アンドロメダの涙

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 父の世代にとって、第一次アイティオペア戦争は屈辱の代名詞だった。  19世紀中頃から、エウロパの列強国はアフリカ大陸の植民地化を積極的に推し進めた。圧倒的なまでの工業力と軍事力を背景に、各国は広大無辺なる熱帯の大陸を蚕食した。  サヴォイア王国は、このムーブメントに完全に出遅れた。必死になって同民族間での争いを収め、王家を中心にして統一国家を樹立したその頃には、アフリカの殆どが他国の有するところとなっていた。  残った地域は、アイティオペア人の帝国だけだった。必然、王国の野望に満ちた視線はそこに釘付けとなる。権謀術数を巡らせ、膨大な資金を投入し、軍隊を送り込んで、王国は彼らの国土から、辺境たるエリュトゥラー地方とソマリ地方を毟り取った。  次に目指すのは、アイティオペア帝国の本土。その砂漠の地下には、豊富な天然資源が眠っている。  すべては順調に見えた。だが、それは誤りだった。アドワにおける決戦で、サヴォイア王国軍は無惨にも完敗した。皇帝親衛軍を中核とした帝国軍が、我が軍を散々に打ち破ったのだった。  無慮10,000人にも及ぶ兵士が熱砂に屍を埋め、王国はアイティオペア侵略を断念せざるを得なくなった。我が国は国際社会の笑い者となり、対してアイティオペア帝国は著しく声望を高めた。  我が国、我が民族の二千年の長きに渡る歴史からすれば、かの戦争における敗北は、これまで無数に経験してきた敗北の一つに過ぎない。それでも、我がサヴォイア王国の国民はそのように割り切ることがどうしてもできないのだった。それは、国民性の一つである高すぎる自尊心のせいであり、さらには、そこから由来する強烈なまでの差別感情のせいでもあった。  まさか、誇り高きローマの末裔たる我らが、アイティオペア人ごときに敗北するとは! あの褐色の肌をしたアフリカの未開人どもに、列強国たるサヴォイア王国が大敗を喫することになるとは!  実のところを言えば、彼らアイティオペア人を未開人などと見做すのは、甚だしいまでの思い違いだった。確かに、彼らは近代的な工場も学校も持たず、泥と藁で出来た粗末な家に住む人々だった。だが、彼らには歴史と伝統があり、そして誇りがあった。自分たちが生まれ育った愛する祖国の地を、北方の侵略者どもには決して渡すまいという、気高い意志を確固として有していたのだ。  私の父は、残念なことに、その事実をどうしても認めようとはしなかった。父は私を叱りつける時、いつも義肢となった右腕を撫でながら語り始めたものだった。 「良いかマルコ。俺は20歳の時、アイティオペア人と戦った。奴らは野蛮で、残虐で、しかも卑怯な連中だった。我が軍がアドワで負けたのは、決して奴らの実力がこちらより優っていたからではない。カエルとカタツムリを食うフランチャ人どもが、裏で軍事援助をしていたからだ。そうでなければ、精強なる我が軍が負けるはずがない! 俺も腕を失うことはなかったのだ……」  父の言う通り、アイティオペア人を支援したのはフランチャ人だった。我が国のアフリカ大陸における勢力拡大を食い止める為に、彼らは大量の武器・弾薬を惜しみなく送り込み、軍事顧問団を派遣した。  高い士気と揺るがぬ誇り、それを支える最新の装備。だが、「たかがその程度で我が軍が敗北するわけはない」と父は言った。 「奴らには、魔法があったんだ。いや、俺たちの使う魔法とは違う。俺たちのものよりも、遥かに大規模で、忌まわしい魔法だ。奴らは、悪魔と契約したのだ! いや、実際にそうしたのかは知らないが、そうとしか言いようがない! 悪魔の加護を受けた奴らには、銃弾も榴弾も、それに俺たち魔術士の魔法も、一切通用しなかったのだからな!」  細い筋張った左手で、父は杖を振り回しながら、喚くように言葉を続ける。 