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音ってふたもじ羨ましい
少年の日々に雨音がする。
――ザー、失敗、バシャ、あなたがあの時、ピチャピチャ。
聞きたくはない言葉を拒んだのか、それとも、聞きたい言葉を誰も聞かせてはくれないからか。
少年の望んだ声が、絶えることなく少年の耳に届いていた最期の日を少年は記憶している。
一番最期は一番最初であり、雨音の始まりでもあったから。
――まだ予約があるから。
――予告だよ。
――予告か、予告があるからチャンネル替えないで。
――CMの間だけだよ。
――いいから早く戻しなさい。
――はぁい。
ごくありふれた日常の一ページに、栞を挟んだ指が永遠にしゃぶられてふやけている。
あの日を最期に、母さんとの会話も、兄さんとの会話も、全部が雨音に埋もれて濁ってしまっている。
――ザー、予約、バシャバシャバシャバシャ、もう、コマーピタピタピタピタ。
――また母さ、ザーザー、まだだいじょ、ダバダバダ。
雨音の混濁に、少年は心の平穏を得ていた。
少年は雨音の夢をみるようになる。
――音だけの夢をみるって、変だけどさ、でもそうなんだからしょうがないよ。
少年は心の声に雨を降らさず思った。
――僕には、聞きたくない音が多すぎるんだ、夢でもそうなんだな。夢、なんだから聞きたい音を聞ければ良かったのに。
夢は雨の暗闇、雨に埋没した心身に肌の触りはない。
感覚器官が音だけに支配されて、肌も、味も、映像も、全部がバシャバシャいう。鼻の奥でザーザーいう音が、雨の日に逆上がりをしても、結局鉄の臭いはまた音になってザーザーいった。
少年は雨音の夢の中で、心底の安穏を得ていた。
しかし、その平穏な眠りは極端な恐怖感も裏に隠し持っていて、少年は薄く膨らむ寝室の一個体としても、時折眉間に皺を寄せた。
少女の日々に雨が降る。
鏡で瞳をいつまでも見続けた。
――すーちゃん、また鏡の前に立って。
――うん。
母親に注意をされるまで、自分の目の中に降る雨を探していた。
しかし、少女の瞳に雨は降っていない。少女が雨を降らせているのは少女のみる景色であって、自分はまだ景色になるには時間経過が足りなかった。
――雨が邪魔で、ストーリーがよくわからない。
少女は家族にばれないように眼球をモゾモゾ動かして、雨の隙間から世界を読んだ。
少女がみたかったはずの世界はみたくはないものの力によって威力を失くしてしまった。
――あれ、私の下着。
少女が最期に雨の降らない景色をみた日、少女はみたくはなかったもの、をみた。
雨、だった。と、少女は思った。
あれは凄い雨、だった。
――雨が止んだら、もう一度観たい映画リスト、大変な量になってます、レンタルDVDでも結構な値段よ、やれやれ。
少女は目を閉じると、頭の中で雨の降らない映画を再生した。破れた傘で雨の降る中を歩くように、頭の中の映画はずぶ濡れて風邪をひいていたから、少女は時折、くしゃみをもらってやっぱりあのリストはいつか消化しようと目を閉じたまま鼻をこすった。
少女は雨の夢をみる。
音のない夢だった。
無音の底が音を吸い込む夢の底で、雨の降る映像だけが五感を埋め尽くした。
――夢で映画が観られれば、お金、浮くのに。
少女は毎日降り続く雨の無声映画に、辟易しながらも濡れない雨を心の底で愛撫した。
音のない雨は静かで、心にあるはずの琴線が、景色の氾濫に名札を隠した。
少女は景色だけの雨に微笑んで眠っていた。
少年と少女の夢が交錯する。
重なって、音と映像になった。
――あれえ。
――あらら。
少年の雨音の中に少女がいて、少女の雨景色の中に少年が鳴った。
――姿はハッキリ、みえるんだけど。
――声はハッキリ、聞こえるんだけど。
少年の夢の中で、鏡面する湖に雨粒が天地を往来していた。
少女の夢の中で、鏡面する湖に雨音が天地を往復していた。
――でもハッキリ聞こえない。
――でもハッキリみえない。
少年の夢になかった雨の景色は少女を含んで明瞭に世界を構築していた。
少女の夢になかった雨音は少年を含んで明瞭に世界を鳴らした。
――近づいてみよう。
――側に、行ってみよう。
二人は雨の中を歩いた。なかった景色と雨音を共有して、少年の雨音は少し静まり、少女に降る雨は少し、勢いを緩めた。
雨の蛇口は開きっぱなし。では、ない。
少年も、少女も、自分の手に蛇口を握っている。夢でも消失しない現実の蛇口を。
――お邪魔、します?
