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幼い顔を見つめていると、すっと離れ、篠原くんが下駄箱のほうへと歩き出した。職員用と思われる棚からスニーカーを取り出し、悠希くんを抱えたまま器用に履き替えている。私の不思議そうな視線に気づいたのか、女性が言った。
「家まで送っていきます」
「えっ!」
思わず大声を上げてしまった。し、と咎めるような声がし、振り向くと篠原くんが人差し指を立てて私を見ていた。すでに靴は履き終わっている。
「起こしたら可哀想だろ」
その言葉に、女性がわざとらしく咳払いをする。
「あ、可哀想、ですよ」
言い直し、ご機嫌を窺うかのように女性を見た。薄々感じてはいたけれど、どうやら敬語を使うのに慣れていないらしい。気づいて訂正はするので、努力は見える。
「彼もちょうど帰るところだったんです。気にしないでください」
「すみません、ありがとうございます」
正直、寝ている悠希くんを担いで帰る自信もないし、タクシー代もない。とても助かる。無理やり起こして帰ることもできるが、彼の言うとおり可哀想だ。起こすなら、家に着いて、お父さんが傍にいる状態の方がいいだろう。
女性に深く頭を下げてお礼を言い、篠原くんと共に学童を出た。暗い空の下に立つと、汗をかいていたせいか妙に冷えて身体が震えた。
「どっちですか?」
悠希くんを抱えたまま、篠原くんが言った。言葉の意味が分からずに呆け、すぐに道のことだと気づいた。私が案内しなければいけないのに、呑気に空を見上げて立ち止まってしまっていた。
「こっち、こっちです」
慌てて歩き出すと、ヒールが地面をこすれて鈍い音が鳴った。さして高さは無いけれど、静かな夜道には響く。隣をついてくる足音が、それに倣うように小さく、重く、地面を踏んだ。
「……あの、ご迷惑をおかけしてごめんなさい」
横を歩いたまま、隣を少し見上げて言った。
「べつに迷惑じゃないです」
「でも、時間かかっちゃうし。重いだろうし」
言いながら、軽い荷物でも持つかのように片手で抱えていることに気付いた。もう片方の手はどうしたのだと思えば、携帯電話をいじっている。何かを確認したのか、すぐにポケットにしまう。綺麗な顔に似合わず、意外と力持ちなようだ。
「身体鍛えてるんですか?」
「え、なんで」
「軽々と抱えてるように見えるので」
「はぁ……、まぁ、こういうことあるから鍛えろって言われて、筋トレはしてるけど」
そう言ったかと思えば、はっと何かに気付いたように顔を崩し、「してます、けど」と言い直した。
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