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1 外郎売と悩みと未来
今年の梅雨明けは7月中旬で、全国的に雨が少ないから梅雨となった。
夏の風は湿った空気を伴っていて、太陽の熱に煽られて道路にゆらりと逃げ水を作り出す。
逃げ水は近づくと逃げてしまうけど、逃げてしまわないのはこの半月でガッツリ覚えた『外郎売』のセリフだった。
脳に覚えさせようと思わずに目と口に覚えさせた文言は、自然と耳に入り脳が覚えていく。だけどそれを無理に思い出そうとせずに、口に任せて語り出せば、体が勝手に音声を奏で出す。
「―― 心得たんぽの川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚は走って行けば、やいとを摺むく三里ばかりか、藤沢平塚、大磯がしや、小磯の宿を七つおきして、早天そうそう相州小田原とうちんこう。隠れござらぬ貴賎群衆の、花のお江戸の花ういろう」
喫茶店の上のフロアの練習スタジオ。
レッスン着姿美優の外郎売の暗唱を聞いているのは、パイプ椅子に腰を下ろしている森永さん。
彼もTシャツとジャージ姿。だが、両膝の上に両肘を付きながら、上目遣いに真一文字に閉じた口が、心なしか威圧感を与えてくる
おそらく養成所――基礎科では、こうやって圧をかけてくる講師の目前で、外郎売の暗唱を行うのだろう。
目の前で圧をかけているのが森永さんだからまだ霊性を保ちながら暗唱ができるけど、もしこれが伊坂先生だったらとか、酒井講師だったらとか想像すると、きゅっと気持ちが引き締まる。
伊坂先生だったら少しは緊張してしまいそうだけど、なんとか暗唱できるかな。だけど酒井講師だったら、あの不機嫌そうな表情にガチガチになってしまって、脳内にある外郎売の文言を捻り出すことだけに手一杯になっていただろう。
「―― 息せい引つぱり、東方世界の薬の元〆、薬師如来も上覧あれと。ホホ敬って、ういろうはいらっしゃりませぬか」
全文暗唱し終えて、終わりですとばかりに口を結んだ美優。
対して森永さんは少しの間、じっと上目遣いで美優を見つめていた。
あの、どうでした?
不安で尋ねたい気持ちをぐっと堪えて、美優も森永さんも見据え返す。すると、スタジオに響くのは、森永さんの「はい、オッケーです」の声。
「……たくさん声に出して脳に聞かせ、口に覚えさせた成果がよく出ていたと思います。お疲れ様でした」
「本当ですか! ありがとうございます!」
課題を出されてから一人の時間にプリントを無心で音読し、夢の中でも音読する夢を見たほど声に出した外郎売だ。こうして合格点をもらうことができると天に登るほど嬉しくて、美優は思わず声を跳ねさせた。
森永さんは、みゆうが暗唱している間ずっと同じ姿勢を取っていたためか。椅子から立ち上がるとぐっと背伸びをして体をほぐす。ついでにストレッチの動作で体の節々の筋肉を伸ばすと、先程まで座っていたパイプ椅子をたたみながら告げる。
「養成所でも基礎科は6月中に外郎売やり終えるので、まぁ順調に覚えられたと思いますよ。これ、ここで一ターン唱えていけば養成所のレッスンで口が温まったままでレッスン始められますので、これからも続けていきましょう」
「はいっ」
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