少年は雨音の耳栓の奥にレールをみる、開通した線路を誰かの声が、発車した。
――うん。どっちだろう、お邪魔されてるのかしてるのか、微妙だね。
少女の声が雨音の中で聞き取れた。
その瞬間、少年は傘を差した。
映画監督が傘の柄として描かれた女優をモデルに一本の映画を撮りたいとつけ回してくる。
――これは、大分前にみた夢と同じ。
少年は夏の路地を歩いている。雨音が、傘の中で音を変えてやさしい。
――お邪魔、します?
ハッキリと声が聞こえる。
夢の中で、みえる映像、聞こえる雨以外の音、少年は傘を閉じられない。
――繁盛しているみたいじゃない?
少女は誰かを確認しようと近づいて、埃っぽい暖簾をくぐっていた。友達が始めたうどん屋は、招き猫も欠伸をすると噂で、心配になって寄ってあげた。
――うどんを茹でるお湯の音がする。暖簾の手前に男の子の姿があった気がしたけど。
少女はカウンター席に腰かけてブラウン管テレビを見上げた。再放送の時代劇がお涙場面を演じている。
――ハッキリみえるわ。里見浩太朗。
後から賑やかに入って来た男が隣に座ると、役者みたいに頬杖ポーズを決めてたっぷり間を使い、言った。
――うどんを、たった一杯。
――思い出した!! これ、中学生の頃みた夢だわ、この台詞がおかしくって私、パパに……。パパ、うけてた。
七味は小さな瓢箪、爪楊枝は変哲のない楊枝入れ。すすったきつねうどん。お揚げさんが甘くて出汁に降る雨は、ブラウン管テレビの時代劇にも甘じょっぱさを飛散していた。
雨降りにもハッキリしたうどん屋の夢、雨が降らなかった頃の夢。少女はうどんを食べ続ける、麺はちっとも減らなかった。
――うあ!!
――もう!!
少年は強引に傘を閉じ、少女は勢いよくうどんを丸飲みにした。
二人の夢に、鏡面湖が戻って来る。世界はまた雨音と雨景色だけになる。
――僕は音の方。
――私は雨の景色、映像、もう、音って二文字で羨ましい、音以外の言い方もなくって。
――絵、は?
――雨の絵? でも、一文字、まぁいっか。私は絵の方。
少年と少女は無重に在する夢空間を、雨音雨の絵分け合っていた。
近づいた二人に、雨音は静かで、雨の絵も穏やかだった。
濡れた体が透かした肌の色、下着の色、少年は絵の方の少女が身に着けた淡い水色の下着をみて、校舎に飛ぶ。
――夕焼け、ドヴォルザーク、部活終わりのこの、扉。
少年のみた夢の中で一番色鮮やかな夢が、色の粒に競うようにやって来た。
部活を終えた少年が自分のクラスに着替えをしようと訪れる。毎日の習慣でその日もそうしただけ。なのに、その日悲鳴を聞いた。そして、悲鳴のオマケのように淡い下着の色をみた。
――ごめんなさい!!
閉じた引き戸の向こうにした忘れ物は、遺失物センターの用紙に書き込めない名称で。
――スケベ!!
ああ、少年は鏡面湖に逆流する雨の中、これがあの夢の続きかとまた大きな声で謝った。
――ごめんなさい!!
――素直な人、いいのに、私もお邪魔してるし、あなたもそう、音の方と絵の方。どっちもお邪魔してるんだから、私がみせてるのも悪いんだし、謝らなくていいのに。
少女は鏡面に三角座りをして、スカートごと膝を抱えた。
胸に当たった膝頭が、雨に浸透して体の水圧を下げた。少女は俯いて言った。
――みせたのは、私が悪いの。
雨の絵が滝のように強くなって、少年の目に少女がぼやけ狂っていく。みえない、けど、みたい、少年は雨を叩いた。
――音の方さん。あなたを、みたくないわけじゃないのにねぇ。
少女は顔を上げなかった。
みたくなかったもの、が、少女の心に降り続ける。方向の種類がなくて、少女は鏡面に刺さって抜けない。
少年は雨を叩きながら、雨音に混じって声を聞いた。
――学校からこれが最後だって、言われたわ。
――アイツは父さんの失敗作だ。
――お母さんは?
