逆傘(さかさ)

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窓から垂れ落ちる無数の雨粒でできた筋道は、2股にも3股にも帰途を変え、最後にははるか直下のアスファルトに叩きつけられる。 果たして雨粒に痛みはあるのだろうか? 視界の端で捉えた幻想に哲学的な現実逃避行を膨らましながら、男はパソコンの前に張り付いていた。 「来た!」 ピコンというデジタル音を伴った一通のメールの到着は、雨音さえシャットアウトされた密室の中によく響き、膝小僧のすぐ下をトンカチで軽く叩いたかのごとく男は反射的にメールの文章に目を這わせた。 『事情はお察し致しましたが、できれば直接お会いしてお話をさせていただきたいと思います。ご了承いただけるのであれば、Aさまの住いの近くにビブライトというマンションがございます。そちらの202号室にお越しいただけますか?』 やや業務的なメール内容に男は幾何の疑問を感じたものの、メールの内容は暗雲立ち込める自分の未来に少しだけ光明の兆しを垣間見せるもので、男はすぐに返信した。 「今すぐ伺います」 ~逆傘~ ことの発端は一月ほど前に遡る。 天気予報にない突発的な風雨に見舞われた男は、近くのコンビニに逃げ込んで一本の傘を買った。 どこにでもある何の変哲もない500円均一の安いものだ。 透明なフィルムに銀色の金具が取り付けられた頼りなさげなその傘は、見た目に反して力強く雨粒を跳ね返し、男は満足げに家路についたのだが、その恩恵に裏切られたのが翌日の早朝のことである。 太陽の西日にうなされ、まどろみの中で憂い気に眺めた外の景色は、男にとっては初めてのことだった。 雲ひとつない快晴の広がる景色のはずなのに、何故か男の家の周囲だけ雨が降っている。 「妙な天気だな」 正直、この時の男は短絡的に考えていた。 『まぁそんな日もあるだろう』と・・・。 だが、昼過ぎに飯でも食いに行こうと部屋を出た時、事は起こった。 「なんだよ、これ?」 驚嘆の声を上げるの男の頭上には、先ほどからしつこい雨を降らしていた雨雲があり、それはまるで紐で括られているかのように男の後を追ってきた。 「な、なんなんだよ!!」 急に恐ろしくなった男は雨雲から逃れるように懸命に走ったが、糊付けされた画用紙のように雨雲は常に男の頭上を漂い続け、静かにパラパラと雨粒を落とし続ける。 男は自分が悪い夢でもみているのかと、正気を疑ったが、四肢を濡らす雨粒の冷たさは異を唱える。 「す、すみません。あ、雨が追いかけてくるんです・・・」 情けなくも街行く見知らぬ人に助けを求める男だったが、皆の回答は一様に同じで、『一体なんの話をしているんだ?』と憐みの視線を向けられた。 そして、男はようやく気付いた。 雨雲は自分にしか見えていないことに・・・。 恐怖に駆られた男は自室で塞ぎ込み、普段は見向きもしなかった幽霊や宇宙人などを扱うB級掲示板に自分の身に起きていることを書きなぐった。 「雨に後を追われている。誰か助けてくれ」 しかし、大半のコメントは男を茶化すようなものばかりで、まともに取り合おうとする者はいない。 それでも、根気強く質問を続ける男に、たった一人だけ。 「もしかしたらお役に立てるかもしれません」という書き込みを残し、ダイレクトメールで連絡先が送るものが現れたのだった・・・。 「あった・・・。ここだ」 立て看板にビブライトと書かれたマンションはくすんだ灰色が特徴の3階建てで、エレベーターは無し。 男は神にすがるように、螺旋を巻いた階段を駆け上がり、表札のない202と書かれた部屋のブザーを鳴らした。 「あの。先程メールしたAです」 はやる気持ちを抑えて静かに反応を待つ男だが、一向に返事はなく、それどころか人のいる気配も感じられない。 焦った男は叩くようにブザーを連打し、異常を感じた隣の部屋の人間が小窓越しに男に声を掛けた。 「なにしてんの?そこ。誰もすんじゃいないよ」 「え・・・?」 男は、その時ようやく自分が騙された可能性に行きついた。 全国津々浦々の人間が利用する掲示板で相談に連絡先を交換した相手が、たまたま家の近くに住んでいるなんてことは普通はありえない。 