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〔肆〕
『馬鹿』とは、少し言い過ぎたかもしれない。
日が暮れ、賑やかになってきた遊女茶屋の控え間でサキは、いままで経験した事の無い暗い気持ちを持て余していた。
惨鬼の雌体が獄鬼の住処で、どのように扱われるか知るのは一部の売人だけだった。真実が公になれば、雌体の売り買いを躊躇う者が出るからだろう。
サキにはよく解らないが、身分が上の人にも真実を知る人がいる気がする。なぜなら時折、島に取引にくる船に不相応の身なりをした武人が同行していたからだ。
トウヤは売人でも身分上位者でも無い。真実を知らなくて当然だ。
自分を助けてくれたトウヤにサキは一目惚れしていた。力ある混ざり児はサキの悲願であったが、その児がトウヤの児なら、どれだけ幸せであろうと夢見た。
トウヤは優しい。それに、柔らかく脆いヒト衆の身体に比べ、逞しく筋肉質で背も高い。低く通る声は耳に心地よく、何しろ一番に顔が良い。風になびく髪はさらさらと……。
トウヤの面影にうっとり浸っていたサキは、我に返ると大きく溜息を吐いた。
「馬鹿は、あたしかぁ。そうだよね、敵討ちなんか出来るはず無いないよね。あたし達はヒト衆に使われるおかげで綺麗な着物を着て、雨風をしのげる家の暖かい布団で寝られて、腹一杯のご飯が食べられて……」
サキの頭の中に、アグリの言葉が蘇る。
「ヒト衆には遊ばれ、獄鬼には苗床にさせられ……か。いままで考えた事無かったけど、なんか、嫌な気持ちだなぁ」
再びサキの頬に、大粒の涙が流れた。
「あぁ、ダメダメ。こんな辛気くさい顔じゃ、お客が驚いちゃうよ。お化粧直さないとね」
気を取り直しサキが鏡台の前に座ると、誰かの影が行燈の明かりを遮った。
「ちょっと、明かりが無きゃ化粧が直せないよ。誰……っ?」
振り向こうとしたサキは、いきなり口を手拭いで塞がれ、抗う間もなく何人かの男に荒縄で手早く縛り上げられた。耳に生暖かく煙草臭い息が掛かり、ざらざらとした声がささやく。
「へへっ、もうおまえに化粧はいらねぇよ。なんせ、お相手は獄鬼だからなぁ!」
その声は、紛れもないアグリの声だった。
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