特別レッスン後半戦

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「……できぬと言ったら、貴様はどうする?」  は?  秘書は一瞬、自分の耳を疑ってはっと顔を上げた。  旦那さまは先ほどと一つも変わらぬ表情で、自分を見下ろしている。  なぜ、旦那さまはそんなことを訊くのか。  一縷の望みをかけて頼みに来た、自分を試すようなことを……。  なぜ。なぜ。なぜ!!  数多あるであろう可能性を手繰り、秘書は一つの可能性にたどり着くなりハッと顔を上げた。  もしかしてこの人は、裏であの人と繋がっているのではないか。ならば、今度はわたしの命すら危うい。  この手を汚しても、わたしには救わなければならない人々がいるのに……!  胸の中で怒りと焦りが綯い交ぜになり、秘書は思わず自分の胸ぐらをぎゅうっと掴んだ。  逃げなければ。  秘書はゆっくりと立ち上がると、旦那さまに小さく頭を下げる。   「……今日のところは一旦引きます。けど……」 「けど……?」  問われて、秘書は自然と上がった自分の手のひらに目を落とす。そしてその手をぎゅっと握り込んだ。   「……次に旦那さまにお目にかかることは、ないでしょう」  そう告げて、旦那さまに疑念の目を向けた。  なぜなら、わたしがこの手で先生を葬り去るから。  そしてその時、わたしの命も、尽きるから。  旦那さまの無表情な目線とわたしの目線はしばらく合わさったままだった。  だけどこの勝負、目を逸らした方の負けだ。  しばらく彼の目を見据え続けると、旦那さまは支倉音響監督へと戻り、ふと笑う。  美優もはっと自分に戻った瞬間。   「……はい、いいよ。ありがとう」  支倉音響監督が芝居を止め、続ける。   「藍沢さんさ」 「はい」  名を呼ばれて背筋を正す美優にもたらされたのは、この上なく意外な言葉だった。   「現場の時より上手くなってんね」 「あ、ありがとうございます!!」  お礼を告げて頭を上げた美優の目に飛び込んできたのは、酒井講師のなんとも憮然とした表情だったが。 「これも酒井先生のご指導の賜物でしょうね」  支倉監督にちらと伺われ賞賛された酒井講師は、咳払いをしながら満更でもない表情で咳払いをし、続けた。 「まぁ、藍沢は見学で支倉さんに(しご)かれて、成長したと思いますよ」 「では、お互いが育てたと言う方向で」  支倉音響監督も褒められてにんまりと口角を上げ、その表情のまま美優の方を向いた。   「さっきも言ったけど、ダメ出しは君がダメだということではない。君の伸び代に期待できる思うから出すものである」  二度も伝えてくれると言うことは、今の美優にとって大切なこと。   「っはい」  肝に銘じるように返事をすると、美優の中に清々しさが生まれ出でる。  それは、自分の思い描く以上の演技ができた達成感。  支倉音響監督も満足げに一つ息をつくと、こう言ってくれた。   「掛け合い楽しかったよ。またやろうね」  それはこのクラスで誰ももらえなかった一言。  あたしだけ、また一緒に演技をしたいと言ってもらえたことが嬉しくて。   「っ、はい、ありがとうございます!」  美優は晴れやかに声を跳ねさせた。  この後、豪雨が美優を襲うことも知らずに――。
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