「アドワの戦いの時、俺は戦線右翼の魔術士大隊にいた。敵は散開して、砂漠の上を滑るようにして俺たちの部隊へ一直線に向かってきた。俺たちは三列の横列を敷いて、奴らを迎え撃った。距離500メートルになった時、指揮官が号令を下し、俺たちは一斉に火球を発射した。だが、奴らには何も効果がなかった!」  小さい頃から何度も同じことを話されていた私はその光景を、あたかも自分自身が見たかのように思い浮かべることができた。 「続いて歩兵が銃弾を浴びせる。それも効かない! 奴らの黒い肌は凶悪な太陽光を浴びて濡れたように輝いていて、弾丸をすべて弾き飛ばした! 奴らはなおも進んでくる。砲兵隊が最後の手段として榴散弾を至近距離からぶっ放した。ようやく、何人かが倒れた。それでも、奴らは止められなかった……」  ここまで話すと、父は義手を外して、今は肉と皮膚で覆われた切断面を私の眼前に突きつける。 「見ろ、この腕を! 奴らは俺たちの陣地を蹂躙し、暴れ回った! 多くの戦友が死に、かろうじて生き残った者も、余さず捕虜になった。捕虜になった魔術士は、全員右腕を切断された! もう二度と魔法が使えないようにとな!」  そして、左手の杖で、私の頭をしたたかに殴りつける。頭蓋に響く鈍い音、鼻腔の奥のきな臭さ。父はなおも怒鳴る。 「痛いか! だが、あの時俺が味わった痛みは、そんなものとは比べものにならなかった! いや、俺の痛みや、無くなった右腕などどうでも良い! 失われた祖国の誇り、傷つけられた民族の栄光を考えてみろ! ようやく国家を統一し、全世界にサヴォイア王国の武威を知らしめる機会を得たのに、それを野蛮人ごときのせいで台無しにされた祖国の無念を、マルコ、お前は分かっているのか!」  父は何度も私を殴る。私はそれを、じっと無言で耐える。しばらくして、父は息を切らし、殴るのを止める。今度は私の頭を撫でながら、怒りと愛情がない混ぜになって奇妙に歪んだ面持ちで、静かに語り始める。 「良いか、マルコ。俺はお前を一流の魔術士にしてやりたい。いや、お前は必ず一流の魔術士になるだろう。お前は俺の自慢の息子だからな。俺は、お前がいつか、あのアイティオペア人たちに復讐してくれるだろうと信じている。そのための魔術も、今は研究中だが、いつかお前に授けてやれる。だから……」  父は、叱られる直前まで私が読んでいた本を、暖炉の火の中へ投げ込んだ。隣に住む婦人が与えてくれたヴェルレーヌの詩集は、見る間に炎に包まれた。 「こんな下らないフランチャ人の本を読むのはやめて、魔術の修練にもっと励め。祖国のため、それに何より、お前を愛する父のために、お前はもっと強くならねばならない。分かったな……」  私自身の自我以上に、父は私という存在を規定していた。小さい頃の私は、それをおかしいとは思わなかった。殴られ、怒鳴られ、持ち物を捨てられ、友人すらも持てなかったが、それでも私は父から愛されていると信じていたからだ。  おそらく父も、祖国に対して同じような気持ちを抱いていたのだろう。祖国は、父ら敗残兵に対し、わずかな額の傷痍軍人恩給以外、何ら慈悲を施すことはなかった。むしろ、存在そのものを忘れ去ろうとしているかのようだった。それでも、父は祖国を愛さずにはいられなかった。それは、自分は祖国から愛されているという根拠なき信念を抱いていたからだろう。  そうでなければ、父は私を育てられなかったに違いない。祖国への捧げ物として男手ひとつで一人息子を仕立て上げることなど、信念なしには不可能なことだ。  父は私に魔術士としての教育を授けつつ、アイティオペア人を打倒するための魔術研究に没頭していた。私が20歳になった頃、研究が予想以上に進展したためか、父は興奮を隠さず私に言った。 「マルコ! あのアイティオペア人の、すべての攻撃を無効化する魔術について分かったことがある! 