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ザー……。
雨が降っている。音を聞いた女、朝来野の感覚が告げていたが、洞窟で雨が降るはずがない。聞き間違いじゃないだろうか。
朝来野が考えている間にも、雨音BGMをライブハウスで使う大きなアンプで流しているような音が壁面に響いている。
冷房とは違う、しっとりした冷気。外の紫外線を気にして長袖のワイシャツを着ているが、その下の肌はすっかり粟立っている。カーディガンを羽織りたいが、外はセミもうんざりするほどの暑さで、カーディガンなんて羽織っていたら、洞窟につく前に倒れていただろう。
二の腕をさすりながら進んでいくと、広い場所に出た。前一方から向かって来ていた音が、朝来野を包み込むように広がった。
音と同じように広がった風景を朝来野は受け止めきれず、腕をさすることも忘れて立ち尽くしてしまった。
朝来野の直感は間違っていなかった。雨が降っていたのだ。
洞窟の最奥。その上から水が雨のように吹き出している。この湿度の高さはあの雨に起因するものだろう。
雨の手前に事務机があり、スーツ姿の男がいた。
矛盾があるというか、どこか錯覚じみている。雨も事務机も、洞窟には似合わない。これらすべてが青白いLEDライトで照らされている。
男が気づいたようで、朝来野に向かって手を挙げた。
「こっちに来て。遠くて話せないから」
肩に掛かるほどの長い髪と曇った眼鏡で、遠くからでは顔の造形が分からない。見る人によっては、洞窟に巣くう妖怪に見えるかもしれない。
朝来野はおそるおそる歩み寄る。今日は面接で来ているので、うろ覚えの社会常識を発揮して、イスの横に立って待機した。
男は首を傾げた。
「どうしたの? 座りなよ」
社会の常識を知らない人間らしい。同族だと安心して朝来野はイスに座った。
「失礼します」
控えめに言ったつもりの声が思いのほか響いて、声の調子が尻すぼみになった。
けれど、男はまったく気にしていないようで、前のめりになって言った。
「僕はこの洞窟の管理を任されている墨田だよ。今日からよろしくね」
朝来野は履歴書を出す前に、握手によって雇用契約が成立した。就職できたことを喜ぶべきなのだろうが、誰でもよかったみたいで素直になれない。朝来野は不得意な愛想笑いで差し出された手を握るしかなかった。
墨田の柔和で幼い笑顔だけが、朝来野の心を少しだけ軽くした。
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