――母さんは一人で良くやってくれてる、なのにアイツは。
――あの子には病気があるんだから、言ってあげないで。
――病院に引き摺って行こうよ。
――あの子、暴れるから。
――俺が殴ってでも。
――それは、もう少し、待って。
もう少し、待って。ザーザー、バシャバシャバシャ。あーあーあーあーあーあーあー、オーダーリン、あーあー、僕の右手を知りませんか、あーあーあーあー、こんな夜にお前に乗れないなんて、ああーあーあー、中島みゆきのオールナイトニッポン、あーあーあーあーあーあー、もう少し、雨の音が終わると僕は、あーあーあーあー、バシャバシャ、ザーザーザーザー。
――パパ。
少年と少女が雨で追い出した選択肢が、手足となって生えた。
少年は雨音をかいくぐって、少女の声を聞こうとする。
聞きたい声が、そこにはあった。
――絵の方、おい、絵の方。
少年は雨を叩いて、雨を裂いて、飛沫ビショ濡れで叫んでいた。
――僕らは、雨で、聞きたくない声、みたくないもの、を追い出したんだ。けど、な、聞きたい声だって、みたいものだって、あるじゃないか。おい、絵の方、君にみたいものは……。
少女は俯いた後頭部を雨に打ちつけられながら、少年の声を聞いた。うーん、みたいもの、みたいものではないですけどぉ。少女は未来を思った。私は母親譲りのいい顔をしている、スタイルもバレーのお陰でスラリ、私きっといい女になれるわ。OLなんかやっちゃって、いやその前に東京の大学。
ううん、少女は三角座りのままで体を振るった。雨の飛沫が少年に被った。少年の拳が叩いた飛沫と重なって、景色が開ける。
青い空、二人は喪服の葬列の中にいた。
制服姿で、雨はやんでいる。
少女はブラウスに透けない淡い色を、少年に自慢した。
少年は頬を紅潮させて小さな声で、
――ごめんなさい。
と言った。
すぐ傍に河の流れる道は真っすぐ、火葬場に向かって。遺骨の真四角は先頭を行く女がさめざめと抱いている。電信柱を追い抜く度、低く飛んだツバメが地面のミミズを浚っていった。
――音の方、さんは。
――うん。
――聞きたい、音は?
――君の声と、それから。
――私? でもこれ、夢、なのに。
――うん、夢でも、雨音以外は初めて聞いたから、それに景色も。
――うん、私も、雨以外に景色をもらった。音も。
クラクションが鳴る。葬列が分かれて、一方は河にもう一方は遠い街へと続く支道に消えていった。僕ら二人の葬列、どうせ夢だと、少年は少女の手を握った。
――もう少し、夢が続くなら。
――うん。
――話をしよう、このまま、雨のない葬列を歩いて。
――うん。
少女は少年の手を握り返す。強く。
――聞きたくない音は、たった一個、だった。
――私も、みたくなかったのは、ひとつだけ。
――他に、聞きたい音はいっぱいある。幾らでも言える。
――私も。
二人は道を歩き続ける、雨はもう降らない。
――音の方は、もう、終わり。
――絵の方も、もう、お終い。
止まなかった雨が止んだ時、二人の夢はまだ続いた。
――キリンって滅多に鳴かないけど、鳴くこともあるって。
――透明なカエル、知ってる?
――ヒロトの生声聴くまで死ねないよ。
――それ系だったら、私はジュード・ロウ。
――渋いね。
――いいじゃない、それから、サーカスみたいな。
――いいね、空中ブランコ、僕もみたい。
――プラネタリウム、よく行ってたの、忘れてた。
――何処の?
――え?
――夢の外でも会えるかもって思って。
――思い、出せない。
――残念。
――みたいもの、ホント、たくさんある。まだまだ終わらないよ。
――聞きたいものも。
――ピラミッド。
――水琴窟の音。
――虹。
――虹の声。
――そんなの、ないわ。
――聞こえるさ、きっと、今なら。
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