雨は君を象る

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雨は君を象る

 すっかりと梅雨空となった六月十五日。俺はまだ雨が降っていないことを確認してランニングに出かけたのもつかの間、空があからさまに暗くなってきた。俺は途中で引き返すことにした。頼むから家に着くまではやんでいてくれ、俺は空に向かって願った。しかし、ややもすると雨は俺の願いを無視して容赦なく降り出してきた。 気分は最悪だ。雨脚はたちまち強まり、舗装していない道路にはすでにいくつもの水たまりができていた。俺のスニーカーは雨を吸って泥をくっつけ、走るたびに汚れていった。体にまとわりつく服、びしょびしょに濡れた靴下と靴。体中にしたたる雨。とにかく不快だった。 「゛ああ、もうっ」 どうせ汚れたスニーカーだ。俺は目の前にあった水たまりを思いっきり蹴った。 「きゃっ」 どこかから甲高い悲鳴が聞こえた。俺は驚き、戸惑い、そして不審に思い周りを見渡す。 「ここですよ、ここ」 声のする方に向くと、先ほど蹴り上げた泥によって輪郭の縁取られた透明な少女?がいた。 「もう、いきなり泥をかけるなんて失礼ですよ」 透明な少女は怒っているらしい。しかしながら顔も体も見えず、ただ輪郭のみ見えている状態なのでひどく不気味ではあるが。 「ごめん、悪かった。でも見えてないものは避けられないだろ」 そもそも俺は、目の前に誰かがいると知っていながら泥をかけるほどひどい人間ではない。 「あっ、そうか。この状態だと見えないのか」 透明な少女は一人で納得したようなそぶりを見せ、そして体に少しずつ色がついてきた。しばらくすると緑色の透明な体になった。 「これで見えるでしょ」 「ああ、やっと見えた」 そこにいたのは少女のようであった。 「私は雨の精霊、レイニー。よろしくね」  この出会いが今年の梅雨を変えた。 *** 「それで、どうして精霊なんかがこんなところにいるんだ?」 俺はびしょ濡れになりながらも帰宅し、シャワーを浴びて服を着替えた。雨の精霊と名乗ったレイニーは俺の跡をついてきた。精霊の方はというとどうやら自浄作用があるらしく、家に着く頃にはすっかりときれいになっていた。 「なんで?って聞かれても、雨が降ったからとしか答えられないよ」 どうやら彼女の体は雨の力を受けてできているらしく、雨の日にしか存在できないとのことだった。 「あと、なんで俺についてきたんだ?」 「すごく失礼ね。ついてきてはいけなかったの?」 「いや、そういうわけじゃないけど」 まあ今日は大して予定もないし、ついてこられて困ると言うことでもないけど。 「自分の役割を果たすため。それが答えかな」 そう言われてもよくわからない。そもそも雨の精霊の役割って何だ? 「実はね、私にはとある能力があるの。私はね、雨で気分が優れない人のために、一つだけいいことを起こしてあげることができるの」 「例えばどういったことができるんだ?」 雨で気分が優れないというのはまさに俺に当てはまる。ということは俺もなにかいいことを起こしてもらえるってことか。 「例えばね、よいしょ、こんな感じにね」 そういってレイニーは泥に汚れたスニーカーを持ち上げた。するとだんだんと汚れが消えていく。 「ほら、きれいになったでしょ」 たしかにスニーカーの泥は完全に落ちていた。それどころか今まであった傷まできれいになりスニーカーは新品同然であった。 「さすが精霊と名乗るだけはある」 「どう、すごいでしょ」 「それじゃあ、俺は何をかなえてもらおうかな」 ぱっと思いついたのは先ほどまで入っていたシャワールームの掃除だが、そんな小さなことにこの神秘的な力を使うのはもったいない気がした。それならなにがいいだろうか。有名人のサイン?莫大な富?それとも・・・。なかなか考えがまとまらない。 「あのー」 隣からレイニーが声をかけてくる。 「考えているところ悪いんだけど、君の分はさっき叶えちゃったからもうないよ」 「えっ?さっきって?」 俺が聞き返すとレイニーはゆっくりとスニーカーの方を見た。 「マジかよー」 俺は叫ばずにいられなかった。 「マジです」 レイニーの冷徹な一言。 「どうして相談してくれなかったんだよ」 「それは・・・、叶える願いがこちらの一存によってしか決められないからです。泥の汚れを取り除くことが私の主な能力です。ちなみに最近、傷を治す能力も習得しました」 なんだか途中から開き直ったようであった。 