被写体

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 数ヶ月前のことだった。 「突然だけど、被写体になってくれないかな」  街を歩いていたら、突然見知らぬ青年から声をかけられた。  営業先に向かっていた私は、突然のことにおどろき立ち止まった。青年は、Tシャツにズボンといったごく普通の格好をしていた。 「被写体?」  青年の黒い瞳に、目を奪われながらも訊いてみた。 「そう。俺、カメラが趣味だから。モデルになってよ」 「モデル……」 「うん」  平然と頷く青年の反応に、首をかしげた。自分の格好といえば、いたって普通のスーツ。特別おしゃれをしているわけでもない。お化粧だって、手抜き。  一応、前置きしておくが、私は自慢できるような顔でも、スタイルでもない。今年二十五歳を迎える。モデルとしては若くないとおもう。  私は感嘆したあと、 「意味がわからないわ」  率直にそう言った。しばらくして青年の笑い声がきこえてくる。  その理由もやっぱりわからなかった。 「ごめん。笑ったりして……あまりに正直だから」  目を細め、口もとをわずかに緩ませるその笑顔に、なんだかくすぐったい心地がする。恥ずかしくなって、コホンと咳をしてみる。 「私仕事してるし、あまり時間とかとれない。土日も予定ほとんど埋まってるから」 「うん。少しでいい。予定ももちろん合わせる。それに、いやになったらすぐキャンセルしてもいいよ」  それでも、余裕な態度。 「写真撮られるのきらいなの」  わざと突きはなした言い方をしてみた。どんな反応するだろう。すこし気になった。  けれど、相手はそんなことおかまいなしと言った具合で笑う。 「じゃあ、二枚しか撮らない。それでも嫌なら一枚でもいい」  とても穏やかな軽い口調だった。眉をひそめることもなく、ただ純粋な笑みを浮かべる彼。  それに、たった一枚でもいい、と言う。それで、満足いく写真なんて撮れるのだろうか。  そこまでして、私を撮る理由がわからなかった。  はじめは断るつもりだった。モデルなんてしたことないし、ポーズなんてうまくできない。なにより、罠にはめられる可能性だってある。騙されてお金を盗られるかもしれない。  無難に断るのが一番。だから、 『悪いけどやめとく』  そう言えばいいだけだった。とても簡単なことだ。  それなのに、一度くらいならいいか、とおもう自分もいた。自分でもおかしいとおもう。騙されるかもしれないのに、恥をかくだけかもしれないのに、なぜか彼を信用する自分がいる。 「うーん、ほんとにすこしなら」 「え、いいの?」 「……うん」 「嬉しいよ。ありがとう」  結局、被写体になることを了承した。  私よりも三つ年下の彼は、ユズルと名のった。  連絡先を交換したあと、やっぱり私じゃなくてもいいのではないか、と言った。正直なところ、カメラに向かって表情をつくる自信がなかった。  けれど、ユズルは、君じゃなければダメだ、と言った。彼いわく、私には他の人にはない特別な雰囲気があるらしい。それは、無意識に発するものなので、隠すことも、偽ることもできないのだという。  熱の入ったユズルの説明を受けたあと、私は彼に思いの丈を伝えた。 「やっぱり意味不明だわ」  すると、ユズルは困ったように息を吐いた。 「なんでわからないかな。せっかく説明したのに、意味ないじゃないか」  そして、あぐらをかくと、手にあごを乗せた。まるで、子どものようだ、とおもった。  ごく普通の青年。だけど、どこか不思議な雰囲気を感じるのは、瞳のせいだろうか。  初めて顔を合わせたとき、私はユズルの瞳に惹きこまれた。  ユズルの目には、通常あるべき光がなかった。漆黒の闇で覆われている瞳は、どこかうつろで儚げに見えた。  それがなぜかなつかしくおもえたのだ。  被写体になることを了承して、数日後ユズルから電話がかかってきた。 「もしもし」  遠慮がちにそう言うと、電話越しにフッと軽い笑い声が聞こえてきた。 「あ、電話出てくれたね」 「あたりまえじゃない。出ないかとおもってたの?」 「うん。君、気乗りしてなかったから」  ユズルが私の気持ちをちゃんと察していたことにすこし驚いた。  ユズルは撮影の日時と場所の提案をするために電話をしてきた。私は、極力ユズルに合わせようとおもっていた。  けれど、場所を聞いた瞬間、私は思わず声を荒げた。 「えぇ!? 廃墟!?」 「そう」 「無理無理。汚いし、物騒じゃない!」 「下調べしてるから平気。