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第二章 天啓(4)
急ぎ引き返した鉱山には、重苦しい雰囲気が漂っていた。
戻ったウェンアメンの口から、盗賊の襲撃を受けて多くの仲間が倒れたこと、それでも今すぐ黒い土地に引き返すことは叶わないと聞かされたからだ。
「盗賊どもはここを狙っているらしい。かなりの手練れが混じっている。心して警戒せよ。また、出来る限り速やかに、州知事どのの指示された場所を掘り進め、そこにあるものを確かめるのだ。それが済み次第、全員でティスへ帰還する。…で、宜しいですね? 州知事どの」
「う、うむ。」
脂汗を拭きながら、パネへシは頷いた。
何とも言い難い淀んだ雰囲気が、兵たちの間にも、人夫たちの間にも漂っている。ひそひそと囁き合う声がどこかから聞こえてくる。
いつもなら、無駄口を叩くなと諫める立場のウェンアメンだが、今日ばかりはその気も無いらしく、囁くがままに放っておいた。その代わり、腕の立つ部下たちを呼び集めて、周囲をどのように警戒するかの作戦を練り始める。
半ば放っておかれた状態のパネヘシは、困惑のままにロバからよろめくように降り立ち、案内されて、鉱山の入り口に立っていた。
砂は、もうすっかり取り除かれていた。
『蛇の裂け目』の底には、数百年前、最後にここを訪れた鉱夫が削り取ったまままの石段と、ノミを打ち込んだ跡がはっきりと見えている。だが、岩壁に口を開けた鉱山の入り口の奥のほうは、ウェンアメンの言ったとおり砂で埋もれて、おそらくは落盤のために進めなくなっているようだった。
「そこではない」
松明を持った召使いを穴に入らせて中を覗き込みながら、パネヘシは暗がりの奥を指さした。
「その、右手のほうだ。そうだ、そこだ。そこを掘ってみよ」
「一体、何があるというんですか」
ウェンアメンが戻ってきて、うんざりした表情で言う。
「宝だとか、何とか…。そんなもの、砂を退けている間に一つも見つかりませんでしたよ」
「ああ、そうだ。隠されているのだ。ここに。黒犬神の神殿の神官たちが隠したものだ…すぐに見つかるはずだ。さあ、皆、ぐずくずせずに取り掛かれ! 見つかれば、お前たちにも褒美を取らせるぞ」
腹を揺らしながらパネヘシは手を叩いて、作業者たちを穴の奥へと入らせた。谷間に斜めに射して来る光が岩の隙間を通り抜け、一条、谷間に細く落ちている。
手を翳して空を見上げたヘリホルは、ふと何かに気づいた。
「…少し、外します。」
「構わないが、あまり遠くへは行かないようにな。」
ウェンアメンが言う。
「何所に盗賊どもが隠れているか判らない。貴殿は既に二度、盗賊と出くわしている。顔を覚えられているかもしれない」
「気を付けますよ。――少し、用を足すだけですから。」
急ぎ足にその場を離れ、彼は、辺りを見回してから岩間の階段のようになった場所を駆け上がった。『宿場』と呼ばれていた、穴の並ぶ崖のすぐ側だ。おそらくは、崖に掘られた上の方の穴に寝泊まりしていた人々のために作られたものだったろう。そして、その階段からは、谷間を見下ろす崖の上に出られるのだった。
ウェンアメンの部下たちは、そこには居なかった。正確には、つい先刻までそこに居て、今は移動しているらしかった。だがヘリホルは、確かにここに、人影を見たのだった。それと同時に、懐かしい眼差しも。
そこに誰が来ているのか、何故だか判っていた。崖の下から姿を見つけられないよう腰を屈め、彼は声を押し殺して名を呼んだ。
「セティ? そこに居るのか」
岩の向こう側で、微かに人が動く気配があった。見覚えのある、赤毛の男がそろりと顔を出す。
「…セティ!」
「しっ」
思わず駆け寄ろうとするヘリホルを手で制し、男は、ひどく警戒した様子で視線を辺りに投げかけた。
「連中も近くまで来てる。迂闊に動くなよ」
「連中…、『西方のハイエナ』か」
「ああそうだ。だが、本当に恐ろしいのはハイエナどもじゃ無ぇ。最近、連中のところに雇われた傭兵どもだ」
何度も念入りに辺りを確かめたあと、ようやくセティはゆっくりと、岩陰から動き始めた。それでも、亜麻布を頭からかぶり、目立つ赤い髪を隠すことは忘れていない。こうしていれば、少なくとも遠目には、兵士の一人のように見えるはずだ。
