りさの誕生日

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 俺の妹は、シングルマザーとして一人娘を育てている。  娘の名前は「りさ」。今日で五歳になった、かわいい俺の姪っ子だ。  ようやく仕事から解放された俺は、駆け足に駐車場に向かい、車に乗り込むなり急いでエンジンをかけた。  慌てているのは早く帰ってやりたいことがあったからではない。妹の家に、りさに誕生日プレゼントを渡しにいくためだ。  あいにくの残業で遅くなってしまい、誕生日会は二時間も前に終わってしまったと連絡がきていたが、妹から遅くてもきてほしいと言われていたこともあって、一言「今から行くよ」とメールをしてから俺は車を出した。  駐車場から出て、通いなれた車道を走る。  帰宅ラッシュが過ぎていたことから、いつも混雑して渋滞にはまる国道は、嘘みたいに空いていた。  おかげで妹の家にもすぐについた。  俺はもしかしたら、りさがまだ起きているかもしれないという淡い期待を胸に、きれいに包装されたプレゼントを腕に抱え、車を降りる。  プレゼントはくまのぬいぐるみだ。  このぬいぐるみは、先月三人でテーマパークに行った時りさが欲しがったものだ。あの時は妹に「甘やかさないで」といわれて買ってやれず、りさをしょんぼりさせてしまった。  きっと、一度諦めたくまをプレゼントされてりさは大喜びするだろう。  俺からもらったくまのぬいぐるみを抱きしめてにこにこするりさを想像して、思わず顔がほころんでしまった。  浮足立って妹のアパートに向かい俺が歩き出したそのとき、突然頬を何かが濡らし、俺ははたと足を止める。  雨だ。 「ったく、なんだよ」  悪態をつきつつも、プレゼントが濡れないように上着でかばいながら、駆け足に妹の家……古びた木造のアパートを目指す。  雨は瞬く間に強くなり、雨よけがあるところまで来たときには豪雨になっていた。  凄まじい勢いで降り注いでは、乾いたコンクリートを灰色に染め上げるそれを見て、俺の頭には五年前の出来事がよみがえった。  りさが生まれたあの日も、雨が降っていた。    いや、違う。毎年、りさの誕生日には強い鬼雨が降る。  ゲリラ豪雨のようでそうではない、一度振り出したらなかなか止んでくれない……あの時のことを、誰かを責め立てるような雨が。  あんなことがなければきっと、りさはもっと遅く生まれていたに違いない。  俺は最悪な気分になりながらも、それでも、「今日はりさの誕生日なのだ」と、どんよりと雲がかかった気持ちを切り替え、慣れた足取りで階段を昇った。  部屋のチャイムを鳴らすと、待っていてくれただろう妹がすぐに扉を開け、迎え入れてくれた。 「遅くなってごめんな」  俺が言うと、妹は「そんな、いいんだよ。来てくれてうれしい」といって自嘲気味に微笑んだ。  起きていることを期待したりさはというと、夜遅いこともあってやっぱり眠ってしまっていた。  部屋に入ってもうるさいくらい窓を鳴らす雨音にうんざりしそうになったけど、りさの寝顔は天使そのもので、俺を憂鬱な気持ちにさせる雨のことなんて一瞬で吹き飛んでしまった。  プレゼントを直接渡せなかったのは悔やまれたけど、また後日、改めて渡しに来ればいいと思った。  りさの笑顔はその時にみればいいのだ。  とはいえ、せっかくやってきたのだからすぐに帰るのは何となく寂しいような気もして、俺はしばらく妹と話してから帰ることにした。  妹は俺がリビングの椅子に腰かけるタイミングで、冷蔵庫からお茶を出してグラスに注ぎ、渡してくれる。  誕生日ケーキが余っているから食べないか聞かれたが、最近太ったと友人に指摘されたのを思いだして断った。 「りさがうまれてもう五年か」 しみじみつぶやくようにいいながら、グラスを傾ける。 妹は俺のつぶやきに、 「うん。一年一年を、大切にしないとね……」  と、細く芯のない声で返してきた。 「そうだな」  俺も何となくそれにつられるように、机上に視線を落として頷いた。 「お兄ちゃん、気にかけてくれてありがとう」  ぽつりと、妹がこぼした言葉にハッと顔を上げる。  妹は、ばつが悪そうな、気悪そうな、なんとも言えない顔をしていた。  どうも妹に、もう自分のことなど放っておいていいといわれているような気がしてしまう。 「何言ってるんだよ。兄妹だろ? 