雨ふらし

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 砂地は雨を吸い込んで黒く染まっていた。木陰に身を潜めていても、境内を行きかう人々の湿っぽい話し声と足音は鼓膜にとどく。ときおり、塀を隔てた隣家から風鈴の音がかすかに聞こえた。  くちゃっ、と濡れた地面を踏む靴音がして顔をあげると、知っている男が立っていた。 「よう、ひさしぶり。葬式に似合う天気だな」  彼は黒い傘から雨粒を滴らせて、僕を見おろしていた。 「ま、むかしからお前は雨男だったもんな。俺は嫌だね、自分の葬式がこんなに暗いのは」  僕は再びうつむいた。彼のスーツの裾が濡れているのが見えた。その下にある先の尖った革靴は、しわが刻まれて小指のあたりに小さな穴が空いている。 「にしても、あいかわらず隅っこが好きなんだな。そんなところで三角座りなんかしちゃってさ、暗い奴。今日はお前が主役だっていうのに」 「外回りの仕事、してるの?」 「してねぇよ、デスクワークだよ。ってゆうか俺の話聞いてんのかよ」 「靴が、くたびれているから」 「ああ?」  彼はかかとをあげて自分の靴底を確認した。 「お前の葬式に来るだけでわざわざ靴を新調する必要もないだろ。来てやっただけでもありがたく思えよ」  と数珠を僕の目の前に掲げてくる。威圧的な態度は、僕をいじめていた学生時代から変わっていない。 「ちゃんと焼香もあげてきてやったぞ。俺って友達思いのいい奴だよな、こうして最期まで会いに来てやってるんだぜ? お前の親なんか棺桶につっぷして泣いてるだけで、お前がここにいることも知らないじゃん。さすが俺、みたいな」 「ただの腐れ縁だと思うよ。」  僕が呟いた声は、遠くで鳴った雷にかきけされた。もっとも彼は僕の言い分など聞く気もないだろう。  彼は内ポケットから煙草とライターを取り出し火をつけた。 「事故だって? ツイてねぇよなあ、まだ俺たち二十九だぜ」  僕はまた黒い砂地を眺めた。頭上で煙を吐く音がする。 「まあ、お前は永遠の二十九か」  そう言うと彼は腰を低めた。そして僕を検分するかのように細い目がさらに細められたかと思うと、次の瞬間には頬笑みに変わった。 「安心しろ。俺は墓場までお前のこと覚えててやる。俺が出会った人間のなかで、いっちばーん暗い奴って意味でな」  傘から雨粒がぼとぼとと滴り、彼の顔の前を滑り落ちた。そのせいで彼の笑顔は泣き顔に見えた。そして彼は、左手を軽く振って去っていった。  その後ろ姿が見えなくなった頃、遠くないところで風鈴が鳴った。すると今度は知っている女がやってきた。 「なんだ、そんなところにいたの? みんな棺桶で寝てるあんたに話しかけていたのに」  女は腰をかがめて僕に話しかけた。これでもかというくらい胸の谷間を強調したスーツの着こなしで、つやつやに光る唇に細い煙草をくわえている。どう考えても葬式会場にふさわしい格好ではない。 「どうなの、逝く気持ちって? あんたの能面みたいなツラも、少しは歪むのかしらね?」  と僕の顔に煙を吹きかける。生前はそれをされると咳き込んでいたが、今は煙たさも感じない。 「今日はね、清香と来たのよ」 「……そう」  僕の目をのぞきこむように女の顔が近寄った。 「ふん、表情が変わったわね。清香のこと、気になるの?」 「そりゃ気にならないっていうと嘘になるけど」 「未練タラタラなのね」 「何もないよ。会わなくなって十年も経つんだし」 「でも別れようって話はなかったらしいじゃない。急にあんたと連絡とれなくなった、って聞いたわよ」 「そう?」 「噂によると、仕事もしないで引きこもっていたみたいだけど?」 「へぇ? 何だそれ、誰の情報だろうな」 「あんた、ほんとに事故死?」  僕が答えないでいると、女の質問も止んだ。彼女は立ちあがって両腕を上に伸ばし、肩をまわしてポキポキと音をたてた。そして二本目の煙草に火をつけると大きな息を吐いた。 「あの子、遺影の前で号泣してた。今もあんたのこと好きだったりしてね」 「まさか。そんなわけないよ」 「私だってそう思いたいわよ。あの子は必死であんたに尽くしていたけど、あんたは何をしてあげたのよ? しまいには音信不通のあげくに死んじゃうし。ろくでもないわよ。まったく、あんたのどこがそんなに良かったのかしら」 「そうだね。僕のどこをあんなに好きになってくれたんだろう」 「まったくもってその通りだわ。