場面一 雨の朝(一)

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場面一 雨の朝(一)

 目を覚ますと、ぽつぽつと、軒に雨が当たる軽い音が耳に入った。  ………雨か。  褥の中、伊藤仁斎は小さくため息をついたが、すぐに気を取り直して半身を起こした。軽く伸びをする。 「んー」 「おはよう」  ぐっと背を反らして上方を仰いだ視界に、廊下から声をかけた男の姿が映る。  細身の身体に深藍の表着をつけた着流し姿の男は、名を山崎闇斎という。年齢は四十三歳。仁斎よりも九歳年長の市井の儒者である。一応、仁斎も儒の道を志してはいるが、実績と言えるようなものはまだない。それに対して、闇斎の方は、京では既に多くの門弟を抱えて私塾を開いており、本も出版し、更に江戸へも下って大名の知遇も得ている。年齢差以上に先輩格と言っていい。 「おはよ」  伸びをしたまま、仁斎は応える。余りにも無造作な態度にやや呆れたのか、闇斎は普段から厳しい眼差しをやや緩め、わずかに苦笑を浮かべたが、とがめ立てはしなかった。 「雨やな」  さらりと言う。仁斎は伸びをしていた腕を降ろした。 「残念や」  実は今日、晴れていたら御室に桜を観に行く予定だった。晩春三月、うららかな日差しの下、京の町は花で溢れている。 「まあ、仕方ないな」  さほど残念そうでもなく闇斎は応え、踵を返そうとする。「闇斎はん」と、仁斎は男を呼び止めた。闇斎は足を止める。 「明日はどうなん」 「明日は―――昼に書肆に本を受け取りに行こうと思うてるが」  闇斎は表情を変えずに言った。 「何か注文してた本届いたん」 「いや、頼んでいた本が刷り上がる」 「あんたはんが書かはった本か。こないだ直してた、武王についての話?」 「おまえ―――」  闇斎は呆れた顔をする。 「湯武のこと書いてたんは先月も終わりの話や。そないにすぐ文章が出来上がって本が刷り上がると思うんか」 「………」  言われてみればそうだ。 「おまえも儒の道で生きるんやったら、いずれ思うところはきちんと文章にして広く世に問え。身内で回して、あれこれ言うてるようではいかん」  言い捨てて、闇斎は踵を返して行ってしまう。朝っぱらからまた説教されてしまった。相変わらずの態度に仁斎は苦笑して、寝起きのざらざらした頬を掻く。  「おまえも儒の道で生きるんやったら」―――個人的に学問をする者としてではなく、「儒者」としての仁斎をはっきりと認めてくれたのは闇斎が初めてで、それは未だに仁斎にとっては大きな心の支えだ。  ただ―――  それで結局、明日の予定はどうなのだろうか。明日晴れたら、花見に付き合ってくれるのか。それとも、本を取りに行ったり書を読んだりで一日予定が詰まっているのか。「儒者としての文筆及び出版心得」よりも、今はとりあえずそちらの方が重要なのだが。  花見など、雨で流れたらそれはそれでいい、ぐらいに思っているのだろうか。だとすれば、さすがに少しばかり淋しい。  私塾を主宰し、書肆との付き合いもあり、評判を聞いたり他人の紹介を受けたりで地方から人が訪ねてくればそれも応対する。そして今月の末には江戸へ下り、広く大名や江戸の人々に儒の道を説くとのことだから、その準備もあるだろう。三年前、初めて江戸へ下った闇斎は、たちまち大名の知遇を得た。賓師として、様々な人々を相手に講義を行い、秋に京に戻ってきた。昨年も同様に春に江戸に下って秋に戻っており、今年は三回目の江戸行きになる。気鋭の儒者「闇斎先生」は相当にご多忙だ。  恐らく今年も、江戸から戻るのは秋になる予定だという。闇斎が江戸へ発つなら、仁斎も自分の仮寓へ戻る事になる。  あと、十日ほどしか一緒におられへんのやな。  その事実に思い当たって、仁斎は小さく吐息を漏らした。           ※
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