世界の雨と君の雨

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「今日はもういいーー早く帰れ!」 「一体いつになったら立派な社会人になれるの!」 「もうあなたとは一緒にいられない」  そう言われたのは一体いつの事だろうか。  会社の上司、母親、元彼女。  繰り返されるノイズを振り払うかのように、身体を左右に揺らし、上を向きながら走り続けた。  雨は、やまない。 「え、雨? .まじかよ」  コンビニ帰りの私を待ち受けるのは、今から本降りを控えているかのような雨だった。  イヤホンをしながら立ち読みしていたせいか、全く気づかなかった。  急いでコンビニに戻り、傘を購入しようと試みるが、何故か取り扱いをしておらず......。 「嘘だろ......」  最悪なことに、家からおよそ20キロ離れた場所でとある用事をしていた。  本来は歩いて帰るつもりだったが、流石に濡れながら帰るのは高校生までだ。  コンビニから出た私は、至ってまともな選択肢を取ることにした。 「仕方ない、か」  歩いて10分ほどの所にあるバス停まで、私は急ぎ足で歩を進める。  時刻は夕刻より少しばかり経ち、会社から帰ってくるサラリーマンが見られる頃である。 「うげ......」  普段は人通りの少ない裏道ルートで家へ向かう。  今回ばかりは人通りの多い道を避けることはできなかった。  道中、急ぎ足でハンカチを頭に置きながら走る人たちを見かける。  だが、そんな人は少数だった。  ほとんどが傘で隠れながらも、誰かと語らいゆっくりと歩く会社員ばかりである。  すれ違いざまに聞こえる音はこちらに関心を向けたものはないだろう。  それでも私にとっては全て、雑音でしかなかった。  走る事に注意を向けるが、人が溢れるほどに過去の傷と彼らの声が入り混じる。  雨は好きだ。  全ての人に平等な雫を分け与える。いつもの声が平等にかき消される。  雨が強まれば強まるほど余計な音を聞かなくて済むのだから。  だがこちらの存在を除去し、高らかに語り、笑う存在、肩を寄せ合う存在を心が許してはくれない。  度重なる過去の炎で、私の心は更に色濃く焦げていくようになっていた。    好きだったものが嫌いになるのはーーいつだってすぐなのだ。  人通りの多い所を抜け、いよいよバス停までたどり着く。  バス停には5、6人待っている人たちがいた。  ママ友の集まりだろうか。楽しそうに笑い、共感の声が繰り返されていた。  バス停に近づいた私を一度視認したが、一人が話をし始めれば元の空気へと変わっていく。  私は彼らと距離を空け、彼らに背を向け、ギリギリ濡れない所まで移動する 。  すると100m先くらいからか、大雨を遮るほどの甲高い泣き声が響いてきた。   次第に小さくなり、また大きくなるのを繰り返す。  近所でもよく泣き叫ぶ子どもはいたし、それに共通したものだろう。  特に何かする用事もなかったので、少し様子見をすることにした。  泣き始めてからおよそ30秒。一向に泣き止む気配がない。    少し不安になり、声の中心に視線を移した。  よくよく見てみると、子どもの周りには誰一人として人の存在が見当たらない。 ーー迷子なのか?  一瞬足が先走ったが、立ち止まる。  子どもの泣き声よりも異様な状況が、今まさに起こっていた。  少し身体をこわばらせながらも後ろを振り返る。  すると、先ほどと変わらないテンションで喋り続ける彼女たちがそこにはいた。  誰一人として、子どもの声に注意を向ける者はいない。  それどころか、傘を指す通行人たちも、まるでその存在がないものかのように歩いている。  その光景と、未だ泣き止まない子どもの声で正気を失いそうになった。  ママ友たちのトークは未だに止まることを知らない。  私が近づいただけで視線を移すレベルなのに、響き渡る声に気づけないはずがないのだ。 次第に彼らの雑音が色濃く歪んていく。 なぜ誰も気づかないんだ......?  