよ。  ヘリホルは母から預かった供え物の籠を神官の手に渡し、サンダルを脱いで前庭の清めの池で足と体に軽く水をかけた。  それから、薄暗くひんやりとした石造りの神殿の中に入り、祈りの間にひざまづいた。型どおりの礼拝だ。彼の前に祈りの間にいた人々も、後から入って来る人々も、同じようにしている。熱心に何度も床に額をつけて祈りをささげる人もいれば、軽く頭を下げるだけですぐに立ち去ってゆく人、何か考え込むように闇の奥の神像のおわすところ、至聖所のほうを見つめたままの人もいる。  ヘリホルは、闇の中に目を凝らして見知った顔を探していた。老齢のジェフティメスが神殿の前庭に立つことは無く、いつもならこの闇のどこかで参拝者たちを見守っているはずなのだ。  やがて彼は、柱の影にもたれかかるようにして香油壺の番をしている老人の姿に気が付いた。  うつら、うつらと居眠りをしながら、祝福の油を必要とする参拝者がやって来るのを舞っているのだ。  「先生」 小さな声で声をかけると、老人は直ぐに声を聴き分けて、さっと顔を上げた。  「ヘリホルか。」  「はい。お久しぶりです」 真っ白な髭を口元に蓄えた小柄な老人は、目を細めてかつの教え子を見あげた。「何やら難儀したと聞いていたが、無事に戻って来られて何よりだったな」  「ええ。そのお礼も兼ねて、今日はここへ参拝に――あの、先生、実は折り入って少しご相談したいことがあるのですが」  「うむ?」 ジェフティメス老人は、ちらりと参拝者たちのほうに視線をやった。お昼も前の一番熱い時間帯で、人の数はそれほど多くもない――今なら香油壷を必要とする参拝者もそうそう来ないだろう。そう判断したのか、老人は、傍らの杖を取り上げてゆっくりと立ち上がる。  「こちらへ来なさい」 話し声で他の参拝者たちの邪魔をしないためだ。  闇の中に隠されたくぐり戸を押し開き、老人は、ヘリホルを薄暗い回廊へと連れ出した。祈りの間をとりまくようにして造られた、神官たちが部屋から部屋へと行き来するための狭い通路だ。太い柱が空間にのしかかるように林立し、天井近くに作られた隙間から、真昼の太陽が一筋、差し込んでいる。  小さく咳払いして、ヘリホルは口を開いた。  「ありがとうございます。えっと…相談というのは、実は、他でも無くて。私をここで雇ってもらえないか、ということなんです。役所の仕事は少し、問題があって…先生の口利きがあれば可能でしょう?」  「ここで?」 老人は、何故か驚いたように大きく目を見開いた。  「お前が、この黒犬神(インプウ)の神殿で? それは好ましくない」  「何故ですか?」 これには、ヘリホルのほうも驚いた。生徒だった頃は勤勉で真面目だと評価してくれていた。だからまさか、神殿で働くことを断られるとは思っていなかったのだ。  「いや、お前の勤務態度がどう、という話ではない」 ヘリホルの表情を見て、老人、急いで付け足した。  「ただ、ここは――お前が仕えるべき(やしろ)ではないからだ。」  それから、何かを察したように小さくため息をつき、杖とともに、何やら視線を落とした。  「その様子だと、お前の両親はまだ何も言っていないようだな? やれやれ。成人したら告げると言っておったのに」  「一体、何のことなんですか?」 ヘリホルは、まだ混乱していた。「仕えるべき…って」  「言葉のままだ。お前が仕えるならば鷹神の神殿でなければならないのだ。お前は、鷹神への捧げものなのだから。」 溜息交じりに、老人は告げた――  「子供の頃、鷹神の街(ジェバ)の大祭に行ったのだろう? その時に望まれたのだよ。鷹神ご自身によってな」  「……!」 声なき声を上げ、彼は思わず、口元に手をやった。  捧げもの。  今ではほとんど居なくなったとはいえ、その言葉の意味は良く知っている。神託によって神殿に召し上げられ、一生を神殿で過ごす子供たちのことだ。  あれは――そういう意味だったのか? では、神殿の奥の間で見た神像は…帰り道の、両親の神妙な表情は…。  「その顔からして、何か心当たりがあるのだな?」 柔らかな老神官の声が、微かに遠ざかる。  「あの…でも私は、何事もなく家に戻りました。その話が本当なら…私はここに居ないのでは…。」 ヘリホルは、まだ信じかねていた。  氏子の町人たちのような持ち回りの下級神官とは違い、下級神官神官の家系に生まれた者たちと同じように「神の声を聴く者」として、神殿の中で教育されるのが一般的だ。  だがあの時、両親はヘリホルを神殿には置いては行かず、彼と弟妹たちを連れて神殿を去った。  「今はその時ではない、と鷹神御自らが告げたそうだ。その時がくれば、自ら神殿に戻って来るだろうと。わしはな、ヘリホル。鷹神の街から戻ってすぐに、お前の母からこのことについて相談を受けたのだ。それで知っている。わしは答えた。