第二章 天啓(2)

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第二章 天啓(2)

 二度目の旅は、前回に比べていく分かはマシだった。前後に兵を従え、少なくとも、盗賊に襲われる心配だけは無かったからだ。  けれどそれ以外は、前回にも増して過酷と言えた。  坊ちゃん育ちで、自分の足で歩いて屋敷を出たことすらほとんどない州知事パネヘシは、沙漠に踏み込んでわずか半日で音を上げた。それきりずっと、日除けの角度が悪いの、水を持ってくるのが遅いのと、ろばの上からひっきりなしに唾を飛ばして召使たちに怒鳴り散らしている。州知事の屋敷の召使いたちは、よく耐えていられるものだと感心する。  ヘリホルは、耳障りな怒鳴り声から距離を置こうと、それとなく列の後ろの方へ下がっていた。ウェンアメンも同じ考えのようで、遠征隊の隊長としてしんがりを務めている。  見渡す限り大地に一休み出来そうな日陰などはなく、緑も、湿気も、気配すらも見当たない。足元には岩と砂だらけの不毛の大地がどこまでも続き、サンダルの隙間から入り込む小石の不快さが消えない。  水壷を提げたロバたちが、列をなして道を行く。  前回の、ほんの数人だけでの遠征とは大違いだ。南のオアシス(ウェハト・レスィト)へと続く道をゆく兵士たちの担いだ槍の林も、掲げられた州軍の旗印も、はるか遠くからでもはっきりそれと判るだろう。  「やれやれ。あんなに怒鳴り散らしていたら、余計に喉が渇くだろうに」 槍を肩に担いだ兵士の一人が、隊列の後ろのほうまで響いて来る声にうんざりしながら呟いた。盗賊の襲撃に備えて皮鎧は身に着けているものの、日差しを避けるために、その上から亜麻布の上着を纏っている。  「何でまた、ついて来るなんて言い張ったんだろうかね。どうせ何百年か前に掘りつくされてる鉱山なんだろ」  「噂じゃあ偉大なる王の中の王、ウセルマアトラーの頃に掘ってたそうだがね。ご威光にあやかりたいんじゃないかね?」  「それとも、例の…王様の、ほら、…に、いい顔見せたいだけかもしれんぞ? この間の貢物が盗賊に盗まれた件だって…」 兵士たちの口さがない噂話が風に紛れて流れていく。  聞き耳を立てていたヘリホルの注意を向けさせたのは、すぐ隣に近付いてきた大柄な男の落とす影だった。  「疲れてはいないか」 見上げると、側にウェンアメンがやってきていた。歩調をゆるめて、小柄なヘリホルに合わせている。  「ええ、流石に二度目になると少しは慣れました。」  「それは良かった」  「あの――州知事どのは本当に、どうして自ら鉱山に出向いたりしたのでしょうね?」  「うん? それは…まあ、噂は色々とあるが」 男は、若い兵士たちのほうにちらりと目をやった。さっきまで軽口を叩いていた兵士たちも、近くに上官がやって来たことに気づいて口をつぐみ、そしらぬ顔で前を向いて行軍を続けている。  「それより君は、弓兵をしているケリの身内だそうだな。」  「ええ、姉の夫です。…義兄(にい)さんをご存知なんですか?」  「元は部下だった。先日、久しぶりに逢ってな。義弟が沙漠で酷い目に遭った、と言っていたが、やはり君のことか。世間は狭いものだな」 ウェンアメンは、そう言って明るく笑った。  「では尚更、君のことは無事に送り返してやらねばならんな。安心するといい、今回はこの人数だ。盗賊団も、そう簡単には手を出してこられまい」  「そう言っていただけると、心強いですよ」 親族からの思いがけない関係に、ヘリホルは少しほっとしていた。  けれど、彼がどれだけ良くしてくれようとしても、この隊の進退を決めるのは、上司である州知事の意向なのだ。一体どこにそんな体力があるものか、大きな肉の塊のような男は、まだロバの上から怒鳴り散らしている。  「州知事どのは…途中で嫌になって引き返すと言い出さないでしょうか?」  「せめて、オアシスまでは我慢してくれるといいのだがな。」 兵を束ねる男は顔を上げ、苦笑しながら視線を怒鳴り声のほうにやった。  「さすがに召使たちが気の毒だ。兵たちの士気も下がる。少し、行って来よう」 言うなり歩調を早め、あっという間に列の先頭のほうへと消えて行った。  