健太

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健太

あの日から僕はこの場から動くことができない。 * 目の前には彼女のマンション。信号待ちの歩道からはいつものように彼女の部屋のベランダが見えた。シーツが風に揺れているのが見えた。だけど赤信号で渡るわけにはいかない。 そうこうしているうちに僕の頬に冷たいものがあたった。 「雨か。」 全く間が悪い。確かに天気予報は午後からの雨を告げていた。家を出るとき傘を持とうかと思ったけれど、降らなかったらただのお荷物にしかならないそれを持っていくのはなんとなく馬鹿馬鹿しかった。どうせ電車を降りたら数分の距離だ。走り抜ければ問題ない。そう思って傘を持たずに家を出た。 「参ったな、もうそこなのに。」 この交差点の信号は長い。ずぶぬれになる前にマンションに入りたい。見上げた先でシーツが不意に消えた。多分雨に気づいて取り込んでいるんだろう。 今日は僕の誕生日。親友と恋人が僕のお祝いの為に準備をしてくれている。 そう思うと口元に笑みが浮かんだ。ただ少し、ほんの少しだけれど不安があった。 彼女の目が僕を見ていない時がある。 僕を見ていながら違う誰かを見ているような気がするときがあった。 不安が的中する前に彼女を完全に手に入れたい。誰の手からも彼女を遠ざけたい。そのためには……。 奥手で臆病者と誰に言われるまでもなく自負している僕は一大決心をした。 僕はポケットに指輪を忍ばせていた。 誕生日パーティーの席で彼女にプロポーズするつもりだった。気持ちが急いたんだと思う。信号がまだ青に変わらないうちに僕の足は前に出ていた。 次の瞬間。 タイヤの軋み音と共に目の前にトレーラーが飛び込んできた……… 気が付けば僕の体に縋って泣く君を見下ろしていた。その君の後ろで慟哭する誠也を見あげていた。ピクリとも動かない自分の体。君に触れても通り抜けてしまう自分の手に気づき自覚した。
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