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ぴちゃん、という音を聞いて目を覚ます。
どうやらいつの間にか眠っていたらしい。
音の発生源を見つけるべく、辺りを見渡した。
すると、休憩所の屋根の一箇所に穴が開いているのが見つかった。
その個所から入ってくる雨が、徐々に床を侵食していく。
―――ここも、もう手遅れだ。
「おはよう。ふあ、よく寝た」
と、横で伸びをしながら姉が声をあげた。
「おはよう、姉ちゃん。起き掛けに悪いニュースなんだけど、あれ」
俺は雨漏りの場所を顎で示した。
「ん、あー。そっかぁ」
残酷な現実を直視して、姉はしばらく考え込むようにした。
神妙な表情が数分続き、やがて口を開く。
「ごはん、たべよっか」
「へ?」
「ごはん。出発する時、入れて来たでしょ?」
「そ、そうだけど」
「まずは腹ごしらえよね」
そう言って微笑む姉を見て、俺は持ってきていたカバンから弁当箱を取り出す。
残った食料を全て入れた、正真正銘最後の食事だ。
俺は弁当箱を開き、姉は水筒のキャップを開けた。
「「いただきます」」
二人の声が重なり、俺たちは食べ始めた。
まずは白米から。
飲み水を優先して水がほとんど残っていなかったため、なけなしの水で作るしかなかった、ぼそぼそしたお米。
いつの日か食べていた米とはほど遠く、味気なかった。
次に、ただ焼いただけの豚肉。
塩もこしょうも使い切り、味付けも何もないただの肉だ。
噛むたびに、記憶の中のナニカがひっかかって悲しい気持ちになった。
後は、野菜の切れ端だ。
普通なら食べないような皮に近い部位や、捨ててしまうような切れ端などを、ひたすらに焼いたものだ。
これも当然、おいしくなんてなかった。
完全に無味で、元が何の野菜だったのかわからないほどだった。
「私にも私にも」
口を大きく開く姉。
俺はその口に、肉を乗せた白米を突っ込んだ。
すると、ふふ、と笑う声。
「おいしい」
その言葉を聞いて、自分の中の何かが弾けた。
『お母さんの料理、おいしいよ』
『お父さんが作ってんの珍しいね』
『誕生日、おめでとう!』
「おいしいわけ、ないじゃん……!」
涙がこぼれた。
感情が体中で暴れまわって、衝動的に弁当の中身をかっこんだ。
「全然、おいしく、ないよ!」
いつかの幸せな思い出が。
自分の中の大切な思い出が。
心を埋め尽くして、やまない。
「もっとおいしいものはたくさんあった!……たくさん楽しいことがあった!友達と色んな場所に行ったり、家族でお祝いしたり、恋したり、色んなことがあったのに!それなのにっ!」
ただ叫ぶ。
あふれる感情のまま、ひたすらに。
「死にたく、ないよっ……」
爆発した熱量が、瞳からこぼれた。
それを見て、姉が背中をさする。
「泣きな。泣くっていうのは人間ができる、とても人間らしい行為だ。それは、今しかできないんだから」
姉の気遣いが、今ほど染みたことはなかった。
俺は何に憚ることもなく、自分の感情の赴くまま、一人の人間として、泣き続けた。
「「ごちそうさまでした」」
二人で手を合わせた。
最後の食料も、飲み水も、食べ尽くした。
雨漏りはどんどんひどくなる。
もう、できることは。
「じゃあ、行こっか」
「…………」
「恐い?もしダメなら、あんたはここにいなさい。でも私は」
「いや、一緒に行くよ」
俺は決心した。
死ぬのは怖い、でも。
一人ぼっちでいるのは、それより嫌だ。
「わかった」
傘を広げる。
俺が右手で傘を持ち、姉が左手でそれを支える。
そして。
一歩を。
二人で、一緒に、踏み出した。
「俺はさ」
そこからの会話は、気遣いとか、優しさとか、そういうものとは無関係のものだった。
思ったことを言うだけの、心の上澄みを言葉という形にして空気に乗せる。
それだけの行為だった。
「俺は姉ちゃんのこと、あんま好きじゃなかったよ」
「私もよ」
「というか、よく知らなかった。でも、傘を差したあの日から」
「私を、雨から迎えに来てくれた日ね」
「うん。あの時の姉ちゃんの、すごい安心したような顔を見て、なんか、すごく」
「知りたくなった?」
「そう」
「私もよ」
くすりと姉は笑った。
「迎えに来てくれたあんたの心配そうな顔を見て、私も歩み寄りたいと思ったんだから」
「二人でいることが多くなって、仲良くなったよね」
「というか今までが話さなさすぎたんだけどね」
二人で笑い合う。
それは久しぶりの、心からの笑いだった。
空が黒くなり始め、空気が冷たくなる。
鼻孔を通り抜ける風が重くなった。
一歩進むたびに、恐怖が張り付いてくるような気がする。
それでも。
触れる姉の体温が、恐怖を和らげてくれる。
「……あ」
全身を襲う激痛。
ふと上を見ると、傘が溶けていた。
「ここまでだね」
傘の柄から手を離す。
そうして手持ち無沙汰になった右手を、姉の左手が掴んだ。
「最後に、何か言いたいことある?」
よりそうような、姉の視線。
この優しさに、数えきれないほど救われた。
だから俺が最後に言いたいのは。
「俺はさ、この雨が憎いよ」
「……うん」
「両親も、友達も、大切な人たちも、みんなこの雨のせいでいなくなった。別れの言葉も言えずに、さよならした」
「うん」
「でも、こうして最後に姉ちゃんと話せたと思うと、少しだけ。この雨も悪くないって、思っちゃうんだよな」
「何それ、……馬鹿ね」
俺が伝えたいのは。
「今までありがとう。姉ちゃん」
はっとした表情で、姉は俺を引き寄せ、抱きしめた。
「うん。こちらこそ、ありがとね」
冷たく、暗く、痛く、重く、雨が鳴る。
けれどそんなことは意に介さず。
ただ静かに、強く、でも優しい温もりで。
溶けあう存在を保証し合うように、二人の思い出が消えてしまわないように。
俺たちは、いつか終わりが来るその時までずっと、抱き合っていた。
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