間もなく、耳障りな怒鳴り声が消えて行った。ウェンアメンが何か話しかけたのだろう。  (よく、恐れもなく、あんな癇癪もちの人に話しかけられるな…) だからこそ兵を束ねる役目を担っていられるのだろうが、ヘリホルの上司など、州知事の前では妙にへっぴり腰だった。  対してウェンアメンは、常に堂々として人当たりも良く、おそらく軍人としての経歴も豊富だ。にも拘わらず、軍人の中では高くもない位の指揮官に甘んじているのは何故なのだろう。  出世欲が無い、ということなのだろうか。今にして思えば、下級の一役人に過ぎないヘリホルに最初から敬意をもって接してくれたことも珍しかった。  この件が終わって街に戻れたら、それとなく姉婿のケリに聞いてみよう、とヘリホルは思った。  ケリは年の離れた姉よりもさらに年上で、ヘリホルから見れば父親ほどの年だ。おなじ官給で生計を立てている身分とはいえ、所属の違いから服務中に遭う機会はまず無いのだが、住んでいる場所は遠くない。姉に逢いに行くついでなら、特別な口実も必要ないだろう。  日が昇るにつれて、風が出て来た。  足元を細かな砂が通り過ぎていく。空の向こうが黄色く霞み、嵐が近付いて来る予感がある。  「全軍、停止! 停止だ!」 伝令が列の先頭のほうから走って来る。  「今日はここで幕を張るように! 明日、日の出をもって出発とする!」  やれやれ、というように兵士たちが足を止め、ロバを引いていた荷物番が野営の準備のために動き出す。日暮れまではまだ時間があるが、急ぎの行軍でもないのだから、無理はしないほうがいいという判断だろう。  手持無沙汰のヘリホルは、軍が道端の広場に野営地を築いている間、近くの小山に登って薄闇に暮れてゆく赤い大地を眺めていた。  天にかかる星の大河が地平の端から端へ薄ぼんやりと透けて見え、揺らぐことを知らない地平の端に、宵の明星が輝いている。  視界はどこまでも礫の連なる荒れ果てた不毛の大地だ。沙漠への道をわずか一日歩いただけで、世界は一変する。けれど川沿いの緑の中に暮らす多くの人たちは、一生、この世界を知ることは無い。  風の吹いて来る方角を眺めていたヘリホルは、ふいに、微かな不安に襲われた。  何者かが、遠くのほうからこちらをじいと伺っている気配がある。敵意にも似た息遣い――獲物を狙う狩猟者の眼差し。野犬の群れか何かかがいるのかもしれない。一人で離れないほうがいい。  彼は慌てて小山を駆け下りて、野営地のほうへと駆け戻って行く。  けれど、まとわりつくような不安は、どこまでも追いかけて来るのだった。  オアシスの玄関口、ヘベトの街には、予定の日に到着した。  道中に起きた問題はといえば、召使の一人がサソリを踏んづけて足を腫らしてしまったこと、ロバの一頭が転んだひょうしに水壷の一つを割ってしまったこと、そのくらいだ。百人近い人数を引き連れての遠征行の中としては、ささやかなものだろう。  それよりももっと重要な問題は、このオアシスの中にその大人数が寝泊まりする場所が無いと言うことだった。  オアシスの顔役はあからさまに迷惑そうな顔をしていた。州知事の一行がオアシスを訪れることは前もって知らされてはいたものの、それは少人数での「視察」のようなもので、これほど大勢引き連れての「行幸」とは思ってもいなかったのだ。  「このオアシスには、宿舎の用意がありません。なにせ、ここを訪れる旅人は限られますので…。中央の街(ヌゥト)まで行けばもう少し大きな宿はあるでしょうが。閣下とおつきの方々には商隊宿を使っていただいて、他の方々は野営していただくしかありませんよ」 それと、と顔役は大真面目な顔で付け加える。  「ロバに水を飲ませる場所は決められています。くれぐれも、水場に連れ込むことのないように! 家畜が畑に入ったり糞をまき散らしたりせぬよう、繋ぐのを忘れないで下さいよ。」 オアシスの水場は、集落の中心に近い場所を中心に何か所かの井戸と、神殿の中庭にあるような湧き水を貯めておく石造りの貯め池だった。水場にはヤシの木が密集して生えているから、遠くからでもすぐに判る。  水場には、小さいながら重厚な石組みの社が建てられて、ここに住む人々お手製の祭壇にヤシの実や花が供えられている。  