男は身に降りかかった空前絶後の怪奇現象に自分が冷静な判断ができなくなっていることに気がついた。 「なんか知らないけど、うるさいからもうピンポンおさないでね!」 隣の住人は迷惑そうな顔をしたまま小窓を閉め、男はどっと疲れを感じた。 助かるかもしれないと言う希望的観測を失って深いため息を漏らすと、誰もすんでいないはずの202号室のドアがギイイという音を立てて開いた。 「どうぞ」 「は?」 半開きになった202号室のドアには一人の女性が立っていた。 「あの、あなたがメールをくれた方ですか?」 「ええ。そうよ。立ち話もなんですし、中にどうぞ?」 『なんだよ・・・。人が住んでるじゃないか・・・』 男は隣の部屋に睨みを聞かせたが、件の男はすでに部屋の中。 なんて野郎だと苦い顔をしていると、心配そうに女が尋ねた。 「どうかしました?」 「あ。いえ、なんでもないです」 男は女の後を追って部屋に入ると、すぐに違和感を感じた。 大きな本棚で部屋を囲うように作られたその間取りは、大部屋が一つあるだけで他には一切の部屋がなく、風呂もなければトイレもない。 さしずめそれは、人が住む場所というよりは事務所のようで、男は当惑した。 「ここは、仕事場・・・ですか?」 「あぁ・・・。まぁ、そんなところです」 あいまいな返事に男は女に対する懐疑心が生まれたが、解決策を知るかもしれない相手に嫌な顔は見せられない。 常に作られた笑顔を張り付け、部屋の中を見回すと、ある疑問が生まれた。 『大きすぎないか・・・?この部屋』 本棚が周囲を囲うことで、妙な閉塞感が生まれているものの、確かにその部屋はどう考えてもマンションの外からは考えられないほどの大きさがある。 部屋の異常性に気づいた男の顔色はみるみる青くなり、助けを乞うように女に視線を向けると、女は静かに言った。 「まぁ。とりあえず、おかけください」 ・・・ ・・ ・ 小さな食卓用テーブルをはさんで女と向かい、短い会話を済ませた後に男は状況を整理していた。 自称怪奇現象の専門家。 女は自分をそう名乗り、律儀にも名刺を差し出してきた。 「怪奇現象?」 「はい。怪奇現象です」 そんな馬鹿なとは、既に言えない身分となった男は女の話に真摯に耳を傾けた。 「怪奇現象と一言で言っても実態は様々です。魑魅魍魎のたぐいもありますし、超常現象をそう呼ぶこともあります。たとえば、この部屋も怪奇現象の一種で『二重錠』といいます。特殊なカギでのみ開錠ができ、世界中のありとあらゆる202号室へと繋がります。ちなみに部屋の大きさも二十畳です」 二十錠と二重畳が欠けてあるとはなんともばかげた話だと男は思ったが、女の説明によれば言葉には力があり、駄洒落めいた怪奇現象に意味があるとのことであった。 「それじゃあ、私の怪奇現象は一体何が原因なのでしょう?」 「・・・それですよ」 女は細く長い指を突き刺し、男がその先をたどって行くとそこには男が先日コンビニで買った傘があった。 「え?これですか?」 「ええ。そうです」 女はポケットからライターを取り出し、男に傘を机の上に置くよう指示を出すと、火でビニール部分を炙り始めた。 「・・・燃えない」 「はい。怪奇現象というのは実態はあるけど存在はしないものなのです。そのため、物理的にこの傘を破壊する方法はありませんし、もちろん捨てても雨は止みません」 「そんな・・・。じゃあ、一体どうしたら・・・」 「解決方法がないわけではないです」 「本当ですか!?」 「はい。ですが、そのためにもまず、この傘の正体を説明します」 女の説明は非常にわかりやすいもので、男の買った傘の正体とは『逆傘』。 逆転する傘と書いて『さかさ』と呼んだ。 「本来、傘というものは、雨露を防ぐために使用するのですが、この傘の怪奇現象はその性質を文字通り逆転させます。自分の存在を誇示し、自分を使ってくれと望むが故、この傘は使用者に止まない雨を降らせるのです」 「なんてはた迷惑な・・・」 承認欲求の塊のような傘に男は辟易した様子で、旧年来の彼女が別れないでくれと泣きついてくるような薄気味悪さを感じた。 