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場面一 雨の朝(二)
万治三年(一六六〇年)晩春三月初め。
伊藤仁斎は、洛中堀川通の西側、山崎闇斎の邸にいる。
仁斎の実家と仮寓は、堀川の東向かいにあるのだが、今は闇斎の邸に住み込んでいる。
およそ半年前のことだ。
九月のさやかな月の下をそぞろ歩いていた仁斎は、遠くから尊敬の念を抱いていた、ある意味、恩人といってもいい先輩儒者、山崎闇斎の思いがけない姿に遭遇した。
『誰や』
仁斎を睨む鋭い眼差しは、まるで手負いの獣のそれのように、警戒心を剥き出しに、威嚇しながら怯えていた。
あの夜、闇斎は門下として道を説いていた弟子たちに、その身を犯された。
仁斎はその時のことを詳しく尋ねてはいない。ただ、前々から尊敬していた儒の先輩が、心身に深い傷を負いながらも、必死に己れを保とうとするのを見て、放ってはおけなかった。
性的な暴力を受けるのは、初めてではないと闇斎は言った。二十代前半までを寺で過ごした闇斎は、兄弟子たちからその種の暴力を散々に受けたらしい。だが、根っからの教育者で、啓蒙家でもあるこの男にとって、厳粛で尊いものであるはずの師弟の交わりを、暴行という形で一方的に踏みにじられた苦痛と混乱は、それよりもずっと深かっただろう。
何でや―――と、悲痛な声で仁斎の胸に問いを投げた年上の儒者を、ただ受けとめることしか、その時には出来なかった。
ただひたすらに道を求め、道を究め、道を説く儒者闇斎は、近づくことを拒む険峻な山のようにも、ひたすらに高処を目指す鳥のようにも思えた。惹きつけられるほどに遙かに遠く、下手に手を触れればこちらが傷を負いそうなほど鋭い。
鮮烈なその魂に、抗いがたく仁斎は惹かれた。そして、心から愛しいと思った。
この男に、恋をした。
それが、錦繍の山々も目にも鮮やかな秋の頃だった。
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