ウアセトの都に住んだ王が建てさせたものなのだろうか、壁に刻まれているのはウアセトの守護神である見えざる太陽アメンのようだったが、それ以外にも多くの神々の姿が手あたり次第に刻まれて、どことなく纏まりが無い。けれど祈る側にとっては、そのほうが都合が良いようだった。  川べりの「神々の土地(タ・ネチェル)」から遥かに離れたこのオアシスでは、人々は、めいめい違った神の名を口にする。毒蛇やサソリから守護してくれる「生命の貴婦人(セルケト)」、西方の死者の国への道筋を守護する「道を切り開く者(ウェプワウェト)」、魂と心臓の護り手なる「自ら形成されし者(ヘプリ)」。神官も神像も無い素朴な社に、人々は、それぞれの守護神への言伝を残していくのだった。  行軍してきた兵たちがオアシスの端に野営地を作るのを眺めながら、ヘリホルは、前回は怪我を治すため寝ていてほとんど観察出来なかった、オアシスでの暮らしを観察していた。  オアシス(ウェハト)は、神々の祝福を離れた「赤い土地」の中でも独特の、不思議な空間だった。水と緑の匂いがあり、人と、人に属する生命の気配がある。けれど集落を吹き抜けていく風だけは、沙漠の、赤い土地の荒々しい風そのものなのだった。  けれどゆっくりはしていられない。ここへ来たのは物見遊山でも商用でもなく、失われた鉱山を再発見するためなのだ。  しばしの休息の後、ヘリホルは、ウェンアメンとその部下たちを引き連れて、『ヘビの裂け目』へ向かわなければならない。ウェンアメンの指揮で兵たちが二分され、片方は宿に留まって報告を待つ州知事の護衛に、もう片方は探索に出かけることになった。  「以前、盗賊どもの死体を見つけた場所に向かえばいいのだな?」  「ええ、その近くです。目印が見つかれば、あとは私が案内出来ます」 とはいえ、ヘリホルにもそれほど自信があるわけでは無かった。  鉱山の目印となる『太陽を崇めし しもべたちの回廊』はまだ見つけられていなかったし、『ロバの留まり場』や『水場』を見つけてくれたのはセティだった。とはいえ、近くまで行ければ、少しは見覚えのある風景にも出くわすだろう。  ウェンアメンとヘリホルを先頭に、五、六名ほどの槍兵と弓兵、それに荷物持ちが後ろに続く。荷物持ちたちは、鉱山が見つかれば、そのまま鉱夫にもなる予定だ。  オアシスの緑を背後に、赤い沙漠を横切ってロバできっかり一日半、地図に記されていた日数のままに、一行は険しい岩が壁のように反り立つ渓谷へと到着していた。  「この辺りのはずだ」 と、ウェンアメンは自信を持って行った。  「ああ、そうだ。そこの壁側に、盗賊たちを埋めた場所がある。そうだったな? ラネブ」  「は、隊長。仰せのとおりです」 槍を担いだ、抜け目のなさそうな鋭い目をした男が隊列の後ろから答える。どうやら、以前ここで盗賊退治に関わった部下を連れて来ていたらしい。  ヘリホルも、その谷の風景には覚えがあった。盗賊団「西方のハイエナ」のゲレグが、カーを人質に取って立っていた場所。暴風の神の化身のように、セティが盗賊たちをなぎ倒していった砂地。彼を背後から狙っていた射手の隠れていた岩場。  まるで昨日のことのように、瞼に情景が蘇って来る。全てが――  「どうだ?」 声を掛けられ、ヘリホルははっとした。振り返ったウェンアメンがこちらを見つけている。  ヘリホルは、慌てて頷いた。  「街外ありませんよ。自分が矢で射抜かれた、一生に一度の場所を見忘れたりはしません」  「そうか。では、ここからの道案内は君に頼むとしよう」  「分りました」 ヘリホルはロバを降りると、記憶を辿りながら歩き出した。  ここから、そう遠くは無かったはずだ。見晴らしの良い丘のすぐ麓。  歩いているうちに、足元に転がっている陶器の欠片に気が付いた。それから、朽ち果てた縄も。『集積場』だ。ヘリホルは少し勇気づけられた。ここまで来れば、あとはもう少しだ。  見覚えのある坂道を下ると、その先に、蛇のうろこにも似た模様の岩壁を持つ谷が広がっている。  「ここです!」 辿り着けたことに安堵しながら、ヘリホルは、ようやくひとつ息をついた。すぐ後ろについて来ていたウェンアメンも、感心したような声を上げる。  