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場面二 腕の中の想い人(一)
「闇斎はん」
闇斎が紙から筆を上げるのを待って、仁斎は声をかけた。
相変わらず、軒端からは春の雨が細く滴っている。
闇斎は筆を置き、顔を向けた。
「何や」
闇斎の顔立ちはもともと端整だが、その立ち居振る舞いもまた、箸の上げ下ろし一つ、筆の運び一つとってみても、何かの型に則ったように整って美しい。朝餉を終えた今は、深藍の表着に卯花色の袴をきちんと着けている。
仁斎は元が商人なので、袴は着けない。青竹色の着流し姿である。
「それで、明日はどないなん」
闇斎は軽く息を吐き出す。
「この様子では、明日も晴れるか判らんな」
「天気の話やのうて、うち、あんたはんの明日の予定を聞きたいんやけど」
そう言ってじっと見つめると、いつも真っ直ぐな眼差しが、わずかに逸れた。短い沈黙があって、闇斎はやや早口に言った。
「明日やる予定やったことは今片付けてる。村上にも刻限までは言うてへんし………晴れるかは判らんが、とにかく空けられるようにはしておく」
「―――」
ちょっと胸に来た。
敵んなあ、と思うのはこういう時だ。
年上の儒者は大抵仏頂面で、愛想などカケラもない。慣れていないと、迷惑なのかと勘ぐりたくもなる。ちなみに「村上」とは、書肆業を営む村上平楽寺のことだ。
だがその不器用な感情表現に気づいてしまえば、その不機嫌な顔がなおさら愛しい。
気がすんだかとばかりに文机に向き直ろうとする背を、後ろからふわりと抱きしめる。
「………こら」
「おおきに。嬉しい」
「約束したやろ」
「うん」
頬に軽く唇を触れると、また小さく「こら」と言ったが、それほど緊張してはいないらしい。
闇斎はもともと、肌が触れることにひどく神経質な面があった。
初めて唇を重ねたのは錦繍の頃だったから、もう半年近く前のことになる。だが未だに不意に肌が触れ合った時などに、反射的に身を固くすることがあるのは、散々に蹂躙されたという古い記憶や、半年前の辛い体験が甦るからなのだろうか。
治りきっていない心の傷を抉るような愛し方はしたくはない。だが、その傷を癒す術を仁斎は知らない。物慣れない様子の年上の儒者の姿は新鮮で、一層愛おしくもあるが、恐怖を必死で押さえ込んでいるのだとしたら、どうにも痛ましいというしかない。
『仁斎』
夜ごとの悪夢に怯え、時に温もりを求めるように褥で身を寄せてくる闇斎を抱くのは、その気になればいつでも出来た。この男もまた、逆らいはしなかっただろうと思う。
だが、仁斎はただ傍らに寝ることを続けた。ただ話をしたり、寄り添ったり抱きしめたりしながら。そうやって年が改まり、氷が溶け水が温み、この男を脅かす夢魔が、明け方の月のように薄れてゆくのを待った。
そしてそれをやめてあてがわれた部屋で寝るようになって、そろそろひと月になる。
腕の中で、想い人は今、寛いだ様子で身体を預けている。一冬かけてここまできた感がある。
正直に言えば―――仁斎はこの男を丸ごと欲しいわけで、我ながら回りくどいことをしているとは思う。もう少し時間があればよかったのだが、この調子では、このまま江戸に発つ闇斎を見送ることになるのではないだろうか。まあ気持ちは確かめあっているし、特に不安というのではないから、それはそれで致し方ないとも思うが。
だがしかし、多少もどかしくはある。恋する男としては。
「………あと半月か………」
ついぽつりと、そんな言葉が洩れた。言ってから、少しばかり慌てた。
「あ、いや」
闇斎は黙っていたが、自分を抱きしめている仁斎の手に、不意に自分の手のひらを重ねた。
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