それが神の御意向であるならば、従うほかには無い。その時が来ようと来るまいと、特別なご加護があると思えば良いではないか、とな。」  「では…あれが、そうなのでしょうか…。私は…沙漠で鷹を…見ました」 体験を言葉にしようとしても、どこから話せばよいのか分からなくなってしまう。混乱のまま、ヘリホルは何とか、自分の置かれた状況を理解しようと試みた。  「それから夢も――鷹神の街での夢でした。ずっと忘れていたのに思い出して――それで――…」  「ならば、まさしくそうなのだ」 老人は、大きく頷いた。  「その時が来た、ということなのだろう。」  「私は一体、どうすれば…」  「お召しに従うが良い。行って、鷹神の社に仕えるのだ。わしから示せる道はそれだけだ」 ヘリホルはその後、自分が何をどう答えたか覚えていない。青ざめた顔のまま、ふらふらと神殿を出たことは覚えている。それでも気が付いた時には、歩き慣れた道を辿って家まで戻ってきていた。  家の前まで来てようやく、彼は我に返った。家の前で、母が誰かと話している。身なりからしてどうやら、軍人のようだ。姉の夫の関係者だろうか?  近付いていくと、母がはっとした顔になって、何か言いたげに身振り手振りで示している。  それに気づいた軍人が、振り返った。見覚えのある顔だ。  (ウェンアメンか) 記憶は、すぐに結び付いた。オアシスからここまで、ヘリホルを連れ帰って来てくれた、あの遠征隊の隊長だ。  「こんにちは、お久しぶりです」  「元気になられたようで何よりだ。実は、少し折り入って頼みたいことがある。というより、我らの主の…例のお方のいつものご命令なのだが」  「何、でしょうか」 嫌な予感がした。ウェンアメンからして、既に気乗りのしない浮かぬ表情をしている。それに、「主」といえば、あのでっぷりとした州知事パネヘシの他にない。  「実は州知事殿はこのたび、改めて失われた鉱山の発掘のため遠征隊を組むことを決定されたのだ。その先導役として、その目で鉱山のありかを見た貴殿は必ず同行させよとのご命令でな。」  「あの、この子は、まだ病み上がりなんですよ。お慈悲は無いんですか」 母は、けんめいに軍人を説得しようとしているのだった。  「そんな危険な任務――文官ですし、遠征隊なんて軍人さんだけで行けばいいじゃないですか…」  「私もそう何度も進言したのですがね。頑として聞き入れては下さらなかった。此度は御自らも遠征に参加されると言い張っておられる」  「あの州知事が、遠征に?」 驚いて、ヘリホルさえ思わず声を上げていた。  あの、青白く不健康に膨らんだ身体など、沙漠の強烈な太陽の前にはひとたまりもないだろう。一瞬で蝋のように溶けてなくなってしまいそうだ。  「というわけで、断りようもなくてね。頼めるだろうか」  「……。」 本当は、明日にも退職願を出しに行くつもりだったのだ。  けれど今、それを言い出せば、怖気づいたか、悪くすれば、鉱山について偽の報告をしたことがバレるのが怖くて逃亡したと思われるに違いない。それどころか、両親や家族にどんな嫌がらせをされることか。  「判りました」 ヘリホルは、覚悟を決めて頷いた。ほっとした様子のウェンアメンの表情からして、この決断は、悪いことではなかったはずだ。  数日のうちに迎えに来ると言い残し、軍人は、遠くに待たせていた部下たちと合流して去って行く。来客がいなくなるや否や、母は戸口にわっと泣き崩れた。  「どうして、こんな! 死んだと思っていた息子が生きて帰ったと思ったのに、また奪っていくなんて!」  「泣かないでよ、母さん。今度だってきっと生きて帰れる。」  「でもお前、傷が治ったばっかりだっていうのに…」  「ああ、これか。」 ヘリホルは、脇腹の肉が盛り上がったところを撫でて苦笑した。  「この傷、どうやら鷹神様の思し召しらしいんだよ。だからきっと、今回のもそうなんだ」  「え? …何を…」  「この仕事が終わったら、役人は辞める。ジェバの神殿へ行くよ。」 目を見開いている母にそれだけ言い残して、ヘリホルは、二階へと上がった。  今は心も落ち着いていた。そうだ。これは、必要なことなのだ。  再び「赤い土地」へ行くということ。それは、心残りの主である、赤い髪の男に再びどこかで会えるかもしれないということだ。  (鷹神が彼を救えと示したんだ。きっと何か意味がある。) 窓の外に広がる村の風景の、そのはるか彼方にかすかに霞む沙漠の入り口を見やりながら、ヘリホルは、自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。  そう、あの出会いにも、この旅路にも、きっと何か意味があるに違いない。
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