「なるほど、この岩の模様…蛇の裂け目…そういうことか。」 それから、しゃがみこんで砂の上に埋もれるようにして落ちていた、砕かれた石の破片を拾い上げる。「ふむ。砂の下に何かありそうだな。しかし…これは、掘り出すのも大変そうだな」  「そうだと思います。何日もかかるかも」  「厄介なことだ、やれやれ」彼は小さく首を振った。「我々の州知事どのが、いつまで待っていてくれるやら。せめてオアシスの近くなら」  「水場はありますよ。正確には、水場だった場所が。掘れば水は出るかも…多分」 慰めにならないことは判っていながら、ヘリホルは言った。  「この先に、宿場と水場の跡があるんです。谷間には日陰もあるし、何もないよりはマシでしょう」  「ああ、そうだな。…何もないよりは」 ウェンアメンの暗い表情も、その後のことを考えれば致し方ないものだった。場所の特定をしさえすればいいヘリホルと違い、彼はこれから、ここで実際に鉱山を掘り出す作業の指揮を摂らねばならないのだ。  そして、それからほどなくして作業は開始された。  オアシスから人員と物資が運び込まれ、仮の拠点が作られる。荷運び人は砂から鉱山の入り口を掘り起こすため、かつての鉱夫たちの宿舎に寝泊まりしながら、壺から籠に道具を持ち替えて働いた。  ウェンアメンの部下の兵士たちは周囲を警戒するため定期的に巡回し、物資を手に入れるためオアシスと往復するロバと荷運び人の行列を護衛した。  ヘリホルはといえば、手持ち無沙汰のまま、毎日、遺跡に残された風化した落書きを読んだり、辺りを歩き回って、まだ見つかっていない『太陽を崇めししもべたちの回廊』の謎を解こうと試みたりしていた。  既に枯れていたかつての『水場』は、兵士たちがかなり深い穴を掘り、なんとか水は湧き出してくるようになっていた。もっと谷の先に行けば浅い穴からでも水が出ることをヘリホルは知っていたが、谷の壁面に埋もれた獣の石を見たとたん、恐れを為してそれ以上、谷の奥へは入りたがらなくなってしまった。  やはりここは、初めて見る者にとっては”呪われた谷”なのだ。”迷いこんで長居をしていると岩と同化して石になってしまう”。そんな風に思わせる雰囲気は、確かにある。  けれどヘリホルはもう、この谷で夜を過ごすことを知ってしまった。谷の奥に湧き出す水の、冷たくて美味しいことも。  州知事のパネへシは、最初の一日だけ鉱山の様子を確かめにやって来た。  けれど、ここが滞在するには快適ではないことは明らかで、たった一晩過ごしただけで、オアシスへと引き返してしまった。護衛を付けねばならないことにウェンアメンは僅かに不満を漏らしていたが、現場にいて、ひっきりなしに文句を垂れられるよりは良いと、少しほっとした様子でもあった。  作業の進み具合は順調で、砂を掻き出した下からは、早くも谷底が見え始めていた。  問題は、鉱山の入り口があるのが、谷底のどこからしいことだった。  岩壁に掘り込まれた階段はおもっていたより下の方まで続き、砂を掻きだした先から、風が吹くたびに砂が押し寄せてくる。この場所が放棄されたあと、誰も知らないまま埋もれていたのもそのせいだろう。作業は、果てしなく続くかのように思われ、誰もがうんざりしかけていた。  それでもある日、遂に失われた鉱山は姿を現した。  大地の裂け目の奥深く、ぽっかりと口を開けた縦長の崩れかけた坑道の入り口。入り口には、最後にここで作業した作業者たちの置き忘れた錆びた銅のノミと、からからに干からびた弁当の籠が一つ、無造作に投げ捨てられたままになっている。  「松明が必要だな」 言いながら、ウェンアメンはまだ半ばも砂に埋もれたままの穴の奥底を覗き込んだ。  「坑道は奥まで続いていそうだ。いずれにせよ、この先に掘り進める前に州知事どのに報告せねばならないな」 彼は、渋い顔をしていた。  「入り口が見つかったら報せるように言われていたのだ。私はここで、作業員たちが何も持ち出さないことを見張っていなければ。…州知事どのが気にされているのでな。ヘリホル、報告のほうは頼めるか?」  「判りました」 ヘリホルは快く頷いた。ほとんど何もしていなかったので少し気が引けていたし、そろそろ、この砂だらけの風景にも飽き始めていたところだ。