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大きな傘は俺たちをすっぽりと包み込み、しっかりと役割を果たす。
透明なソレは、全く邪魔することなく景色を見せてくれる。
いびつに歪んだビルが見える。
工事途中の家や、無造作に転がっている自転車が見える。
でも。
これだけ人が生活していた痕跡があるのにもかかわらず。
人の気配だけが、一切ない。
それは本来、とても不自然な光景なのだと思う。
けど多分。
「これが当たり前と思ってるのが、一番不自然だよな」
「ん?何か言った?」
「いや、何でも」
声に出てしまっていた。
姉は単なる独り言でも絶対に聞き返してくる。
それがうっとおしいと思う人もいれば、話しかけてくれて助かるという人もいるだろう。
俺は前者でもあり、後者でもある。
つまりは……いや、どうでもいいか。
三分ほど歩いたろうか。
俺たちは見覚えのある公園に到着した。
「……あ」
「どしたの、姉ちゃん」
突然、姉が足を止めた。
それからぼんやりと、俯瞰するように公園全体を眺め始める。
「…………」
横から見るその顔が。
姉の今まで見たことのない表情で。
俺の知らない感情が湧き上がって。
気付けば勝手に口が開いていた。
「何かあったの?ここで」
姉に話を聞くことは基本しない。
話しかけるのはいつも姉の役割だから。
でも今回だけは、立場が逆転したようだった。
「うん。そうなの」
「へえ。ちなみにどんな?」
「小さいとき、友達とここで、いっぱい遊んだんだ。色んな色んな、それはもう色んな遊びをした」
「……」
「だからここには、私の思い出がいっぱい詰まってるんだよ」
俺はそれ以上掘り下げて聞くような、野暮なことはできなかった。
だって姉の表情は、自分の大事なおもちゃ箱を隠すような、少女の顔そのものだったから。
広々と広がる公園。
その様々な場所で、たくさんの出来事があったんだろう。
それはもうとびっきり、思い出に残るたくさんが。
「お願い。ここにあともう少し、いさせて?」
「……わかった」
感傷に浸る姉の横顔を見つめながら、俺はしばらく、黙って立ちつくしていた。
「あ、ここ」
雨の匂いに慣れてくるくらい歩いて。
俺は足をとめた。
そこにはずいぶんと見慣れていたはずの家が建っていた、はずだった。
いや、建ってはいる。建ってはいるが、壊れている。
瓦屋根はぼろぼろとはがれ、家に入る扉は外れかかっている。
かつて美しく植えられていた庭の花々は、一つ残らず枯れつくしていた。
「ここが、どうかしたの?」
「えっと……友達の家」
「ダウト」
「あう」
一瞬の淀みから看破された。
やはり姉は他人の嘘を見抜くのが抜群にうまい。
「んー、その感じは多分、片思いの相手か……恋人か」
「あうう」
鋭すぎる。
何でそこまでわかるんだ。
「で?どうなの、実際」
「……恋人、だった人」
「だった?」
「うん」
あの人についてはあまり話したくはない。
あれは自分の中で完全に終わりにしたことで、もうずっと掘り返さないと決めた思い出だ。
だからそれを語ることなど―――。
「最初から話してよ。なれそめから、さ」
でもそんなことは、姉には全く関係ないようだった。
自分のことは全然話さないくせに、他人の深い所に入るのに躊躇がない。
ずぶといというか、なんというか。
いつもなら話してしまうが、今回は違う。
この思い出だけは、俺は―――。
「今話さないと、もうずっと言うことないでしょ。いいの?大事な思い出を錆びれさせたままで」
「……っ」
「こんなときでも思い出してもらえないなんて、その子、可哀そうね」
「……わかったよ!ああもう、俺の負けだよ!」
根負けした。
結局話すんじゃないか、俺。
姉は強し、ということか。
けど本当はそれだけじゃない。
俺もあの人のことをここで思い出さないのは、薄情な気がしてしまったのだ。
思い出は箱にしまったままじゃダメで、たまには箱から出してあげないといけないのかもしれない。
うん、そんな気がする。
あの人もきっと、そう思うだろう。
「……傘を貸してくれたんだ」
「傘?」
「初対面の時」
やや困惑した表情の姉。
こういう顔は珍しい。
「中学生の時天気予報なんか見なかったからさ、雨が降ってきてるのに気づかなくて」
「うん」
「学校から帰れなくて途方にくれてたんだけど、その時会ったんだ……あの人に」
話しているうちに記憶が鮮明に蘇ってくる。
忘れもしない中二の6月だ。
『傘ないの?』
『え?あ、うん』
土砂降りの雨を眺めながら、俺はそれが止むのを待っていた。
一時的な通り雨で、すぐに止むのは瞭然だった。
だから別に、傘を借りる必要はなかった。
『じゃあ一緒に帰ろ?ほら、中入って』
ばさっ、と傘を広げ、一緒に行くように手を招く彼女。
純粋で屈託のない笑顔が、俺から拒否の選択肢を排除させていた。
『こうして雨の中を歩いていると、まるで世界に二人しかいないみたい。他の景色や音があいまいになって、確かなのは傘の下の空間だけ。不思議だね』
そう言ってころころと笑う彼女の、肩が触れる。
柔らかな熱の刺激に驚いて、俺たちは目を合わせた。
瞬間、今まで感じたことのない何かが、俺の中でほとばしった。
恐らくその時から。
俺は彼女に、恋をしていた。
彼女はクラスメイトだった。
特に話したことはなく、とらえどころのない、ミステリアスな印象を勝手に抱いていた。
しかし実は向こうも、俺に同じような印象を持っていたらしい。
同族嫌悪の真反対、似た者同士は惹かれ合うの類似品。
初めて話したその日から一緒にいることの多かった俺たちは、いつのまにか恋人同士になっていた。
「へえ、いい子そうじゃない」
「うん、良い人だった。優しいのは勿論、一緒にいて気が楽だったんだ」
「ふうん。それなのに別れちゃったんだ?」
「……それは」
『さよなら』
『え……』
『私たち、お別れしましょう』
いきなりだね、とか。
なんで?とか。
そういった言葉は出てこなかった。
俺は彼女の言葉を受け止めることしかできなかった。
『そっか』
『……じゃあ、またね』
『……うん』
こちらを見る彼女が、何か言って欲しそうな表情で。
思わず胸が痛んだ。
でも、言葉は何も出てこなかった。
彼女といる時は自然体でいられた。
家族といる時みたいな、気を遣う必要のない関係性。
そんな関係が好きだった。
ただ一つ、家族と違うことがあるとするなら、それは。
彼女は大事なことは何も言ってくれなかった。
……全く同じことが、俺にも言えるけれど。
通り雨みたいな出会いが途切れた後も、俺は彼女の家の近くを通りすぎることがあった。
彼女の幸せそうな声が聞こえる度に、俺はずっと同じことを考えていた。
あの時、彼女はなんて言って欲しかったのかと。
俺は、何て言えばよかったのかと。
「そんなことあったんだ。随分とまあ、良い経験したもんだね」
「そう、だね」
「……生きてるといいね」
それが姉なりの気遣いということはすぐにわかった。
優しい姉は相手への配慮を絶対に忘れない。
俺への最大限の優しさからの言葉だったのだと思う。
だけど。
「もう死んでるでしょ」
希望的観測なんてできるわけがない。
目の前の朽ちた家からは、微塵も喜ばしい可能性なんて感じることはできず。
ひたすらに、無情な現実が展開されるばかりだった。
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