「ちなみに、Aさんはこちらの傘をどこで手に入れました?」 「近くのコンビニで買ったんです」 「・・・買った?」 常に無表情だった女が、突然眉を顰めていぶかし気な視線を向けたことで、男はしどろもどろになった。 「えぇ、買いましたよ。ほ、ほんとうです」 「・・・。Aさん、私はあなたを助けるためにわざわざ時間を割いてこうして講義を行っているわけですが、あなたがそこに恩義を感じないのであれば、この話はもう終わりです」 女が断固たる口調で席を立とうとすると、焦ったすぐに男は真実を告げた。 「す、すみません!本当は盗みました!」 男が額を机にこすり合わせると、女は少しだけ空を仰いでから静かに席に着いた。 「続けてください」 「あ、ありがとうございます」 男は女が機嫌を直してくれたことに安堵し、当時を回想しながらぽつぽつと言葉を発した。 「その日は、天気予報にもない突発的な雨だったんです。ちょっと降り始めたなーと思っていたらいきなりバケツをひっくり返したみたいな強烈な雨に変わって、すぐに近くのコンビニに逃げ込みました。それで、店内で少し時間をつぶしてみたんですけど、一向に雨が止まなくて、仕方なしに傘を買おうと思ったら傘まで売り切れてたんです。途方に暮れ、アーケード下で雨を見ていたら、視界の端の傘立てに1本傘があることに気づいてしまって・・・」 「それで盗んだと?」 「はい・・・」 説明を終えた男はチラリと女に目をやると、女は手に頬をつき、何か考え事をしているようだった。 「ふむ。どうやらあなたは罠に嵌められたようですね・・・」 「はい?」 男はてっきり責め立てられるものだと思っていたのに、意外にも女の反応は同情的だった為、頭にクエスチョンマークが浮かんだ。 「・・・どういうことですか?私は傘を盗んだんですよ?」 「まぁ。普通はそう考えますね。でも、この傘は怪奇現象を引き起こす『逆傘』だということを思い出してください」 「?」 女の言っている意味が男には理解できず、小首をかしげると、女は物わかりの悪い生徒を見るような目つきになった。 「はぁ・・・。こうは考えられませんか?傘を盗・ま・さ・せ・ら・れ・た、と」 「・・・盗まさせられた?」 「そうです。これから説明するのは解決方法の一つでもあるんですが、この逆傘は譲渡はすることができます。相手の意思によって」 逆傘は物理的に破壊することはできなくても、相手が望めば譲渡ができる。 その事実を知った男は、必然的にある答えにたどり着いた。 「あ!」 「そうです。気づいたでしょう?どう考えてもできすぎなんですよ。突然降り始めた雨に売り切れになった傘。そこに、どうぞ持って行ってくださいとこれ見よがしに置いてあった一本の傘」 「くそっ!」 人の悪意にさらされた男の視界はぐにゃりと傾き、机を強く叩いた。 「犯人は雨が降った直後にコンビニに入って、きっと雑誌でも読みながら待っていたに違いない。俺が傘を盗むその時を・・・!!」 「でしょうね。逆傘は持ち主から離れることは絶対にしませんが、持ち主が変われば別です。自分を率先して必要としてくれる相手についていくんです」 天罰が下ったのだと、半ばそう思っていた男はそれが仕組まれた事実であったことに憤慨し、同時にあることに気がついた。 「じゃ、じゃあ。もし、私が誰かに傘を『譲渡』すればこの雨は収まるんですか?」 もはや自分は被害者である。 そんな感情が男にさらなる被害者を生み出すように働きかける。 「褒められた方法ではありませんが、お察しの通りです。ただ、私はこれでも専門家ですから、傘を鎮める平和的術も持っています」 「ああ。なんだ。だったら、お願いしますよ!」 「Aさん。相談料は無料ですが、ここからはビジネスです」 女は親指と人差し指で輪を作り、男の前に突き付けた。 「お、おいくらですか?」 「そうですね・・・。このレベルの怪奇現象であれば、このぐらいが相場でしょうか?」 女はポケットから電卓を取り出し、軽快に指を弾かせると、そこにはずらりと0が並んだ。 「300万!?」 「はい。出血大サービスです」 高すぎると、男は素直にそう思った。 それこそ無料で手放す方法を知った今ならなおさらである。 