「にしても、またあんたに逢えるとはなぁ。」
ヘリホルと向かい合って、男はようやく表情を緩め、微かな笑みを浮かべて見せた。
「州知事が軍を引き連れて戻って来たって聞いて、もしかしたら、とは思ってたんだが。ヘベトの街でカーの奴に逢ったんだろ? 話は聞いてる。その後、何があった?」
「州知事どのの気まぐれに引っ張られて、護衛も不十分なまま沙漠の旅になってね。襲撃に逢ったのは、昨日のことだ。…」
恐ろしい体験を思い出しながら、ヘリホルは手短に惨劇の顛末を話して聞かせた。
セティは黙って頷きながら、真剣な顔をして聞き入っていた。そして、ヘリホルが最後まで話し終えてから、ゆっくりと重たい口を開いた。
「…そうか。もう出くわしてたのか。そう、お前が見た奴らが、ゲレグに雇われた傭兵どもだ。やたらと腕が立つ。よく生きていられたな」
「あれは、やはり君でも厳しいのか?」
「ああ。一対一なら何とかなるかも知れねぇが、あいつらは三人で一つだ。特に、あの頬に傷のある奴は只者じゃねえ。完璧に気配を消しても、こっちに気づきやがるからな。何所か国の外で戦い方を覚えて来た、よそ者なんじゃねぇかと思ってる。」
「厄介な相手を雇ったものだ」
「本当にな。お陰でこっちも思うように動けやしねぇ。ゲレグが幾らで連中を雇ったかは知らねぇが、早々に契約切れになるのを願ってるところだよ」
溜息まじりに言って、彼は、腰に手をやった。
「それに、ここのところ沙漠の風が…何ていうか、騒がしい。お前の上司がここを掘り始めてからだ。沙漠の主はずっと不機嫌だ。ピリピリする気配だぜ。こんなのは初めてだ」
「そう言えば君は、嵐の神のご機嫌が判るんだったな。怒りを買うような無礼でもあったんだろうか? それとも、この土地に何か?」
「さぁな、そこまでは判らねぇ。効くかは知らんが、酒か肉でも備えてみればどうだ?」
「供物なら、もう十分すぎるくらい沙漠に捧げたよ。昨日、何人も血を流した」
「…成程。赤い血の酒か」
僅かな沈黙が落ち、砂混じりの風が足元を吹き抜けていく。
最初に口を開いたのは、セティのほうだった。
「『西方のハイエナ』たちは一体、何を狙ってる? 州知事なんて偉いさんなら人質としての価値は十分だが、代償はあまりにもデカすぎる。そう簡単に報酬を手に入れられるとも思えんが」
「狙いは多分、州知事どのの言う”お宝”のほうだと思う。それが何かは判らないんだが――」
ヘリホルは顎に手をやった。
「実際、ここにあるのかどうかも分からないんだが、我らが州知事どのはオアシスにいる間じゅう、”もうすぐ素晴らしいお宝が手に入る”と吹聴して回っていたらしい」
「チッ、何だってそんな余計な真似を…黙ってりゃ、連中だって食いつかねぇだろうに」
「全くその通りだよ。だが、その点については今さらどうにも出来ない。州知事どのの身はウェンアメン隊長が意地でも守るだろうが、無用な犠牲が出るのは避けたい。セティ、少しだけ力を貸してくれないか? 連中がいつ襲ってくるつもりなのかだけでも判れば」
「それが出来ればな」
赤毛の男は、小さくため息をついた。
「さっきも言ったが、あの傭兵ども相手じゃ俺もそれほど安全に立ち回れ無ぇんだよ。今のところ敵対はしていないが、ゲレグの奴が前回の恨みを思い出してけしかけて来ねぇとも限らんしな。…ま、ただ、知り合いが死ぬところは見たく無ぇ。何か予兆に気付いたら警告くらいはしてやれる。危なくなったらお前は無理せず逃げろよ。いいな」
「判ってる」
頷いて、ヘリホルは真っすぐにセティを見た。
「ありがとう、君も気を付けて」
「ふん、前は捨てられた雛みたいな顔してたくせに、ずいぶん羽毛が生えそろってきたじゃねぇか」
少し笑って、それからセティは、ふいに真面目な顔になる。
「…なぁ、ヘリホル。あんた、前にも何所かで俺と会ったことは無かったか?」
「え?」
ヘリホルは、思わずぽかんとした顔になった。
「いや。…気にするな。なんとなく、な。怪我したあんたを背負ってオアシスに向かってる時、ふと思ったんだ。気のせいだろ、忘れてくれ」
慌てて言いつくろいながら顔を背けると、「それじゃあな」とだけ言い残して、男は身軽に岩を飛び越えて姿を消した。
あとには静寂と、砂混じりの風だけが残されている。
(前にも会ったことがある…?)