夕方だし、危なくないよ。わりと、きれいだし」  スマホ越しに笑い声にも似た返答が返ってきた。 「えぇ、でも」  私は気が気じゃない。  脳中では妄想が渦巻いていた。  ーーユズルから襲われたらどうしよう。 「あぁ、まさかとはおもうけど、俺から襲われるかも、とか考えてないよね」 「え」  心臓がバクンと言った。 「へんな妄想してないよね? 俺が君を襲うとか」  ユズルは勘が良いらしい。  私は務めて冷静を装った。無駄に笑顔もはりつけてみせる。 「そんなこと考えてないよ」 「顔に書いてあるよ。図星って」 「……な」 「それってさ、俺を意識してるってことかな。俺は君を被写体としてしか見てないから、そんなこと考えもつかなかったけど」 「いえ、そんなことは」 「じゃあ、廃墟で異論は?」 「……ないです」  問答無用とは、こういうことらしい。  それから撮影日までに、二度電話でやりとりした。内容は、服装や待ち合わせに関することで、短い電話だ。  それでも、ユズルから着信があると、なぜかドキドキした。  ユズルは本当につかみどころのない青年だった。私と一つしか違わないのにやけに落ち着いていて、物知りだ。それがなんだか悔しくて、私は大人びた言葉を使ったりしてみた。  けれど、使い方間違ってると鼻で笑われた。結局敵わないのだと諦めることにした。  数日後、私たちは廃墟の前にいた。  ユズルは、カメラの準備を終えると、廃墟の上を指さした。 「えっと、ここから階段をのぼっていこうとおもう」 「わかった」 「……緊張してる?」 「う、うん」 「だいじょうぶ。なにも心配いらないから」  ユズルは、私よりずっと頼り甲斐がある。 「ーーうん」  ちいさく頷くと入り口に足を踏み入れた。  市外地にあるこの廃墟は、もうずいぶん前から使用されておらず、建物と呼ぶにも気がひけるほどだった。コンクリートむき出しの壁、窓はすべて割れて、ガラスの破片さえもない。廃墟のまわりにはなにもなく、空き地になっており、ススキが黄金色に輝いていた。  私たちは、ほとんど手ぶらの状態で廃墟に入った。ユズルもカメラ一つだけで、まるで散歩するような足取りで、軽快に階段をのぼった。  三階の踊り場のような場所でユズルは、私を立たせた。と言っても、ポーズを指示されることも、着替えも、髪型もなにも言われなかった。ただ自然にしてくれればいい。それだけだった。  私は、ただそこにいてうつろに視線をさまよわせた。  撮影直前、ユズルに冗談を言ってみた。 「ヌードは、できることならしたくないわ」 「だいじょうぶ。興味ないから」  興味ない。それは、どういう意味だろうか。  ただ目の前にあるものを見つめる。  夕暮れどきの廃墟。  ユズルの真剣な顔。  夕日が割れた窓から射し込んでくる光加減、舞い上がる埃がキラキラと輝くさま。シンとした空間に、ユズルの足音だけがひびく。影のかかる私の姿。ただ立ち、遠くを眺めたり、そばに落ちている空き缶を見つめたりした。その間、ユズルは私から視線を外さなかった。心地よい虚脱感。  それから、しばらくしてシャッター音が二回連続して聞こえたあと、撮影は終わった。時間にして三十分ほどだった。  廃墟から出たところで、ユズルは、ありがとう、と言って封筒を渡してきた。中を見ると、一万円札が三枚入っていた。押し返そうとしたけれど、ユズルは受け取らなかった。 「今日はありがとう」  ユズルは言った。夕暮れどきの廃墟は、外から見ても美しかった。 「ううん。こっちこそ。お金なんていらないのに」 「いいんだよ。気持ちだから」 「うん」  封筒を抱き寄せるようにして包み込んだ。  夕方を背に向かい合う。背中がポカポカとあたたかかった。ユズルは、目を細めてこちらを見ている。瞳のなかに、夕日がうつる。真っ黒な瞳にオレンジ色の輝き。  ーーあぁ、なんてきれいな……。  私は目を伏せ、唇をキュッと噛んだ。  お金なんていらない。場所も選ばない。だから、またこうやって……。 「さよなら」 「え……」  突然だった。  ユズルのつぶやくような甘い声。 「さよなら」  もう一度念を押すように言われた。  私はえぐられるような感覚を抱いた。  なぜ、そんなことを言うのか。わざわざそんな風に言わなくてもいいだろうに。  怒りに似た悲しみは、私の腹中をぐるぐると渦巻いた。  別段なんてことのないこと。  それなのに、どうしてこんなにも不快なのか。  好きだから。いや、そうではない。  たぶん、あまりに身勝手だったからだ。