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もう何年も前の話だ。涼太の気持ちに気がついたのは。
決定的な確信があったわけでもない。けれど、心なしか俺の前でだけ女の子らしくなっていく涼太を見ていると、気づかざるを得なかった。
高校二年生になった俺達は、出会ってからそろそろ十年目の夏を迎える。
膝小僧がむき出しになった涼太と共に、身長よりも遥かに大きい虫取り網を振り回して、野原を駆けていた幼き日。
いつまでも一緒に、少年時代の延長線上を生きていられると信じていたのに。俺達はどこで何を間違えて、今いる場所に辿り着いてしまったのだろう。
涼太を前にして、そんなことを考えた。
「ゆうちゃん。いつになったら、返事くれるの」
涼太の真っ直ぐな視線が心苦しくて、目を伏せた。
放課後。ふたりぼっちの教室。一ヶ月前に、同じシチュエーションで告白をされた。あの日もそうだ。空は悲しいくらいの雨模様だった。
好きなんだ。涼太の桜色の唇は、至ってシンプルに愛を綴った。
たった五文字に集約された涼太の覚悟。涼太の想いの深さは、付き合ってきた年数に比例するのだろう。
だからこそ、真摯に向き合わなければならない。しかし、涼太を傷つけたくないあまり、返事を保留にしていた。
お互い何も気づかないフリをして、友達として付き合っていく未来もあったのではないか。
なぁ、涼太。
「ごめん、ゆうちゃん。もう、限界だったんだ」
あどけない声で、いつまでも俺の名前を呼んでくれると信じていたのに。
「好きになってくれなんて言わないからさ、せめて、俺を見てくれないかな」
俺は何も言えなかった。
見なくてもわかるさ。目鼻立ちが整った涼太は、髪も肌も目の色も色素が薄くて、儚げな美貌を湛えている。俺なんかとは比べものにならないくらい頭もよく、運動神経もいいので、言うまでもなく女子にもモテた。
涼太は、俺しか知らない。
やがてひとり立ちする日が必ずやってくる。その時がくれば、俺への恋心も単なる錯覚だったのだと身を以て知るだろう。
「涼太、あのな……」
うまく声にならず、言葉に詰まる。
不意に、涼太が胸に飛びこんできた。俺のシャツを握りしめ、胸に顔を埋めている。細い肩が震えていた。
極度の緊張から、身体が動かない。お前を受け入れる覚悟も、突き放す冷徹さも、俺にはない。
分からない。どうすればいい。教えてくれ、涼太。
お前の背中に手を回せない俺を、どうか許してくれ。
「ごめん」
限界まで無感情を装って告げた、精一杯の拒絶。
酷だ。
俺にとっても、お前にとっても。
現実を受け入れるのは、余りにも。
シャツに染みこんだ涙が肌に伝ってくる。熱くて、冷たい。
俺はもう、何も言えなかった。
「俺のこと、嫌い、に、ならない、で」
辛うじてその言葉だけを残し、涼太は机に置いていたスクールバッグを引っ掴んで、教室を飛び出した。
俺は情けないくらいに棒立ちのまま、一歩も動けなかった。
どうしてこうなった。
馬鹿の一つ覚えみたいに、その言葉を反芻した。
窓の外では、午後から降り出した雨が激しさを増した。
そういえばあいつ、傘持ってなかったな。
「くそっ」
デイバッグを背負い、廊下に設えてある傘立てからビニール傘を抜いて、俺は駆け出した。
しかし涼太はすでに学校を後にしていて、姿は見当たらなかった。
俺は肩を落として、息を吐いた。今更後を追ったところで、走り去ったであろう涼太に追いつけるわけもない。小学校の頃から、かけっこや鬼ごっこで、あいつに勝ったことなんて一度もないのだから。
傘を開く音が、やけに寂しく耳の奥で響いた。
狭い道をひとり歩いていると、前方で傘も差さず雨に打たれている人影が見えた。
涼太だ。
「あのバカ」
無意識に走り出していた。
涼太の前に回りこんで、顔を覗く。
息が、止まった。
死人のように青白い顔をさせた涼太が、今にでも降りしきる雨に倒されそうなほど心細げに立っていた。額にへばりついた髪が、より一層悲壮感を引き立たさせている。
泣いているのか、目が赤くなっている。言葉をかけたくても、ただ喘いだだけで、声が出なかった。
「どこに帰ればいいのか、分からくなっちゃった」
そう言って、涼太は虚ろな目で痛々しく笑った。
中途半端に受け入れるより、冷酷に突き放す方が涼太のためかもしれない。仮にそうだとしても、涼太はきっと、俺に手を差し伸べられるのを待っている。俺が見放すわけがないと、涼太は信じているからだ。そして、涼太の期待に答えるのが、俺の役割でもあった。昔から、ずっと。
「入れよ」
濡れそぼつ涼太に傘を傾けた。伏せていた瞼が開き、ゆっくりと視点が移動する。ある一点でお互いの焦点が交差した。涼太は相も変わらず微動だにしない。
胸の奥から、切望がこみあげてくる。
抑えていた感情が溢れ出す。
だらんと垂れていた手首を掴んで引き寄せると、涼太は逆らわずに前に踏み出した。その顔は伏せられている。手首を放し、頬に片手を添えて、ゆっくりと上向かせた。
涼太は、泣いていた。声を立てずに、粛々と。
親指で、涙を拭ってやった。
「今だけ、だからな」
微笑むように瞬きをした涼太の目から、堰を切って溢れ出した涙が俺の手を濡らした。
雨は、まだやまない。
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