久しぶりに、緑ある風景の中で、ヤシの木の香りを嗅ぎたかった。  いつものように、食料や物資を運ぶためのロバの群れが護衛付きでオアシスに向けて出発しようとしている。彼もその隊列に混ざり、谷間を後にした。  ウェンアメンは残って、坑道の中に溜まった砂を取り除きながら、その中から貴石のかけらか何かが出てこないか注視している。  以前は全く興味の無かったことだが、あの鉱山に一体何が眠っているのか、今になってヘリホルも少し気になり始めていた。  パネヘシがこれほどこだわり、自らオアシスまで乗り出して来たのは、もしかしたら他の者には知らされていない何かを知っているからなのではないか。埋もれていた鉱山から何か持ち出されやしないかと心配するほどなのだ。かつてここで採掘されていた貴石は、黄金ほどではないにせよ、よほど価値あるものに違いない。  ロバに乗り、ヘリホルはオアシスへの道を急いだ。  地平線の向こうに緑の塊が見えてくる。州知事の滞在している宿は街の中心に近い場所にあり、護衛のために残っている兵士たちは、相変わらず街の外側に建てた仮宿で、不便な暮らしをしていた。  「失礼します」 報告のため宿に一歩踏み込んで、ヘリホルは思わず目を疑った。風通しを良くするため水場に向けて開かれたテラスで、パネヘシは緩んだ体をクッションに横たえ、上機嫌で召使たちに赤い酒の酌をさせていたからだ。  部屋の隅には、ぶどう酒の壷が置かれ、干したナツメヤシや鳥肉など、つまみらしきものが皿に盛られている。部屋の真ん中を占める巨体からは、むっとするような酒の匂いが漂っている。  そういえば、オアシスには王家の酒蔵がある、と聞いたことがあった。黒い土地(ケメト)では育ちにくいブドウの木がよく育つのだとも。  オアシス産のぶどう酒のほとんどは、オアシスを行き交う商隊が直接、王の館や神殿に運んでしまうから、川べりに暮らす人々は金持ちといえど滅多に手に入らない。だが現地まで来れば、直接買い付けることは不可能ではない。――まさか、この男はそれ目当てにわざわざオアシスまでやって来たのか?  だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。気を取り直し、ヘリホルは、自分の職務へと気持ちを切り替えた。  「州知事殿、ウェンアメン殿からの言伝です。鉱山の入り口が姿を現しました。引き続き、現場では発掘を進めています。いかがされますか?」  「何、もう…? そうか…では、行かねばならん…」 酔っ払った胡乱な体のまま、男、ふらふら、よろよろと立ち上がろうとして、どすんと派手に尻もちをつく。そのはずみに、手から零れ落ちた赤い酒が床に零れ、血のように飛び散った。  不吉な前兆だな、とヘリホルは思った。召使たちが残った酒を片付け、酔い覚ましの水を運んでくる間、彼は部屋の隅で待っていた。けれど、どう見てもこの酔っ払いがすぐにロバに乗れるとは思えなかった。  「私は、外でお待ちしています。準備が出来た頃にまた伺いますから」 聞いているのかいないのかは判らなかったが、どちらでも同じことだろう。彼は、返答が来る前に急いで宿を退出した。あの酒の匂いをずっと嗅いでいたら、こっちの気分も悪くなりそうだ。  一緒にオアシスまで戻って来たロバ引きたちは、水場で水を汲んだり、食料を仕入れたり、忙しそうにしている。ついてきた護衛の兵士たちは、街の外で待機している兵士たちと交代しているようだ。このあと州知事が一緒に行くと言うのなら、出発まではまだまだ時間がかかるだろう。  「私は少し、その辺で休んでくる。もし州知事どのがお呼びなら、言ってくれ」 ロバ引きの一人に言い残して、ヘリホルは、街の中心にある広場のほうに向かって歩き出した。  ヤシの緑に囲まれたそこは、普段から市が開かれていて、近隣のオアシスからやって来た住人や、オアシスを通り過ぎていく商人たちが物々交換をしている賑やかな場所だ。広場の縁にはヤシの緑がそよぎ、木陰にも事欠かない。灼熱の大地の中でも、涼しい風を感じられる貴重な場所なのだ。  広場までやって来た時、ヘリホルは、ふと足を止めた。  (あれは…) 亜麻布を目深に被り、背に大きな荷物入れの籠を背負った見覚えのある少年が、市に並ぶ店の間をちょこちょこと駆け抜けながら、目当てのものを探している。くりくりとした瞳に俊敏な足取り。引き寄せられるようにして、彼はその少年の前に立っていた。  「カー…?」  「あっ、旦那!」 ぱっと顔を上げ、少年は白い歯を見せて驚いた。  「お久しぶりでさ。もうすっかり元気みたいですね? やっぱり旦那も、あの大所帯にくっついて来てたんでやすね」 大所帯、というのは州知事の連れてきた、州軍のことだろう。  「ああ、不承不承だけどね。州知事どのは、あの鉱山をどうしても掘り出したいらしい。…君は? 何故…いや、そうか。物資の買い出しだな」 少年の手には、ランプを灯すのに使う油の入った壺が抱え込まれている。  「セティにお礼を言いたかったんだ。私をここまで運んでくれたからね。お陰でこうして生きていられる。ありがとうと、伝えてくれ」  「それを言うなら、旦那のほうこそアニキの命の恩人でさ。アニキは、借りは必ず返すもんだっていつも言ってまさぁ。だから当然なんすよ。アニキ、旦那のことを、あれからも時々、気にしてはいましたよ。へへ。元気だって知ったら喜ぶと思いやす」 屈託のない笑顔を見せながらも、少年は、何か気になることでもあるのか、妙にそわそわしている。だが、ここで話を終えて立ち去ることはしたくないようだった。視線を周囲に投げかけると、カーはそれとなくヘリホルの腕を引いた。  「ちょいと、お話があるんで。ここじゃ人もいる…そこの陰まで来てくれやせんか」  「ん、ああ。構わないが…?」 人混みを抜け、ヤシの根本に繁る低木の陰に身を隠すと、カーは用心深く人混みを見やった。  「どうした? 何を警戒しているんだい」  「いえね…ここんとこ、ゲレグんとこの生き残りが街をウロウロしてて…。ほら、旦那に怪我させた例の『西方のハイエナ』でさぁ」 ヘリホルは眉を寄せた。  「生き残りがまだ居るのか。今ならここに兵もいるだろう。突き出せないのか?」  「こっちも捕まっちまいますよ。それに、言い逃れされたら証拠も無いんで。どうも連中、商人のふりをして、街に出入りしてるらしいんでさ」  「商人に鞍替えしたんじゃないのか?」  「それは無いっすね。連中、相変わらず商人を襲ってます。とはいえ、今は州軍もいるんで、そうそう派手なことも出来ず、道から外れたような間抜けを襲ってるんでさ」 そう言ってから、カーは声の調子を落とした。  「…あの連中のやり方は、セティの兄貴とは全然違いやす。目撃情報を残さないために、襲った商隊は皆殺しにするんでさ。女子供まで、全員…。アニキなら、不要な殺人はやりません。」  「だろうな。」 ヘリホルは頷いた。野兎や小鴨になど見向きもしない。獅子の狩りとは、そういうものだ。  「その連中が、商人のふりしてウロウロしてるんですよ。州知事がこの街に来てからでやす。匂うと思いやせんか」  「確かにな。…このことは、セティも気づいているのか?」  「勿論。あっしは、それで探りを入れるために寄越されたんで。あっしなら、アニキよりは目立ちやせんからね」 それで、亜麻布を目深にかぶって、どこかの小間使いのような格好をしているのだ。もしカーの言うことが本当なら、危険な盗賊団が州知事の動向を気にしているということだ。  嫌な予感がする。もし州知事が人質に取られるようなことでもあれば、身代金は莫大なものになるだろう。  それだけではない。責任を取らされて、ウェンアメンはもちろん、何人もの軍人が極刑に処せられる。そんな未来だけは避けなければならない。  「カー、お前はハイエナの生き残りの顔の判別がつくんだな? どいつだ」  「あの、頭に布を巻いた頬に傷のある男でやす。それと、後ろにいる背の高い黒い肌の男…あいつは、クシュかワワトの人間だと思います。他にも何人かいるかもしれやせんが」  「判った」 ヘリホルは、腰を上げた。「カー、一緒に来てくれ」  「どうするんで?」  「私に策がある。君は、私の小間使いのふりをしてついてきてくれ。いいね」 少年を後ろに引き連れて、ヘリホルは市場へと戻った。  後ろを振り返らなくても、カーが付いてきていることは判っている。あれこれと品物を見定めるふりをしながら、彼はそれとなく、頬に傷のある男のほうへ近づいていく。  