だから、彼の「さよなら」にこんなにも苛立っている。  そうに決まっている。  だとしても、私には引き止めるすべがない。 「さよなら」  と、返した。  声が震えてしまわないように、ただそれだけを気をつけた。  去っていく背中。そして、ユズルはいなくなった。  その日の夜、ベッドのなかで、今日のことを思い出した。撮影は、想像していたよりずっと淡白なものだった。被写体として写り込んだ私はどんな顔をしていたのだろう。今ではもう思い出せない。そもそもユズルは二度しかシャッターを押していないのだ。ちゃんと撮れていたのか、どうなのか。彼はなにも言わなかったし、私もきかなかった。  そう考えたところで、無性に胸のあたりが苦しくなってきた。  私は起き上がると、携帯に手を伸ばした。  懐かしいとおもう気持ち。この気持ちの理由を知りたいとおもう自分がいた。  ユズルに訊いてもわかるわけないのに、それでも、もう一度会いたいと願う。  この感情の意味。  それが、なんなのか。  あそこに行けばわかるような気がする。  数刻後、私は廃墟にいた。  夜の廃墟は不気味だった。真っ暗で何も見えない。月の光さえない今日は余計にそう感じる。私は、廃れた入り口から足を踏み入れた。軋んだ床のにぶい音。雨の滴る音が重なって、自分の呼吸音がきこえなかった。階段をのぼっていく。グッショリに濡れた服から伝わってくる冷たさに、肩を震わせる。それでも、足を止めなかった。  私に対するユズルの興味なんて、さほどなかった。  結局のところ、それだけだった。モデル? そんな大層なことではなかった。ただ私はユズルのレンズにたまたま写り込んだ。背景の一部。それだけのような気がする。  家へ出る前、ユズルに電話した。ユズルは電話に出なかった。時間をおいて三回かけたけれど、単調な呼び出し音が流れるだけだった。  いてもたってもいられなかった。部屋着のまま、部屋を飛び出し、雨が降っているのも構わなかった。ずぶ濡れになりながら、街の中を走った。  どうしてこんなに憂うつなのか、どうして明日のことよりも今日のことばかりが脳裏に浮かんでくるのだろうか。  疑問ばかりを繰り返した。 「ここか」  階段をのぼりきったところで、ようやく立ち止まる。そこは、ユズルがレンズを向けた踊り場だった。夕暮れどきのあたたかな雰囲気はなく、夜はただ暗いだけでなにもなかった。そう、なにもなかった。それでも、私はここへ来た。理由なんてわからない。ただ、身体がここへ向かった。  私はうつむき立ち尽くす。前髪から滴る雨のしずく。ポタポタと不規則に落ちていくようすを眺めていた。 「なんでかな」  ポツリと呟いてみる。  胸のつかえ感が一向になくならないのは、憂うつな天気のせいだろうか。  黒くくすんだ天井は、まるで私の心を透過しているようだ。見ていると、ズンと重苦しい。  私は踊り場の真ん中までいくと、はぁ、と息を吐いた。ザァザァと降り続く雨。単調な音に身を任せながら、私は目を閉じた。 「やぁ」  振り返る。 「ーーえ?」  目を見開いた。  私は立ち尽くし、目の前にいる人物をじっと眺めた。 「ユズル……?」  震える声でそういうと、彼は頬を歪ませて笑った。 「はは、そうだよ」  不敵な笑みだった。 「そんな……まさか」  信じられなかった。ユズルがいるなんて、そんなことありえるのだろうか。 「幽霊ですか」  訊いてみた。 「幽霊ではないよ」  と、返事が返ってくる。  私はうつむく。  ユズルがここにいるわけない。信じられなかった。  頬を思いきりつねってみる。  すごく痛かった。これは、夢ではないらしい。  頬を押さえていると、笑い声が聞こえてきた。見ると、ユズルがおかしそうにしている。 「君やっぱり面白いね」 「そう? でも、ユズルのほうがおかしいわ。廃墟に住んでるなんて驚き」 「君、俺のことなんだとおもってるの?」 「冗談。ごめんなさい」  しばらくの間があいた。  考えていた。このモヤモヤする感じ。  無性にユズルにあいたかった。けれど、こんなところにきても会えるわけなかった。それでも、ユズルはいた。夕方撮影したこの場所に。  そんなこと、ありえるだろうか。  困惑していると、ユズルがそばへ寄ってくる。 「これ、見て」  そう言って渡された。  じっくりと見つめたあと、 「え……こ、れは」  ユズルを見た。  写真に写っているのは私だった。けれど、それは今日撮影されたものではない。ずっとずっと前のもの。 「なんで、私の写真を?」  私の声は震えていた。  