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朝になったら、またスイは居なくなっていた。
いつ帰ってくるか、わからない。
これもザラにある事だ。
半袖の腕に少し肌寒さを感じながらベッドから這い出した。人肌恋しさとかじゃない。北京は真夏でも朝夕は気温がぐっと下がる。
顔を洗ってパソコンの電源を入れる。俺の今の役目はサイトの管理だ。
立ち上がるのに時間がかかるから、外で朝食を食ってくる。油条っていう、砂糖を塗してないチュロスに似た揚げパンとパックに入った豆乳を腹におさめて帰ってくると、ダイレクトメールが届いていた。
中国語の文面だから読めない。でも毎回同じような文体だから何が書いてあるか検討がつく。翻訳ソフトを使って訳すまでもない。
別のサイトのパクリだとか効果がなかったから返金しろとか、こういう問い合わせがひっきりなしに来る。海賊版が出てから爆発的に増えた。
返信は複数パターンが用意された定文型の文章をコピペするだけだけど、こう数が多いと中々面倒だ。SNSでもこちらが叩かれている。
なんでスイは何もしないでほっとけって言ったんだろ。
何日か経っても事態は悪化の一途をたどり、ユーザーは激減した。スイも帰ってこない。指示を煽っても「もう少し」とだけ帰ってくる。
「お前なあ、引っ張れるだけ引っ張ろうっつってもそろそろ足がでるんじゃねえの?」
『構わないよ。今は、何もしないで。相手から何を言われてもね』
スイは通話を切りやがった。
何もするなって言われても、気が急いてしまう。問い合わせフォームには嫌がらせとしか思えない文章が届くし、あっちのサイトには新しい動画がアップされてて盛り上がりを見せている。「トリップできる」とか「めちゃくちゃキマる」とか過激な文言まで飛び交って、盗賊どもは宴会騒ぎだ。ますます形勢は不利になってきた。
数日後、海賊版のサイトの管理人から、偽物は手を引かないと訴訟も辞さないとかドヤったメールが来た。本物かどうかわからないけどそれっぽい書類のPDFまで付いてた。よくやるよ。
一応スイに転送しておいた。答えは驚くべきものだった。相手に全部くれてやれって。
動画もパスワードもユーザーも。サイトも閉鎖しろときた。
「お前マジかよ」
『うん。サイトがメインなわけではないし。そろそろ危うくなってきてるしね』
電話の向こうのスイの声は、凪いだ湖面のように落ち着いていた。
「こんなんハッタリだろ。折角いいところだったのにさ。お前だって何日もパソコンに張り付いてただろ」
『・・・レンは優しいね』
「は?!」
『見ていてくれる人がいるって、嬉しいものだね』
笑顔が思い浮かぶような穏やかな声色に、なんだか耳がくすぐったくなって、「知るか」って通話を切ってやった。
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