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「……ぼくは、たったひとつだけ、大事にしていることがあります」
「……うん」
「歌を、歌うこと。何より好きで、歌っている間は、苦しいことを全部忘れられる。だけど、母親は許してくれないんです。ぼくは、官僚になるんだ、お金を稼ぐんだって、そういって、全部把握していないと気が済まない、拘束するタイプで……父は仕事で家にいないことが多くて、母がそうであることを知らないと思いますけど」
沙雪以外に、こうして家のことも含めて話すのは初めてであった。なんとなく、胸のつっかえがとれた気がした。
「大学に行くって言って、亀戸天神社に行って、マツさんと話して歌を歌う。それがぼくの癒しだった。週末は、母は出かけることが多いので、その隙を見て外に出るようにしていました」
時間帯が“夕方”でもあるのはそれが理由だった。買い物などで家にいないタイミングを見て、亀戸天神社に行っていたという。
「でも、ある日から嫌がらせを受けるようになって。初めてのことに戸惑って、まっすぐに攻撃を受け止めてしまったぼくは声が出なくなりました。歌いたいのに歌えない、苦しさを解放していたはずなのに歌で苦しむ、もうどうにもならなくなって、苦しくて、生きているのに呼吸ができなくて、食べたものも吐くから体は弱くなっていくし」
自分がみじめであることを痛感するようになってしまい、すっかり気がめいっていた。
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