あの子、あんたに愛されている実感とか持てなかったらしいのよ、それでも好きなんだって。そこまで愛される価値があんたにあるとは、私は到底思えないわ。あんたみたいな打っても響かないようなやつに」 「そりゃ僕だってさ、愛していたんだよ。僕なりに、真剣に」 「それ、あの子に言ってあげたことあるわけ?」  僕は女から目を逸らして砂地を眺めた。黒い無数の砂をじっと見ていると無心になれる。少しむこうで、仰向けに倒れた蝉の抜け殻が雨に打たれて惨めな格好をさらしていた。 「ま、いまさら仕方ないけどね。そんなことより、どうして私なんかがあんたに気付いちゃったのかしら? 清香はあんたがここにいることも知らないのに」  さっきも同じような台詞を聞いたな、と思った。 「これは私の勘だけど、清香には今のあんたの姿は見えないわよ」 「そうかな」 「たぶんね。私はあんたを客観視できるけど、あの子はできないもの。あの子にとってのあんたは、あの子の心の中にいるあんたでしかないから。あの子の脳と心がつくりあげた『大好きなコウくん』像を、今でも大事にしているにすぎないのよ。要するに幻想を見続けているのよ。恋愛ってそんなもんでしょ? しかももう二度と会えないわけだから、なおさらきれいな思い出になるわね、幸か不幸か」  雨は小降りになっていた。そしてまた風鈴の音が聞こえた。  くちゃっ。と小さな靴音がした。 「直美、そんなところで何してるの?」  懐かしい声がして顔を上げると、清香がそこにいた。  すらりと細い体型は当時のまま、肩までだった髪は腰まで伸びてゆるくウェーブがかかっている。幼げだった顔立ちは、化粧のせいなのか落ち着きのある大人の顔立ちに変化していた。泣いたあとの潤んだ瞳と赤い鼻先が痛々しくて、しかしどきりとする色気がある。右手に握りしめた白いハンカチで口元を押さえて、彼女は微笑んだ。 「さっきごめんね、いきなり泣き出して。急に、あの頃の感情が戻ってきちゃったの」 「遠慮なんかしなくていいよ。今のうちに泣きたいだけ泣きなって」  直美は煙草の火を消して、清香の肩を抱いた。清香は直美に寄りかかり、唇を震わせて泣いていた。嗚咽を我慢しているような、とても苦しげな表情だった。  やがて彼女は直美を離れ、ゆっくりと僕の前まで近付いた。しっかりと顔を上げて、目を見開いている。まばたきすると大粒の涙が頬を伝うが、その肩は震えてはいない。 「清香」 と僕は立ち上がり、彼女の両肩をそっと抱いた。しかし腕の中で彼女は同じ息遣いのまま、僕に何の反応も示さなかった。 「清香」  僕はもう一度声をかけ、彼女の両瞳をのぞきこんだ。その視線は僕のほうに向けられていたが、瞳は僕をとらえずにずっと遠くを見つめていた。 「ごめん、怒っているよな。いまさら許してもらえないかもしれないけど、連絡ができなかったのは色々な事情があったんだ。でもわかっていてほしい。僕は僕なりに本気で君を愛していたんだ。今だって愛しいと思っている」  彼女の返事はない。  直美が哀しげな表情で首を横に振った。  しばらくして、清香がゆっくりと微笑んだ。 「空に、還っていくんだね。コウくんも、私の気持ちも」  その時、やっと彼女の瞳に映っているものを知った。雨空には黒い煙が立ち昇り、火葬場の煙突からは僕の体が灰となって風に舞っている。  僕はここにいるのに、彼女は僕の死を眺めてきれいに頬笑んでいたのだ。  突然、蝉が一匹ジジジと鳴いたかと思うとすぐに地に落ちた。死骸は砂地に刺さり、柔らかな雨に濡れていた。 「あ」  と清香が声をあげた。 「見て、虹が出ているよ」  雨のあがった空に彼女は晴れやかな表情になった。その優しげな笑顔は、これまで知っている彼女の表情でいちばんきれいだった。  やがて僕の黒煙は消え、葬儀の参列者はそれぞれの人生へと帰っていった。いよいよ僕はひとりだ。この世界に別れを告げて旅に出なければいけないのだろう。 「さようなら」  不安定な空はふたたび泣き出し、雷鳴を響かせて大雨をふらした。  冴えない命だったけれど、この雨模様に僕の死を思い出す人たちがいること。  ありがとう、ございました。  生きていた。僕は、生きていたのに。  叫ぶように雨音はいつまでも鳴りやまなかった。
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