不揃いの傘

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「ちょっと、水がこっちに垂れてきてるんですけど」 私は持っていた傘をちょっと持ちあげて隣を歩く彼に文句を言う。 「なんだよ、しょうがないだろ、わざとやってるんじゃないし」 彼は不満げに反論する。中学に入ったばかりの幼馴染の私たちは並んで登校するのが常だった。今日みたいな雨の日はお互い傘を差して歩いているのだけど、私の方が背が高いから、彼の差す傘から垂れた水がちょうど私の肩にかかる位置に来るのだ。 まだ体に馴染んでいない、新品のセーラー服の肩口が濡れてしまうのは嫌なので、彼にちょっと離れて歩くように言う。 「好きで背が低いわけじゃないんだけどな…」 彼が悔しそうにつぶやきながら一歩離れる。彼は平均的な男子よりもちょっと背が低い。私は別に構わないんじゃないかと思うんだけど、彼はそんな自分の身長をかなり気にしていた。 そんな所は少しかわいく思える。 「別に背が低くてもいいじゃない。今日みたいに私の肩を濡らされるのは困るけどさ」 「やだよ、男なのに女子よりも背が低いのなんて」 彼はふてくされたように言って、少し早足になって私の前を歩く。 左右に少し肩を揺らしながら歩く癖は小学生の頃から変わらない。 そんな彼を私はずっと弟みたいに思っていたけど、最近は少し違う感じに見えてきた気がする。 ずっと弟みたいでいて欲しいような、欲しくないような。 そんなふわふわした感情を、私はこのごろ持て余していた。 でもそのうち彼は自然と私との登校を避けるようになっていった。 登校時間をずらすようになり、私はいつも一人で登校するようになった。 クラスも違うのでそうすると接点は途端に小さくなってしまう。 せいぜい複数クラス合同の特別授業だったり、学年行事や全校行事くらいでしか彼の姿を見ることはなくなっていった。 一度、偶然廊下で鉢合わせした時になんで一緒に登校しないのか、と問うたことがある。彼はあたりをきょろきょろと見回して誰もこちらの方を見ていないのを確認してから、照れくさそうに言った。 「いや、だって女子と一緒に登校なんて恥ずかしいじゃん」 私は口から出そうになっていた文句をぐっと飲みこんでしまった。 一緒に登校してくれないことへの不満と、私を女子として見てくれていることの照れくささが入り混じったその感情は、その時の私には上手く言葉で表現することができないものだった。 それが恋、という感情に類するものだと知った時には、彼は同じクラスの私の知らない女の子と付き合うようになっていた。 幼馴染だからもちろんお互いの家は近い。登校は一緒に出来なくても休みの日にお互いを偶然見かけることは当然のようにあった。 私との登校は嫌がっているのに、その女の子とは休みの日に一緒にどこかへ出かけているようだった。 そんな彼を見かけるたびに、なんで私じゃないんだろうかと悲しくなる。 中学校の2年目はあっという間に過ぎていった。 その間、私は彼を離れた場所から見つめ続け、彼はすぐそばの別の女の子を見つめ続けていた。 中学3年生になってからは、高校受験という一大イベントをいやがおうにも意識するようになる。学年全体の雰囲気もすこしピリピリする中で、どうやら彼はその女の子と別れたらしいと噂で耳にした。 それを聞いた時の私の感情はなんともいえないものだった。 恋敵がいなくなって嬉しい?彼が悲しんでいるから悲しい?そのどちらにも当てはまるようで、どちらも違っているように思えた。 毎日授業でたくさんの事を習うのに、この感情を表現する適切な言葉は辞書をひっくり返してみてもどこにも見当たらなかった。 中学3年生の6月。ゴールデンウィークも過ぎると夏休みがあるとはいえいよいよ受験を考えるようになる。いままで考えたことがないぐらいに将来のことを考えなければならない。 私は将来どうしたいんだろう。全く分からなかった。 いま私がどうしたいかもよく分からないのに、将来のことなんてとてもじゃないけど考えられなかった。 梅雨に入り、じっとりとした雨が連日続く。 私は「今日も雨かあ…」とつぶやきながら玄関を出る。すっかり歩き慣れた通学路を物思いに耽りながら歩いていると、前方に背中が見えた。 左右に少し肩を揺らしながら歩く背中。珍しく登校時間がかみ合ったらしい。 その背中に私は勇気を振り絞って声をかけた。 「ねえ、今日は珍しいね。この時間に登校なんて」 彼が振り向く。この3年足らずですっかり男らしくなった顔は、もうとてもじゃないけど弟とは思えなくなっていた。 「たまには一緒に登校する?」 私がそう声をかけると、彼は一瞬躊躇した後、こくりと頷いて言った。 「まあ、今日ぐらいはいいけどさ」 久しぶりに二人で学校までの道のりを歩く。私は思いがけない幸運とこのやまない雨に心の中でこっそりと感謝する。入学したときは二人でふざけながら歩いた道を、今はお互い黙って歩く。ふと彼が私に言ってきた。 「おい、水がこっちに垂れてきてるんだけど」 言われて彼の方を見ると、彼の学ランの肩口が、私の傘から垂れる水で湿っていた。いつの間にか彼の持つ傘の方が高いところに位置していた。 「もう高校受験の学年になっちゃったね。どこの高校に行くかとか、考えてるの?」 「まあ、一応は」 彼が高校名を挙げる。私の学力だと合格ぎりぎりラインの高校だった。 いつの間にか学力でも高低差を逆転されてしまっていたらしい。 「じゃあ、私もそこ受けようかな」 「なんだよそれ、ちゃんと考えろよな」 彼が呆れたように言う。ふざけたように言ってみたけど、言ってから私は本気でそこを受ける気になっていた。 不純かもしれない。そんな動機では後悔するかもしれない。でも今、この時の私には、それはとても切実な動機になっていた。 先のことを考えられないなら、今この時の気持ちをぶつけるべきだ。 傘の高さはきっともう並べられないだろうけど、今から頑張れば学力は並べられるかもしれない。この先少しでも彼と一緒に並んで歩くには、それはどうしても達成しなければならない目標なのだと思えた。 「ねえ、ありがとね」 「ん?何がさ」 「ううん、なんでもない」 私は決意を込めて次の一歩を踏み出した。彼と並んで歩くために。
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