それは、まさにヘリホル自身がこの場所で思っていたことだった。そして実際に、過去に逢ったことはあったのだ。
正確には、幼かった日に鷹神の神殿で、神像の瞳を通して見せられた、未来の光景の中で。
(まさか、セティも? 私を助けてくれたのはそのため? でも、どうして…)
と、その時、思考を断ち切るように崖の下から呼び声が響いて来た。
「おーい、ヘリホル殿! 何所だ?」
「おっと、いけない」
呼んでいるのはウェンアメンの声だ。慌てて、ヘリホルは崖の上から返事を返す。「ここです! ちょっと、辺りを確かめたくて…」言いながら、階段を駆け下りていく。
ウェンアメンは、ほっとした表情で降りてくるヘリホルを待っていた。
「見張りなら部下に任せてある。貴殿は心配されずともよい」
「勿論、判っています。ただ、その…昨日は、ほんの一瞬を突かれたので…」
それも、半分は本当だった。現に、いま周囲を警戒しているウェンアメンの部下たちは、セティの接近には全く気付いていなかったのだから。
「それで? 何かあったんですか」
「ああ。州知事どのの言う『お宝』らしきものが見つかったんだがな。どうもよく分からないので、貴殿にも見てもらいたいのだよ」
「はあ、良く分からない? 良く分からない、っていうのは…。」
首をひねりながら、ヘリホルはウェンアメンの後に続いた。
鉱山跡の周囲には、困惑したような表情の人夫たちが集まって、穴の底にへたり込んでいるパネヘシを覗き込んでいる。首尾よく何かを見つけたのだが、それは、どうやらパネヘシの思っていたようなものどは無かったらしい。
穴の底に降りていくと、強張った表情のまま硬直しているパネヘシの足元に、小さな箱が見えた。表面に象嵌のような細工のされた、上等な木箱だ。けれど中身は、金銀や宝石では無さそうだった。
「言われたとおり入り口の脇を掘って出て来たものだ。中身は、ただの書きつけのようで…。」
「書きつけ?」
確かに、箱の中に入っているおがくずのような断片は、元は巻物か何かだったようにも見える。
「失礼します」
パネヘシの側に膝まづくと、ヘリホルは、巻物を両手で取り出した。随分と古く、繊維が劣化していて、持ち上げるだけでも破片がぱらぱらと小箱の中に零れ落ちていく。
開いてみると、赤い文字で記された、最初の一行が目に入った。
「――『知恵の神のまことの言葉、海の底を見渡し、空を飛び越え、…この世のあらゆるものを見たるための呪文書』…『これを手にする者は…を…き…』破損していてはっきりとは分からないですね。文体からして、昔の神殿にあった祈祷書か何かだと思います。州知事どのは、これを探して?」
「違う」
虚ろな目のまま、パネヘシはふるふると頭を振った。
「違う…このような子供だましの呪文書ではない! わ、わしは聞いたのだ。この上なき財宝が、かつて『二つの国』の王だけが所有することの許された秘宝が、鉱山跡に隠されていると!――」
「……。」
ヘリホルとウェンアメンは、顔を見合わせた。
「それは…誰からです?」
「黒犬神の神殿の、先代の神官長だ。わしの父もその話は知っていた。ただの伝説だろうと…だが、鉱山は確かに在った! 神のお導きだと…宝を見つけよと、わしは命じられているのだと思った…。」
だから、これほどまでに鉱山に拘ったのだ。
しかもパネヘシは、「神の思し召し」で宝を見つけることが出来た暁には、その宝を自の懐に入れようと考えていたようだった。
あまりにも都合の良すぎる解釈のように思われたが、ヘリホルは敢えて指摘はしなかった。少なくともその「秘宝」は、パネヘシの欲望を満たすようなものでは無かったのだから。
「他には何も?」
振り返ると、ウェンアメンは小さく首を振った
「何も。穴の中に隠されていたのは、これだけだ。砂をくまなく除けさせたが、残りはただの岩盤だった。」
「では、確かにこれが、言い伝えにあるという秘宝なんでしょうね。でも、どう見てもただの祈祷書だ。それに、冒頭に書かれているのは知恵の神の名ですね。沙漠や鉱山で守護神への捧げものにするには、どうにもそぐわない」
「だとしても、事実ここに在ったのはそれだけなのだ。ここに収められたからには、何か意味があったのだろう」
ウェンアメンは溜息交じりに言って振り返り、手を叩いて、上からのぞき込んでいる部下と人夫たちに声をかけた。
「さあ皆、ここでの用は済んだ。撤収の準備だ! 日が暮れる前に終わって良かったな。明日には戻れるぞ!」