当然のことだ」  俺はそういって妹が注いでくれたお茶を一気に飲み干した。  妹は、りさが生まれてからずっと孤独だった。  夫と離婚し、両親からは勘当された。俺はでも、妹を見捨てられなかった。  確かに、妹は取り返しのつかないことをした。  けど、血のつながった家族を見捨てるなんて、誰ができるだろう?   子供を産んだばかりの、それも、深く傷ついた妹を置いて逃げるなんて、できるはずがない。どうかしているのは、妹とりさをごみのようにすてた夫と、責任をとれないと投げ出した両親だ。  俺はあいつらの代わりに、妹を支えなければならない。俺がもし妹の立場だったら、生きてくのをやめてしまいたくなる気持ちに、毎日押しつぶされそうになるだろう。  俺は妹を理解し、寄り添ってやりたい。きっと俺の存在は、りさのためにもなるはずだから。 「おじちゃん」  突然かけられた声に、思わずびくりと体を震わせ、俺は振り返った。  いつからそこにいたのだろう。りさが、俺の背後に立っていた。  小さな声で話していたわけではないから、もしかしたら起こしてしまったのかもしれない。 「ごめんね。起こしちゃったかな?」  俺は椅子から立ち上がり、そっとりさの頭をなでる。 「うー」  りさは眠そうに目をこすりながら、「ちゃちゃほしー」とねだってきた。  「ちゃちゃ」は俺たちがよく使う子ども言葉で、「お茶」のことだ。  りさの要求に、「ちょっとまってね」といって立ち上がった妹は冷蔵庫に向かい、すぐに子供用の小さなコップに注いだお茶をもってきた。  りさはまだぼんやりとしながら妹から受け取ったお茶を時間をかけて飲んでいたが、コップの中のお茶がなくなるころにはすっかり目が覚めてしまったようで、妹の方へとことこ歩いて行った。  プレゼントを渡そうかとも思ったけど、りさが眠れなくなるような気がしたので、やっぱり日を改めることにした。  少しだけもやもやする俺など知らないりさは、何やら妹に向かって話し始めた。 「ねえまま、りさね、ゆめみたの」  妹の膝に手を置いてぴょんぴょんリズムをとるように体を上下させるりさ。どうやら話を聞いてほしいようである。 「……」  でも、どういうわけか妹はりさを見下ろして、何もいわなかった。  「まま」とりさが呼びかけても、妹はただりさを見つめるだけ、何のリアクションもとらずにうつむいてしまう。 「美紀、どうかしたか?」  あのときのことを思いだしてしまったのだろうか。  俺は心配になって妹に問いかけた。 「ううん。なんでも……なんでもないよ」  妹はそういって俺に笑いかける。でも、つりあげた口角が引きつっているのを俺は見逃さなかった。 「りさ、こっちにおいで」  りさは何も言ってくれない母親の反応に首を傾げるも、俺の呼びかけにはたとこちらに顔を向けた。  そのまま、広げられていた俺の腕に飛び込んでくる。 「おじちゃん」  にこにこ笑いながらしがみついてくるりさを、俺はそっと抱き上げた。 「ちゃちゃのんだしそろそろねんねしようか?」  りさをかかえながら、俺は器用に寝室の引き戸を開けた。  妹はきっと、五年前のできごとを思い出してしまったのだ。消し去りたいのに忘れてはならない、あの事故のことを。  五年前の今日、妹は実家から自宅に向かうほんの少しの道で事故を起こした。妹のお腹には「りさ」がいて、予定日より一か月以上あったその日、運転中に破水、混乱して操作を誤った妹は、事故を起こしてしまった。  病院に運ばれた妹は無事りさを出産したが、妹が轢いた子は亡くなった。    人を轢き殺した責務を負うことになった妹には、周りの人間の支えが必要だった。それなのに、妹の夫は「人殺しと一緒に住むのはごめんだ」と手切れ金と離婚届を置いて出ていき、両親は妊婦に運転をさせて実家に呼び寄せた責任があるにも関わらず、ぼけたふりをして妹との縁を切ってしまった。  妹には、俺しかいなかった。俺は俺ができるせいいっぱいを妹にしてやれればと、妹の仕事を探して与え、りさが幼い頃は一緒に住んでりさの世話をした。  今こそ離れて過ごしているけれど、四六時中一緒にいた妹のことは、なんとなくわかる。五年前のことを思いだして気持ちが沈んでいるのかどうかは、顔を見ればすぐにわかってしまう。  こんなときは、俺が手を貸せばいいんだ。  俺は寝室にりさを連れていき、そのまま寝かしつけるつもりだった。  けどりさの眠気は吹っ飛んでしまっているようだった。 