「わ、わかりました。銀行に行ってお金をおろしてきますので、少し待っていただけますか?」 「・・・。そうですか。期待しないで待っています」 女はあからさまに落胆の色を見せ、男が金を持ってこないことを確信していた。 しかし、事実逃げるようにアパートを後にした男も300万もの大金を払う気など無く、向かった先は銀行ではなく最寄り駅だった。 「ごめん。だけど、俺だって被害者なんだ・・・」 贖罪の言葉はそのうち現れるであろう盗人に向けて。 男はアケード先のベンチにそっと逆傘を忍ばせ、距離を取ってから雨を待った。 天気予報は午後から雨を予期しており、さして待つことも無く男の求めていたシチュエーションは整った。 曇天が広がり、視界の僅か数メートルを大雨がかき消す。 そして、降り積もる雨に不安そうな顔で覗き見る一人の少女の姿。 行き場をなくした少女は、アーケードの周りをしばらくうろちょろしていたが、ほどなくしてベンチに掛けられた1本の傘に気づいたようだった。 「そうだ。それを使え・・・」 女の子は周囲をキョロキョロとし始め、明らかに挙動不審な様子。 きっと脳内では傘を盗むかどうか、天使と悪魔が言い争いをしているのだと男は確信していた。 そうこうしているうちにも雨は勢いは増すばかりで、結局運命のルーレットは悪魔に軍配が上がったようだった。 少女は意を決したように傘を手にかけ・・・ そして、どういうわけか駅構内へと戻ってきた。 「これ、あそこのベンチに掛かってました」 「ああ。そうですか!わざわざありがとうございます」 すべては男の勘違いであった。 少女が悩んでいたのは傘を盗むかどうかではなく、持ち主が戻ってくることを心配して駅員に傘を預けるかどうかを悩んでいたのだった。 小さな笑顔を振りまいて善行を行った少女は、雨に濡れることに意にも介さずアーケードの先へ駆けて行った。 最も近くでその光景を目の当たりにしていた男は自嘲気味に自分を笑った後、駅員に声を掛け傘を回収して、銀行へと舵を切った。 「300万です」 「・・・。正直戻らないと思っていました」 「ふっ。私もです」 一切気を使わない女の言動が面白く、笑みを浮かべる男の表情は、先ほどの少女の笑顔とよく似ている。 終始無表情を貫いていた女はこの時、初めて優しい顔をした。 「気が変わりました。お金は結構です」 「え!?いや、そんな、もらってください。正当な対価ですから」 「気にしないでください。あなたが女の子の優しさに感化されたように、私はあなたの優しさに感化されたようです」 「見ていたんですか!?」 男の質問に女は変哲な形をした双眼鏡を取り出し、悪びれることなく答えた。 「これは『想願鏡(そうがんきょう)』といいます。いわゆる双眼鏡とは違い、遠くを見通すわけではなく、今、私が見たいものを見せてくれます」 「・・・いろいろあるんですねぇ」 逆傘に二重錠に想願鏡。 世の中には様々な怪奇現象があるようで、この部屋にもまだまだ未開の品が眠っているらしい。 男はすでに怪奇現象に対する負の感情を失っていた。 「ものは使いようです。この子たちも皆一様に、負の側面を持っていますが、怪奇現象を律し、怪奇現象受け入れることでプラスにも転じます」 果たして誰にも見えない雨を自由自在に降らせることに、どんな恩恵があるのかは男には見当も付かなかったが、なんとなく一つの感情が生まれた。 「あの・・・。それは、私にもできますか?」 「修業を積めばあるいは」 「じゃ、じゃあ。弟子を取る予定なんてありませんか?」 「まだるっこしいのは好きじゃありません」 男は一つ深呼吸をし、息を整えてから再度願いを口にした。 「私を弟子にしてください!」 「わかりました。これからよろしくお願いします」 こうして、男は怪奇現象専門家という数奇な世界へ足を踏み出したわけなのだが、いまだ判明していない疑問も一つ存在する。 はたして、一体だれが男に逆傘を盗ませたのか・・・? その答えはきっと、そっと口角を持ち上げた女にこそあるのかもしれない・・・
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