奴らの伝説を調べていたら、こんな文言が出てきた。『やまない雨が破滅をもたらす』とな。これがヒントになった」  今ひとつ話が飲み込めない私をよそに、父はなおも話し続ける。 「アイティオペア人たちは、元来太陽とつながりの深い民族だ。神話の時代、太陽神ヘリオスの息子パエトンが、愚かにも父の愛を試そうと太陽の戦車を乗り回したことがあった。しかし、ただの子どもが扱い切れる代物ではない。戦車は暴走して、太陽は世界を焼いた。その時、アイティオペア人たちの祖先は肌が真っ黒になったそうだ。ヘリオスはそれを哀れみ、奴らと一つ契約をした。私を崇めるならば、お前たちに無限の力を与えようと……」  顔を真っ赤にして、父は杖を振り回しつつ、部屋を歩き回る。 「時が経って、アイティオペア人どもは太陽神への信仰を捨てた。俺たちと同じ神を信じるようになったのだ。だが、俺たちに攻め込まれて追い詰められた奴らは、フランチャ人どもの口車に乗せられて、また太陽神を崇めるようになったのだ!」  父は、机の上に拡げられていた小冊子を乱雑に掴むと、私に放り投げてよこした。表題を見ると、フランチャ語で『戦略魔法の新たなる地平 アイティオペアにおける事例研究』と記されていた。 「その本によれば、フランチャ人はあの戦争の時、武器弾薬と顧問団だけではなく、魔術士も送り込んでいたらしい。そして、アイティオペア人たちが『無敵の戦士』になるように、戦略魔法を構築したのだ。太陽光を浴びている限り、身体能力と防御力を数倍に増強するという魔法をな!」  私も、記事に目を走らせた。そこには、フランチャ人魔術士の指導のもとにアイティオペア人が「ヘリオスの加護」という名の魔法を発動させたこと、魔力の消耗が激しかったため539人の死者が出たこと、術式はアドワの戦い直前に完成したこと、などと書かれていた。 「俺たちのやるべきことは決まった! アイティオペア人を屈服させるには、奴らから太陽の光を奪えば良い! 『ヘリオスの加護』を剥ぎ取るのだ! そのためにはまず……」  熱っぽく語る父を見て、私は一種の憐みのような気持ちを抱いた。  アイティオペア人を屈服させる? そんなことはもう、起こり得ない。  サヴォイア王国は数年前、エウロパ大戦において戦勝国となったものの、国内は荒廃していた。経済は停滞し、失業者は街に溢れ、国内の分断は目を覆わんばかりだった。とてもではないが、外征を行う余裕はない。父の野望は、いや、それはもはや妄執と言っても良かったが、果たされないまま終わるだろう。  それでも父は研究を続けた。私は、無駄とは知りつつも父を支え、彼の望むような息子となるべく努力を続けた。  己の健康を犠牲にして、父は研究を完成寸前にまで漕ぎ着けた。のみならず、各方面に運動をして、私を国立魔術研究所の一員にまでした。父こそが悪魔と契約したのではないかと思われるほどの、異常なまでの熱意と働きぶりだった。  そして、私が30歳になって数ヶ月後、ついに寿命を迎えた。父は臨終のその間際まで、私に向かって話し続けた。 「良いか、マルコ。必ずアイティオペア人どもに復讐するのだ。父の無念を晴らし、祖国の屈辱を雪ぐのだ。お前にはすでに、俺のすべてを授けた。俺の開発した『アンドロメダの涙』ならば、必ずアイティオペア人たちの魔術を打ち破れる。それに、今や祖国は偉大なる統領を戴いている……」    喘鳴混じりの最期の言葉は、未だに私の耳に残っている。 「良いか……アイティオペア人にやまない雨を……奴らに破滅を……父の宿願を果たしてくれ……」  父が死んでから5年後、サヴォイア王国は統領の指導のもと、アイティオペア帝国侵攻の師を起こした。私は、グラツィアーニ司令官の魔術顧問の一人として、アフリカ大陸へ渡った。
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