「おじちゃんあのね、りさ、ゆめみたの」  きっと、妹に話しそびれた夢の話を俺に聞いてほしいのだろう。 「そうなんだ? どんな夢かな?」  俺はりさにたずねながら、敷かれていた布団にりさを寝かせる。 「こわいゆめだよー」  りさは掛布団を鼻までかぶって身震いして見せた。 「それはいやだねぇ……」  どこかおどけたような語り方に、少しだけ興味をひかれてしまう。  りさは聞いてほしいという感情を前面に出してくる子ども特有のしゃべり方で、こう続けた。 「りさ、どうろをあるいてるの。りさはえらいから、あおしんごうだよ」 「……そっか。りさはおりこうさんだもんね」  ただの夢の話なのに、どきりとした。  この手の話は、俺たちにとってタブーだ。  妹の前であのときのことを思いださせるような話はすべきではない。  けど、子供のいうことだ。何の意味もないだろう。 「りさはね、どうろをわたってね、あっち側にいきたかったの」 「そっかそっか」  りさのすぐとなりに横になった俺は、早くこの話が終わることを祈った。  きっと、隣の部屋で妹もりさの話を聞いているだろうから。この話を聞いて、妹がいい気持ちになるはずないのだから。 「それで、どうなったの?」  早く結末を聞いて、寝てもらおう。  俺がそう問いかけると、りさは布団を鼻までかけたままじっと、俺を見つめて押し黙った。  ただただ俺を見つめるだけのりさは、不自然なほど目を大きく見開いて、瞬き一つしない。それどころか、呼吸することも忘れてしまったかように固まったまま動かなくなった。 「り、りさ……?」  大切な姪っ子のはずなのに、どうしてかりさが恐ろしい生き物に変わってしまったような気がして、呼びかけた俺の声は震えてしまう。  りさは俺を見つめたまま、ずるりと音を立てて口にかかった布団を引き下げる。そして、短くただ一言、こう答えた。 「ひかれて、死ぬの」  子どもの声だった。でも、りさの声ではなかった。 「……」  俺は何もいうことができなかった。金縛りにでもあったかのように、ただりさから目を離せず、身を固めるだけだった。 「でもね、大丈夫だよ」  りさはそんな俺の手をぎゅっと握ってくる。  そして、ひまわりのような笑顔をみせて、こう話を締めくくった。 「ままがいたから、もう怖くないんだよ」  俺は、りさの笑顔がみたくて今日ここにきたはずなのに、にこにこするりさをみて、心臓を握りつぶされるような感覚に襲われるのと同時に、直感した。  これは、りさではないと。 「……お前、誰だ?」  りさの中に何かいる。  震える声を精いっぱい抑えて、低く俺は問いかけた。  それでもりさはへらへら笑いながら、「誰って、りさだよ」と答えるだけ、それ以上は何もいわず、何事もなかったように眠りについてしまった。  明らかに、どうかしている。けど、妹はりさの様子に慌てるそぶりすらみせなかった。  寝室にきた妹は、ただ俺とりさを、何か諦観するように据わった目で見下ろして、独り言のようにこう言うのだ。 「私を責めるなんて、みんなどうかしてるよね」  意味が分からず何も返せずにいると、妹はりさをはさむようにして横になり、りさの頭をそっと撫でながら、つぶやいた。 「だって私、あの時誰も殺してないんだからさ」  りさと同じように、目をつぶり、やがて妹は寝息をたてはじめる。今まで見た事もないような、幸せそうな顔だった。  俺は何も言わずに、二人を置いてアパートを出た。  そうか、最初から、そうだったんだ。  俺が大事に育てていた姪っ子は、生まれた時からすでに俺の姪っ子ではなかったんだ。  妙に腑に落ちた。そして「よかった」と心から安堵した。    妹は誰にも責められるようなことはしていなかったんだ。  だって、五年前に妹が轢き殺し、死んだあの子は、りさとして生まれてきたのだから。  俺は傘もささずにゆっくりと、雨の中車に向かって歩き出した。  大嫌いだった雨にうたれても、別に何とも思わなかった。  さっきまであんなに嫌な気分になったのに、もう何も感じない。  一年後、同じ雨にあったとしても、俺がどんよりとした気持ちになることはもうないだろう。  一年、いや、その次の年も、何年たったって、あの子の命日であり誕生日を、俺は祝いに来ることになるのだから。
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