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〔弐〕
里の者はヒト衆もオニ衆も皆、口を揃えて言い放つ。
「トウヤ先生は堅物、変人だ」と。
歳は、おそらく三十前後。ヒト衆にしては身の丈が六尺ほどある美丈夫で、学もあり、土地と家と財を持っている。
多くの美しく若い娘や妖艶な後家さん、衆道の色男などが言い寄ってきたが、興味があるのは薬草の採集と研究だけ。色恋には関心が無いらしい。
当然、遊女であるサキなど歯牙にも掛けてもらえないだろう。
だがサキは、なんとしてもトウヤの子種が欲しかった。
尻を犬に噛まれた、乳に汗かぶれが出来た、客に背中を引っかかれた。
様々な理由をつけてはトウヤの薬屋に通い、色香を振りまいて誘惑したが、患部を診たあと軟膏や熱冷ましや湿布を処方され早々に追い出されるだけ。
こうなればもう、最終手段。
遊女仲間から反対された上に慣れないことで恥ずかしさはあるが、ドジョウとウナギを使うときが来た。
値は張るが精の付くドジョウとウナギ、鶏肉を手に入れ手料理と酒で酔い潰し、夜這いするしか無い。
「はぁ、惚れた男に手料理を振る舞うなんて、生娘みたいな真似があたしに出来るかなぁ。考えると恥ずかしくて角が熱くなるよぅ!」
海近くの市場で、ウナギ売りが担いだ桶を前に照れ臭さからサキは身悶えする。
「よぅ、昼中からウナギ売りの前で興奮してる淫乱女がいると思ったら。なんでぇ、サキじゃねぇか?」
身を乗り出し、真剣に桶中のウナギを選別していたサキに突然、聞き覚えのあるざらついた声が掛かった。
「げっ、アグリ! よりによって、一番嫌なやつに見つかった」
「おいおい、てめぇが世話になってる遊女茶屋、一番の上客に向かって、なんて言い草だ?」
アグリは里の有力者である商家の七男坊で、身形は良いが素行が悪くヒト衆にもオニ衆にも嫌われている遊び人だ。
サキが身を置く遊女茶屋に三日も空けず通い詰め、飲んで騒いで見境なしに女を買った。
金払いは良いが乱暴で、アグリに殴られ蹴られ怪我をした遊女は多い。
しかも暴力を振るわれるのは決まって惨鬼の雌体だ。
ヒト衆の遊女と違い惨鬼の遊女は、乱暴に扱っても怪我をさせても咎められないからだ。
アグリは背後からサキの胸に手を差し入れた。
「ヒヒッ、ウナギかぁ良いねぇ。一番太いのを買ってやるから今夜、おまえがオレの相手をしろよ。一緒にウナギを食ってなぁ……っ、て、何しやがる!」
サキの踵に脛を強打され、アグリは勢いよく後ろに引っくり返った。
「ふん、冗談じゃ無い! アンタに抱かれるくらいなら、獄鬼の餌になる方がましだね!」
「このクソアマッ! 調子に乗るんじゃねぇよ! てめぇ最近、どこぞの薬屋に御執心だってなぁ。てめぇみたいな売女、しかも惨鬼のメスなんざ相手にされるわけねぇだろうが! オレに逆らったら、世話になってる遊女茶屋にいられなくなるぞ? そしたら望み通り、獄鬼相手に股開いて、コトが済んだら喰われりゃいい! 知ってるぜ? 獄鬼はオスしかいねぇんで、惨鬼のメスを孕ませるんだってなぁ? ヒトの児は産めねぇから遊ばれて、獄鬼の児は産めるから苗床にされ。なんとも便利な腹じゃねぇか?」
嘲りながら下品に口元を歪ませて笑うアグリに、サキの中で抑えきれない怒りが湧き上がる。
「獄鬼は、あたしが皆殺しにする……あいつらを、ぜんぶ殺して敵を討つんだ」
「はぁ?」
一瞬、呆けた声を漏らしたアグリは、次の瞬間大声で笑い出した。
「ハッハハハッ! なに、寝ぼけたこと言ってやがる? 身体ばかりでかいウスノロ惨鬼のメスが、どうやって極悪残忍な獄鬼を殺せるって言うんだ?」
アグリに煽られ、サキは鼻を鳴らす。
「ふふん! あたしら仲間内の噂だけど、あるところで遊女の惨鬼がヒト衆の児を産んだって話があるのさ。その混ざり児は、獄鬼を一捻りで殺せるヒト衆の知恵と惨鬼の力を持つそうだ。だからあたしもヒト衆の児をたくさん産み育て、いつか獄鬼を……」
「なるほど、それで薬屋の先生のところに通ってるのかい? しかしなぁ、そもそも惨鬼とヒト衆じゃあ、児は出来ねぇ。万が一、出来たとしてもヒョロッと頼りない奴の子種が強い児になるかねぇ? どうでぇ? その混ざり児とやら、いますぐオレが仕込んでやろうじゃねぇか。オレの子種なら、よほど強い児が出来るだろうよ。惨鬼のメスが裸に剥かれようと、誰も助けちゃくれねえからなぁ!」
アグリはサキを土の上に押し倒すと、腹にのし掛かる。サキは力尽くで押し退けようとしたが、ここでアグリに恥をかかせると世話になっている遊女茶屋の女主人や仲間が酷い目に遭うに違いなかった。
騒ぎを聞きつけ市場の通りに人が集まりだしていた。しかし誰も、サキを助けようとする者はいない。
ヒト衆に比べ頭は鈍いが、惨鬼であろうと自尊心も羞恥心もある。そして思いやりも、自己犠牲の心も。
着物の胸元が開けられ、目の前にアグリの顔が近付く。
なんでも無い、いつものことだ。仲間に迷惑を掛けるくらいなら、ここは我慢しよう。
サキは覚悟を決め、唇を強く噛み目をつぶった。
ところが突然、ふっと腹の上に乗っていた石のような重さが取り除かれた。
「オニ衆だからといって、侮辱や乱暴が許されるわけが無い。おまえのように性根が腐った下劣な男は、獄鬼以下だな」
恐る恐るサキは目を開け、声のした方を見た。
そこには大きな荷物を左手に抱えながら、右手で軽々とアグリを持ち上げるトウヤの姿があった。
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