けれど、ユズルは冷静だった。いつものように私のほうを見て、すこし笑って、でも真剣だった。 「ずっと君をさがしていたんだ。……事故に遭ってて、離れ離れになった」  事故。その言葉が、胸に突き刺さる。  じ……こ……。  あ、あぁ……事故か……あの。 「ぁ……」  かすれたような声しか出なかった。  私は、五年前飛行機事故にあった。たくさんの人が死んだ。そのなかに両親も含まれていた。私は奇跡的に助かった。けれど、事故以前の記憶はすべてなくなった。  私は孤独な生活を余儀なくされた。今でもそうだ。携帯には、事故以降知り合った知人や職場の人の登録ばかり。身内の人も、かつての友人も知らない。だから、新しい人生を送ることに決めた。  それなのに、今目の前にいるユズルは、私を知っているという。私は思い出せない。  それでも、このなつかしい感じとか、廃墟から漂う気配。そして、カメラ。ユズルに関する事柄すべてが、記憶の底にある秘密を開けようとしている。  ずっと気づかないふりをしていた。  けれど、もう我慢する必要などないのかもしれない。  うつむけていた顔をあげると、ユズルを見た。黒髪に切れ長の目。その瞳のなかにある影。けれど、その影の奥に見える奥深い色気。  なつかしいとおもう気持ち。この気持ちの理由を知りたい。  ユズルに声をかけられたとき、なぜかなつかしいとおもった。その意味を教えてーー。 「ユズル……私ね」 「なに?」 「今まで、記憶をさぐるのが怖かった。知っても、思い出せない自分に蓋をして逃げてばかりいた。でも、もう前を向かないといけないとおもう」 「うん」  ユズルはちゃんと聞いてくれている。私の言葉をちゃんとーー 「私はユズルのこと知らない。でも、今なら知りたいとおもう。だから……教えてくれる? 思い出せないかもしれないけど、でも、知りたいの。あなたは私にとってどんな存在だった? 私はどんな人だった? 自分のことなのにわからない。今までずっと……ずっと……逃げてばかりでーー……っ」  そのときだった。  ユズルが私を抱きしめた。強い力に、私は驚き、動けなかった。 「え……ユ、ズル?」  ユズルの体温が濡れた服ごしに伝わってくる。そのあたたかさに、おもわず私も背中に手を回した。  この匂い、この感触、この……気持ち。私はユズルを知っている。  記憶の扉がすこしずつ開いていく。バラバラになったパーツ。重なり合い、ゆっくりと一つの形へ繋がり、そしてーー 「あ……っ」  閉ざされていた記憶がよみがえった。  ポロリ。  このこぼれ落ちるのは、私の涙。ポタポタととめどなく頬をつたっていく。 「そんな……あぁ、ユズル。あなたは……私のーー」  ユズルが私を見つめる。 「そう。俺は君の恋人」 「……っ」  切ないくらいの優しくまなざしに、涙がいっそう溢れていった。  そう。  ユズルは私の恋人だった。  いつも写真を撮ってくれた。いろいろな場所でいろいろな私の表情をレンズにおさめていく。 「だいすき。ユズル」 「俺も」  愛し合っていた。ずっとそれが続くのだと信じてやまなかった。  けれど、私は事故に遭った。飛行機墜落。  轟音。悲鳴。泣き声。衝撃。そして、サイレンの音。地獄のような光景に私は、記憶をなくしたのだった。  泣きながら、ユズルを見た。いつの間にか、ユズルも泣いていた。 「ほんとうは君を見つけたとき、すぐに声をかけたかった。でも……できなかった。ごめん……ごめん」 「いいの。何も言わないで。ちゃんとわかってる」  わかっていた。声をかけられなかった理由。  それは、親せきから私に関わるな、と言われていたからだ。事故のあと、私はパニックを起こした。身に起こった悲痛な出来事、知り合い、記憶にある事柄を思い出すたび、私は叫び、失神した。目の前で両親の死ぬ瞬間を見た。それは、私にとって忘れなければ耐えられない現実だった。  眠りから目覚めるたびに、わめいて、泣いて、嗚咽する。そして、めいっぱい叫んだあと、また気絶するように眠る。  ある日、気持ちの良い朝を迎えた。 「あれ、私って……ダレ?」  私は記憶を無意識下で封じ込めた。すべて忘れて一からやり直すことで、狂うのを抑えたのだ。恋人を忘れてまでもーー。 「ごめんね。ユズル……あなたを忘れてしまうなんて」 「いいんだ。そんなの……」  だいすきなユズル。  もう離れない。  辛い過去を乗り越えて、私は生きていく。
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