彼はもう、一刻も早くこの件にケリをつけたがっているようだった。
パネヘシは項垂れたまま何も言葉を発しない。信じられようと、信じられまいと、目の前にあることが現実なのだ。隠された宝は古い文体で書かれた、朽ちかけた巻物だけだった。
やがて、男は重たい足取りのまま、ロバのように地上へ向かう階段を登って行った。
後に残されたのは、巻物の破片を手にしたままのヘリホルだけだ。
それをどうしろとも言われておらず、彼は仕方なく、巻物の破片を元通り象嵌の小箱に収めると、小脇に抱えたままウェンアメンたちの後を追った。
* * * * * * * * * *
日暮れが迫り、足元は薄暗くなりかけている。
いつしか風は止んでいた。
大気は奇妙に沈黙し、赤い沙漠に凪が訪れている。足早に岩と岩の隙間をすり抜けようとしていた赤毛の男が、はっとして、顔を上げる。
(――この気配…)
頭上には、日暮れの赤と宵闇の濃紺が入り混じる空が広がっている。だが、そちらに注意が向けられていたのはほんの一瞬のことだ。
すぐさま、僅かな気配が彼の意識を捕らえた。足を止めたまま、彼は視線を岩陰へと向けた。
「おい、そこのお前。」
陰は、沈黙している。男は、するりと腰の剣に手をやった。砂地に岩の混じる赤い谷間、誰そ彼時の薄闇に紛れて獲物に近付くのは、狩猟者の習いだ。
「出て来いよ。そこにいるんだろ」
一呼吸の間を置いて、音もなく陰が分離する。クシュ人だろうか、背の高い、黒い肌を持った男が一人、腰に皮の水筒と短剣をぶら提げて立っている。
ゲレグが雇った三人の傭兵たちのうちの一人だ。
「短剣使いか。何か用か?」
「…サレ」
「うん?」
「サレ…名前」
ぼそぼそと、呟くように言って、男は緩慢な動きで頭をかいた。セティは眉を寄せ、しばし考えこんだ。
「ああ、つまり、”短剣使い”じゃなく、”サレ”がお前の名前ってわけだ。で? サレ、もう一度聞くが、俺に何の用だ」
「試す」
「試す?」
「試す、言われた。サレの主」
言いながら、するりと短剣を抜く。あまりに自然な、しかも敵意を全く感じない動作に、セティですらも一瞬、反応が遅れた。
常人なら、その一瞬で命運は決まっていただろう。反射的に仰け反ったセティの喉元を、冷たい刃の感触が通り過ぎていく。
(あっ…ぶねぇ…!)
喉元に手をやると、薄く切られた皮から滲みだした血が指に触れた。
ほんの一瞬…、長い脚で一気に間合いを詰め、迷いなく急所を狙って来た。野生の本能そのもの。いつだったか話に聞いたことがある、遥か南の荒野に居ると言う俊敏な大型の猫のようだ。
セティは、剣を抜きながら大きく後ろへ後退った。サレはぴくりとも表情を動かさず、空振りした刃を引き戻すと、裸足のつま先で砂を踏みながら緩やかに近付いて来る。
ヘリホルの話では、この男はたった一人で多くのティスの兵士たちの喉を切り裂いたという。人も獣も、敵意を感じれば警戒し、身構える。けれどこの男には、そうさせる”気配”がない。まるで邪魔な草でも刈るように短剣を振るうのだ。
「お前――何者だ? 何所から来た」
「どこ…」
首を傾げると、肩の辺りで編んだ髪が一筋、ぱらりと落ちた。
「サレは、サレ」
言いながら、長い腕で短剣を翳す。
「チッ、聞くだけ無駄か」
攻撃を躱しながらセティは、目の前の、得体のしれない男の力量を測っていた。
最初の一撃を食らいさえしなければ、攻撃は単調だ。けれど相手のほうが上背があり、腕も長い。しなやかで細い足は、沙漠の上を素早く動くのに慣れている。何よりこの男には感情というものが見えない。感情が無ければ恐れや焦りによる隙は生まれず、攻撃を誘導することも難しい。こちらも、迂闊に踏み込むのは危険だった。
セティは、ちらりと崖に目をやった。
そしてふいに、剣を鞘に納めると、一目散に崖の隙間目指して走り出した。
「あ、ああ」
サレのうろたえた声が聞こえる。「待て、サレと…戦う…」
「誰がお前みたいな面倒な相手と戦うか! こっちは、急いでんだよっ」
岩から岩へ飛び移り、後ろも振り返らずに去ってゆく赤獅子の後ろ姿は、瞬く間に夕闇の中へ溶けて消えた。
空からも、太陽の最後の残り火の色が消え、暗く灰色に沈んで行こうとしている。
相変わらず、風は消えたままだった。しん、と沈まりかえった耳の痛くなるような静寂の世界に、何かの予兆が静かに、歩み寄りつつあった。
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