大雨で声が遮られるとはいえ、子どもの泣き叫ぶ姿に対して世界は微動だにしない。  こういう状況であるときは、私より先に誰かが駆けつけ問題を解決してくれる。  その方が上手く解決してくれると勝手に思っているからだ。  だが2、30秒泣き続け、誰も構わない所を見れば、このままスルーするわけにもいかなかった。  内心では恐れながらも、周りに不審に思われないよう堂々と近づくことにした。  近づくにつれ、女の子が震えながら発しているスマホのライトの光と声が大きくなる。  紛れもない、そこにいるのは一人の子どもと確かな人の泣き声であった。 「だ、大丈夫、かな」  私がその言葉を発した瞬間、女の子は口をつぐみ、顔を上げた。 「お兄さん、誰?」  返答に一瞬戸惑ったが、少し間を置いて 「君が、ずっと悲しそうにしてたから。どうしたのかなと思ってね」 「うん。お母さんが......どこかに行っちゃったの」 「そうだったんだ。どこの方角に行ったかとかわか」  そう言いきろうとしたとき、小さな傘をコツンと膝に当てられた。   「えっと......」 「お兄さんびしょびしょだよ。ふふ」 「あーーあぁごめんね、傘持ってくるの忘れちゃって。はは」 「りんの傘に入れてあげるから入って」 「さすがにそれは」  そう言うと同時に女の子の顔が不機嫌そうになるのがわかり、   「さ、さすがにそれは僕も思いつかなかったなあ......なんて」 「りん、別に何も言ってないけど」 「え」 「お兄さん引っかかった〜 あはは!」  この子ども、侮れないな......。 「お兄さんをからかうなんてすごい育て方されたんだね」 「それ褒めてるの〜?」 「褒めてるよ! もちろん」 「ほんとにー?」 「ほんとだよ」 「ていていてい」 「いたいいたい。どうしたの急に」 「嘘ついたから、閻魔さんの変わりにチクチクの刑です」 「嘘じゃないから! もう......」  気がつけば、女の子と話す事に夢中になっていた。  彼女の大人びたやり取りには少々驚くものがある。  だがそれ以上に、泣き叫んでいた子どもの姿はそこにはなく、その顔を見れば自然と笑みが零れる。  こんなに明るく、楽しい雰囲気を味わったのはいつぶりだろう。  そんなことを思っていると、いつまでこれが続くのだろうかと不安になってしまう。 「あ、そうだ! お母さんのこと」  そう言い終わると、後ろの方からこちらを呼びかける女性の声が聞こえた。 「おーい!」  その女性は必死にこちらに向かってやってくる。  ほどなくして、こちらに来てはその子の事を抱きかかえるようにして 「ごめんね、りん。怖かったでしょ。ごめんね......」  それに呼応するように先ほどまで元気な姿を見せていた女の子は泣き崩れた。  数秒経った後、その子の母親らしき女性がこちらを見上げた。 「すみません、この子の面倒を見てくださったのですよね?」 「え、えぇ。まぁ」  少し照れながらそう言うと 「ほんっとーに、感謝いたします」  深々と頭を下げながら数秒その状態のまま動かずにいた。 「いえいえ! 偶然その子の声が聞こえて、一緒に遊んであげていただ......け」  最後まで言おうとしたが、遊ぶという表現がこの場合適切かどうか迷い、言い淀んだ。 「そうだったのですね! 何とお礼を申し上げたらよいのか」 「いえいえ、お礼なんて」 「あ! そうだ」  そう言うと女性は鞄の中からごそごそと何かを取り出し 「ずいぶん濡れてしまっているのであまり役に立つかわかりませんが」  そうして、ハンカチと折り畳み傘をこちらに向けて渡す。   「いえ、そんな! 大丈夫ですよ」 「私たちは今持っている傘がありますから気になさらないでください」 「ほんとですか?」 「はい! それにこの子の命の恩人ですからーーそれだけでも足らないくらいです」 「そんな......命の恩人だなんて」  雰囲気が落ち着いた私たちの間に、ささやかな笑みが零れた。  彼女からもらった折り畳み傘をひろげると、身体が暖かくなる感覚に陥った。 「お兄ちゃんすっごーいんだよ!」 「何がすごいの?」 