ちょうど目の前には、ヤシの葉を編んだ粗末な茣蓙(ござ)がいくつも積み上げられている。そこまで来ると、彼は大げさに、聴こえるような溜息をついて言った。  「ああ、これじゃ駄目だな。州知事殿のお眼がねには叶いそうもない。もっといい敷物は無いのか? 亜麻でなくとも、何か毛織物くらいあるだろう。鵞鳥の羽根を詰めたようなものは? ロバの背に敷く敷物が欲しいんだが」 側で立ち話をしている風を装っていた盗賊たちが、こちらに注意を向けたのが分かる。しめたと思いながらもヘリホルは、何食わぬ顔で敷物を物色しはじめる。店を出していた老婆が目をしょぼつかせ、ヘリホルに言った。  「旦那さん、ここにはそんな良いものは無いよ。このオアシス(ウェハト)には、お貴族なんて住んじゃいないんだ。ロバの毛で編んだ座布団で精いっぱいだよ」  「そうかい? ぶどう酒農園の主は、川べりの貴族のような良い暮らしをしていると聞いたんだが。一体どこから敷物を仕入れているんだろうな」  「それならヌゥトまで行かないと。荘園主さんは自分とこの家畜で敷物も着物も作っていなさるだろうよ。分けてもらうしかあるまいね」  「それじゃ遠すぎるな。州知事どのは三日後にはここを発つんだ。それまでにロバの座り心地を上手い具合にしないと、我々みんなどやしつけられる」  「おい兄さん、兄さん。話は聞かせてもらった。欲しいのは敷物と座布団かい?」 脇から、別の商人が割って入る。  「枕でよけりゃあ、藁を詰めたのがあるがね。」  「およしよ、どうせあんたの使い古しだろう?」  「なあに、尻に敷くなら表の布を変えれば何とかなるさ。兄さん、あんたお役人か何かかい」  「まあ、そんなところで。州知事どのが何所へ行くにも連れて行かれて、あれこれと言いつけられるので難儀な身の上です。」  「へええ、側近さんかい。お若いのに随分と優秀だねえ。」 本当はただの下級役人なのだが、そう思わせておくに越したことはない。そのほうが、発言に信ぴょう性を持たせられるからだ。それに――、少なくとも、自分の境遇についてだけは嘘は言っていない。  「それで? 三日後だって? 噂じゃあ、州知事さんは盗賊退治だか宝さがしだかに来たらしいけど、そっちの用事はもう終わったのかい」  「いえ。終わりそうもないのでもう帰ると仰せなんですよ。いつまでも州庁を空っぽにしておくわけにもいかないですからね」  「そうかい、そいつは寂しくなるね。金払いは良かったんだが」  「金払いだけはな」 いつの間にか集まってきた周囲の商人たちが話に加わって、ヘリホルの周りにはちょっとした人だかりが出来ている。  けれど彼は見逃していなかった。  頬に傷ある男が、仲間たちと顔を見合わせてそれとなく場を離れていくのを。  (そうだ、ちゃんとお頭に伝えるんだぞ。「三日後」に「オアシスから街へ帰る」んだ。…そう伝えろ) ヘリホルは内心で、彼らがヘリホルの口から出まかせを信じてくれたことを強く祈っていた。  危険なのは、このオアシスから鉱山までの間だけなのだ。ウェンアメンの率いる本隊と合流出来てしまいさえすれば、――優秀な指揮官の元にいる兵たちならば、あんな盗賊団ごとき危険に思うことは無いのだから。  カーが街の中を見て回っている間に、ヘリホルは大急ぎで街に残っていたウェンアメンの部下の兵士たちに、盗賊が嗅ぎまわっていることを伝えに行った。  「以前、私を襲った連中なのです。おそらく以前の討伐隊が討ち洩らした生き残りだと…。オアシスを離れた後、州知事どのが狙われる危険があります。どうか、ウェンアメン殿に迎えに来るよう急いで伝えて下さい」 前回の盗賊討伐に参加している兵たちは、ヘリホルが盗賊に襲われてオアシスで療養していたことを覚えていたから、この警告は信用してもらえた。足の速い者がロバを連れてウェンアメンのいる鉱山へ伝令に走る。一方で、カーは、「西方のハイエナ」の盗賊たちが街から姿を消していることを伝えてきた。  「きっとゲレグのところに報告に戻ったんでさ。どうするんです? 旦那」  「鉱山にいる隊長を呼んでくるよう兵に頼んだよ。