「結局、何でも叶えられるわけではないわけか」 「はい、もちろんです」 レイニーは胸を張って言い切った。はあー、使えない。 「あっ、今使えないって思いましたね」 「いや、そんなことないよ」 とりあえず上辺だけはそう言っておく。 もう、とレイニーは少しだけ唇をとがらせていた。 *** 「で、なんでまだここにいるんだよ」 先ほどのやりとりから小一時間。俺は昼飯を食べ終えて後片付けをしていた。レイニーは半開きにした窓枠に腰掛けながらこちらを見ていた。 「それはいかにも私がここにいてはいけないって言われているように聞こえるんだけど」 「要するにそういうことだ」 一挙一投手見られているとなるとさすがに気になる。 「ぐすん、ひどい・・・」 レイニーはわかりやすく泣き真似をする。俺は後片付けを中断してレイニーの方を向いた。 「いやーちょっと言い方は悪かったけど・・・・・・本心だ」 「いや、そこは嘘でも『ごめん、言い過ぎた』っていうところでしょ」 さっきまでの泣き真似から一転、レイニーの突っ込みが入る。 「それで、いつまでいるんだ?もう俺に対しては役割を果たせたんじゃないのか?」 「それは、私が元気になるまでです。今日は自分の体とあなたのスニーカーをきれいにしたせいでろくにパワーが残ってないんですよ。私が回復するか、雨がやんでパワーの源がなくなればいなくなりますよ」 「回復させるなら、外で雨に打たれてた方が効率がいいんじゃないか?」 雨の精霊だしと俺は加える。 「レディーに対して雨の中で打たれてこいって、あなたは正気ですか?」 「いやだって雨の精霊だろ。それにレディーというよりはガールだろ」 「なんと失礼な。もういいです」 そう言うとレイニーは反対側を向いてしまった。  俺は洗い物を再開した。 ***  雨はなかなかやまない。  洗い物が終わった俺は本を読み始めた。レイニーは何も言わず、ただ窓の縁に腰掛けて外を眺めている。窓が開いていても今日は風がほとんどないため雨は吹き込んでこない。外に出るには気が向かないが、たまにはゆっくりと家の中にいるのもいいと思った。こうしている時間もいやにはならなかった。ただ単調に雨は降り、そして時は流れる。  レイニーは何も話さない。ただ窓に腰掛けて雨空を見上げているだけ。それでいて、言い様もなくこの風景に溶け込んでいる。そいて、ふとレイニーのことを気にかける自分に気づいた。 「どうしたんですか」 レイニーはこちらを振り向くことなく話しかける。 「さっきから少し視線が気になるんですけど」 どうやらこちらを見ずとも気づいていたらしい。 「いやー、ずっと雨を見ていて飽きないのかなーと思って」 それを聞いてレイニーは少しだけ笑って、こちらに振り返った。 「私は雨の精霊ですから」 「そういえばそうだったな」 こちらも少しだけ笑って答える。 「まさか忘れていたんですか」 レイニーは少し起こり気味に答えた。 「雨の日もいいもんだな」 レイニーの機嫌取りが半分、そして本心も半分。 「わかってもらえて何よりです」 ようやくレイニーは窓枠から降りて、こちらを向いた。 「どうだ、回復はしたか」 「はい、おかげさまで」 「それはよかった」 レイニーは玄関の方に向かった。 「もう、行くのか」 「はい、私の仕事がまだまだ残っているので。はあ、なんで世の中には、こんなに雨が嫌いな人が多いのでしょうか。そのせいで私の仕事がなくならないじゃないですか」 レイニーの仕事は雨の日を好きになってもらうこと。つまり、もうこれ以上、ここにとどまる必要はない。 「がんばれよ」 そう言って俺はレイニーを見送る。 「言われなくても頑張りますよ。私はできる子ですから」 そう言って、レイニーは俺の家を出ていった。 「あと、」 俺が扉を閉めようとしたところレイニーの声が聞こえた。俺は再び扉を開ける。レイニーは振り返って俺を見ていた。 「くれぐれも、雨のことを嫌いにならないでくださいね。私は忙しいですから」 そう残して、レイニーは去って行った。 *** それから数日間、雨は降り続いた。 「雨を嫌いになるな」、俺はその言いつけを守った。というよりも雨を憎めなかったのだ。今日もレイニーは働いているだろうか。  心地よい雨音に耳を傾けながら、俺はふとレイニーのことを思い出した。
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