「お兄ちゃんね、ほとんど初めて会ったのにね、りんがちょっとからかったら凄い育て方されたんだねって言ったんだよ~」 「!!」 「そうなんですか?」 「いや! それは紛れもなく誤解でして」 「ちゃんと言ってたよ~!」 「言うには言ったけど、そんなひどい意味じゃなくてご立派に育てられたんだなと思いまして」  余計信用されなくなるのではと焦り気味に話す。 「ふふ、大丈夫です。りんは昔から人をからかうのが上手な子なので」 「あ、そうだったんですね」 「えぇ。それに、あなたもきっと物凄い誠実なので、凄い育て方をされたんですね」 「いやいや......」 「ふふ、お返しです」 「やはり親子は似るものなんですかね」 「そういうものなんですかね......ふふっ」 「ははは」 「なに笑ってるのー? 変なの~」  ひと段落ついたところで胸をなでおろした。  普段絶対関わらない人たちとの会話。  学生だった頃の、友達と喋る帰り道かのような安心感を彼らは与えてくれた。  次第に心身ともに暖かくなってくる錯覚を感じていると、奥の方で大きなライトが動くのを確認した。 「あの、すみません。バス待ってたのでこの辺りで」 「あら、そうだったんですね! 引き止めてしまってごめんなさい」 「いえ、久しぶりに素敵な方とお話できてとても有難かったです!」 「ふふ。面白い表現をされるお兄さんですね」  自分でもなぜ。と呆気に取られていると、 「ほら、りんもちゃんと挨拶して。お兄さん帰っちゃうよ?」 「もう帰っちゃうの?」 「ごめんね。バスが来ちゃったんだ」 「そっかあ。じゃあまたね!」 「また」  言葉では別れを告げたが、身体は言う事を聞いてはくれない......と思っていたのだが、スルスルと歩を進めることができた。 「あ、お兄さん!」  子どもの咄嗟の声に慌てて小走りしていた足を止める。 「なに?」 「これ、あげる」  その子がポケットから取り出したのは、くしゃくしゃになった紙に包まれた飴だった。 「飴ちゃんか! はは、ありがとね」 「うん。お兄ちゃんもりんと一緒だから」 「きっとこれ食べてたら元気なるよ」 「え?」 「またここで会おうね!」  そう言って、彼女たちは手を振りながら遠ざかっていった。  私は少しの間その場で立ち尽くていた。  そして横切るバスを見た瞬間、思い出す。  その時に初めて気づいたのだ。  あれ。  ノイズがなかった......?  雑音があの空間にはなかった。    私は彼らの元を離れ、バス停まで向かう。  すると、先ほどまで待っていた客人たちは既にいなくなっていた。  発車時刻を確認すると、到着してからはまだ余裕があったみたいだ。  後ろを振り返ると彼女たちの姿はそこにはなかった。  あの泣き叫ぶ声は当然過去のもので、今聞こえるのはバスの排気音と雨音だけ。  私は発車するギリギリまで外の待機席で座ることにした。  先ほど会ったのは幽霊なのだろうか。  幻であったとしてもそれは極上の時間だった。  ノイズを感じない時間。  大雨にも負けない大きな優しい音がそこにはあった。  まだあの時の優しい音色と温度が忘れられず、自然と頬が緩むのを感じる。  物思いにふけっていると、バスのエンジン音が本格的に作動した。  立ち上がり、ゆっくりと歩き始める。  不思議とその場から離れることを苦に感じることはなかった。  身体が軽くなるのを感じ、私はバスの中へと入ることにした。 「今日はもういい。早く帰れ!」 「そんなんだといつまでも俺の元を離れられんぞ。全く」 「一体いつになったら立派な社会人になれるの!」 「お母さんは心配なのよ。貴方がちゃんとやっていけるのか」 「もうあなたとは一緒にいられない」 「何を言ってるの? 悪いのはお互い様じゃない」  気づいたら、仰向けになっており、微かに揺れを感じた。  ぼんやりとした目が次第に現実のものになっていく。  雨に濡れた衣服の独特な匂い。 「......バス?」 「大丈夫ですか?」  突然聞こえた声は左側から聞こえてきた。  聞いたことのある音だった。 