奴らが私の言うことを信用して「壺の道」のほうに張り込んでくれれば良し、もしそうでなくとも、隊長のウェンアメンが戻ってきて護衛についてくれれば、たとえ途中で盗賊に襲われても大丈夫なはずだ。」 問題は、出立の日を三日後まで遅らせることが出来るかどうか――このオアシスから鉱山までは、往復するのに三日かかるのだ。ウェンアメンが来てくれるとしても、それは三日後より早いはずがない。  「んん、だけど困ったなあ。もし連中が州知事を人質にとろうと企んでるんなら…、アニキなら目立つことするなってまた嫌がるだろうな」 カーは頭を抱えている。  「旦那、あっしも大急ぎで戻ってアニキに伝えてみやす。ゲレグの奴が何をしようとしてるのか、アニキなら判るかもしれないんで」  「ああ、頼むよ。私は州知事どのの出立を遅らせるように何とか試みてみる。無駄な血は流れないほうがいいのだから」 少年が大急ぎで立ち去って行ったあと、ヘリホルは、砂混じりの風の吹いてくる方に顔を上げた。  嫌な予感――、谷間の鉱山にいた時には感じなかった、何かに様子を伺われているような気配が纏わりついてくる。もしかしたらまだ何所かに、カーの知らない盗賊団の関係者が隠れて様子を伺っているのかもしれない。  「神々の土地」を離れた場所では、その場所の掟を知らぬ者は迂闊に動き回るべきではないのだ。  ティスから連れて来られた州兵たちの多くは、長引く遠征に嫌気がさし、士気は極端に落ちている。隊長のウェンアメン自信ですらうんざりしかかっていたほどだった。  それに沙漠での戦いは元々、この土地に住みついた盗賊たちのほうに利がある。セティやカーの巧みな砂地での足運びを見ていれば、尚更そう思う。何とかして、盗賊団の狙いを(かわ)すことが出来ればいいのだが。  宿に戻ってみると、パネヘシは、振り子のように体を左右に揺らしながらも、まだ、上着を着ようと試みている最中だった。召使たちが、倒れそうになる身体に苦労して腰ひもを回そうとしている。ヘリホルは、慌てて州知事の前に駆け寄った。  「酔いを醒まさなければ、ロバから落ちてしまいますよ。それに、砂嵐が来そうなんです。何も無い砂漠の真ん中で嵐に逢うと方角を見失います。出立は明日にしましょう」  「う…む、そうか? しかし…わしは早く…失われた鉱山を見たい…」  「鉱山は逃げませんし、まだ入り口の奥には沢山の砂が詰まっています。取り除くには何日もかかりますよ。」  「見つけ…早く行かなければ…入り口の脇のお宝…。ふう」  「お宝?」  「ああ、お宝だ。それさえ手に入れられれば、わしは…わし…王にさえ匹敵する…」 呂律の回らない舌で言いながら、州知事はばたりと床に転がって、高いびきをかきはじめた。召使たちの苦労も水の泡だ。ヘリホルは気の毒になって、うろたえている細身の召使たちを見ました。主人が終始この状態では、赤ん坊を相手にしているほうがまだマシというものだ。  だが、酔っ払った州知事は、とても重要に思えることを口にしていた。  (入り口の脇の宝、とは…?) 鉱山に鉱石が残っているのか、ではなく、鉱山に隠された「別の何か」を気にしているように思えた。だとすれば、パネヘシにとっては最初から、鉱山が枯れているかいないかは関係なかったことになる。  (一体何が、あそこに…。) 召使たちが四人がかりで、酔いつぶれていびきをかいている主人を寝室のほうへ運んでいく。  その間中、ヘリホルは、立ち尽くしたまま考え込んでいた。このぶんなら、パネヘシは翌朝まで目を覚まさないだろう。けれどその後は? あともう二日、出立を延ばすにはどうすればいい?  頭は明確に回転し始めていた。部屋の中には、食べ散らかした果実や肉、酒かすがあちこちに転がっている。さっき市場で見かけたものの中で州知事の気を引けそうなものが何かあっただろうか。今のうちに、腹下しの薬でも盛っておくべきか。それとも、本当に砂嵐が来てくれればいい。  けれどその夜の空気は予想に反して澄み渡り、そよ風さえ吹かない凪の中で、暗い地平まで星々が埋め尽くしていた。  嵐の前の静けさ。  深い眠りの中にある、死にも似た無音の世界を、銀の月が静かに照らし出していた。
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