場面五 花盛りの庭(三)

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場面五 花盛りの庭(三)

「闇斎はん」  ぎゅっと腕の力を強めて、優しい声が名を呼んだ。 「もっと早う、ちょっとでも気ぃ楽にしてあげられたかもしれんのかなて」  耳元で囁かれて、どきりとする。計算なのか、自然なのか、この男は人の虚を衝くのが巧い。 「そない言うんも図々しいけど」  それだけ言って、仁斎は腕を解いた。 「今更や。おまえは最初から図々しかった」 「せやな」  憎まれ口もあっさり認めるから本当に憎らしい。開き直るのもいい加減にしろ。  腕を取ろうとするのを振り払い、闇斎はまたゆっくりと歩き出す。仁斎も、何がそんなに楽しいのか、相変わらず上機嫌な様子で肩を並べる。 「午から村上はんに用あるんやろ? ゆっくり歩いて洛中戻ろか」  書肆の村上平楽寺は京洛の東側、東洞院通りにあるから、闇斎の邸を越えて更に歩くことになる。 「今の時期、京はどこも花で一杯や。どれだけ歩いても楽しい」 「仁斎」  門へ足を向けながら、闇斎は言った。 「妙心寺を回って戻ってもええか」  仁斎はにこりと笑った。 「ええよ。あんたはんの古巣やな」  土佐に発つ前、十九歳までの四年間を過ごした妙心寺は、臨済宗妙心寺派の総本山で、広大な寺域を誇る壮大な寺だ。絶蔵主と名乗っていた若い頃の闇斎には、己れを押しつぶそうとする巨大な重しにも、閉じ込めようとする非情な檻にも思えた。  修行だと思って耐えていたあの時間を、今なら違った気持ちで思い返すことが出来るような気がする。  あんたはんの古巣やな、と軽い口調で応じた仁斎は、そんな闇斎の思いに気づいているかどうか。 「闇斎はん」  軽い口調で呼びかけられ、闇斎はぶっきらぼうに応じた。 「何や」 「好き」 「………うるさい」  闇斎はため息をつき、それから、つい小さく笑った。  この男の呑気な顔を見ていると、色々どうでもよくなる。なるようになれだ。花見のついでだし、とにかく、行ってみよう。  そう思ったのを見計らったように、軽く握ってきた仁斎の温かな手を、闇斎はしばらく振りほどけずにいた。 (了)
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