「あ、あぁ」 「あれ、僕寝てました?」 「ええ。ただずっとうなされていので大丈夫かなと」  耳元で囁く女性の手が、私を座席から落とさないよう左側からお腹を支えてくれていた。 「すみません。いつものこと、なの......で」  ゆっくりと声の方へ視線をずらしていくと、 「あれ、ど、どうしてここに!?」  そこには、泣き叫んでいた子どもと母親の存在があった。 「雨が強まってきたのでせっかくならと。ふふっ」 「お兄さん! ただいま」 「こら! ただいまはそんな時に使っちゃダメ」 「はは」    彼らがどうしてここにいるかはわからないが、まず第一に感じたのは暖かさだった。 「突然起き上がって大丈夫ですか?」 「えぇ、不思議と元気です」 「ふふっ。それはよかったです。夢の中でも途中笑っていたので、どうしようかと思っておりました」 「笑って......」  微かに残る記憶から、悲しさを、暖かく優しい思いがじんわりと包むような気持ちになった。 少し首をひねり周囲を確認した。  どうやらバスに入って席に座るとすぐ眠りについたらしい。  腕時計を確認すると、発車してから20分も経っていないみたいであった。  目覚めの気分は長時間睡眠よりはるかに気分がいい。  私が少し周りを気にしていると、彼女たちは気を遣ってくれたのか優しく微笑み、黙り込んだ。  伸びをし、少しばかり外を眺める......だが、思わず後部座席を覗いてしまった。 「あれ」  そこには知らない会社員たちが数人座っていた。  少し声が大きかったのか、眼鏡をかけた中年男性がこちらを睨む。  さっと前方へ振り返る。  自分がどうして違和感を覚えたのか少し頭を悩ませていると、彼らの存在を思い出した。  私より先にバス停にいた、ママ友たちのことだ。  彼らはバスに乗らなかったのだろうか。  私がバス停から離れたのは10分にも満たなかった。  その上、近くにコンビニなどもなく、雨宿りできるような施設もなかったはずだ。  そんな事を考えていると、次の駅のアナウンスが聞こえてきた。 「ママー。ここで降りるのー?」 「いや、まだここじゃないよ」  すると後ろから、 「すみません。通ってもいいでしょうか?」  先ほど私を睨みつけた眼鏡の中年男性が少し強い口調で言う。 「あ、ごめんなさい! ほらりん、こっちに寄って」 「はーい」    特に何事もなくその場は解決した。  しかしそのやり取りで私は更なる違和感を覚える。  この感情は一体何なのか?  ふと視線を移すと、さっきの失態に少し頭を抱えた母親と、こちらを見てニヤついている少女の顔が見えた。  その時気づいたのだ。  彼らは紛れもなく、人間なのだと。  そしてそれと同時に気付いたことで私は大きく動揺する。 「ノイズが聞こえ、ない?」  眼鏡の男性が発した言葉には、何のノイズすらなくそのままの音だった。  それだけではなく、彼女たちも幻ではない。普通の生身の人間なのだ。  高速で頭を回転させて、子どもと出会い母親と話した事を思い出す。  彼女たちが幽霊なんて確証はどこにもなかった。  それから数秒ほど無心でいると、頭の中で何かが弾ける音がした。  私が見ていたノイズこそが空想だったのだ。  そう思った瞬間、今まで不動だったノイズ混じりの環境音と人の声が消失した。  冷静で、素直な音。  雨のうちつける音。バスの走行音。運転手がレバーを操作する音。  何もかもが素直な声として聞こえた。  ママ友たちが幻だったのかは分からない。  それでも、今目の前の彼女たちがそこに存在しているだけで、ノイズを気にならなくなっていた。  私は目から零れるものを抑えることが出来なかった。  些細な事で、世界の色は一変した。  それが必ずしも良い方向へ転ぶわけではないだろう。  だが、変化をする事を拒んではいけない。  すぐそこに、今までの常識を超える、新しい景色が待っているのだから。  止まない雨はないのだ。
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