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第一話
「千夏、髭剃りをくれ」
「あいよ」
私は、カウンターの上におかれた小銭を確かめて、ひょいと、幼馴染の谷崎徹に髭剃りを渡した。
毎度のことながら、わざわざパンツ一枚になってから買いに来なくてもいいのに、と思う。
私の名前は月野千夏。世間では『嫁き遅れ』年齢といわれる二十六才とはいえ、まだまだ妙齢の女である。とはいえ、十三の時から、この銭湯の番台に座っている私は、残念ながら、男性の全裸に顔を赤らめるという初々しい感情は、既に失って久しい。
うちの『月の湯』は番台に座ると、脱衣所は男女ともに丸見え状態である。
去っていく徹の気配を感じながら、眉一本、動かさないように努め、私は脱衣所に背を向けた。
幼馴染の徹は、事あるごとに番台に『半裸』で声をかけにくる。用があるなら、服を着た状態で来ればいいのに、わざとやっているとしか思えない。
徹の仕事は消防士。
細身のように見えて、実に鍛え上げられた身体をしている。要するに、その肉体を見せつけたいのだ。アホである。黙ってシャンとしていれば、端整な顔をしている二枚目なのに、と思う。
「素敵な大胸筋ね」とでも言えば満足なのだろうか?
言ったところで、やめてはくれないだろう。どうせ徹は、私を女とカウントしてはいないのだから。
男性の全裸に心が動かない私ではあるが、女として見られていないその態度には、かなり胸が痛い。だが、そんなことで傷つく自分を知られるのは、もっと嫌だ。
徹とは物心ついた時からの知り合いだ。私の亡くなった父親と、徹の父親が既に『幼馴染』という、ベタベタなご近所づきあいなのである。
遠くの親戚より、近くの他人。
そんな言葉があるが、月野家と谷崎家はまさにそんな感じだ。
母を早くに亡くした私に料理を教えてくれたのは、徹の母である真理子さんだし、二十歳の時に父を亡くした時、助けてくれたのも、谷崎の家の人間だった。
今、年の離れた弟、秋人を大学に行かせながら、親のあとをついで銭湯を切り盛りしていられるのは、谷崎家の支えがあるからである。ちなみに、うちの銭湯のボイラーを担当してくれているのは、徹のお爺さんの松吉さん。
徹の両親は、うちの隣で古本屋さんを営んでいて、徹のお兄さんである剛兄さんは、サラリーマン。
いずれにしても、血はつながってなくても、住む家は違っても、ほぼ家族のようなものだ。
私はふうっと大きく息を吐き、手元のファッション誌をめくる。
『働く女性の素敵なファッション』
そんな特集が目に飛び込んできた。
私もいわゆる職業婦人には違いないが、こんなオシャレなスーツを着込む機会はなく、なんだか時代に置いていかれているなあ、と寂しくなる。
突然、バタバタと女性が入ってきた。
「助けてください」
すらりとした若い美しい女性だ。
今読んでいたファッション誌から、飛び出てきたようなスーツ姿。保護欲を誘う、怯えのいろを映した潤んだ瞳で私を見上げた。
「へんな男につけられていて」
私は番台から降りて、女湯の入り口の暖簾から外を覗いた。
暗い道影に、人待ちをしているかのような男性の姿が見える。夜だというのに、帽子を深めにかぶっていて、色のついた眼鏡。黒っぽいスーツ姿。露骨にアヤシイ。
時刻は八時を回っている。このあたりの商店はもう店じまいだから、彼女としても助けを求める場所はここしかなかったのだろう。
「あなた、お家は?」
「つばくろです」
つばくろというのは、ここから十分ほど歩いたところにある住宅街だ。おそらく、一人暮らしのお嬢さんなのだろう。
初夏のせいで、女性の服装は露出が多くなっている。彼女の服は、スーツでお堅い格好ではあるが、ミニのタイトスカートで、くびれた腰からヒップラインがしっかりとわかるデザインだ。しかも、すらりとのびた細い脚は、扇情的に見えなくもない。そして、何より、楚々とした美人である。
「警察に電話する?」
私の問いに、彼女は首を振った。
「別に、何かされたわけじゃないし……警察ざたにしたら、恨まれちゃうかも」
彼女の言いたいことは、よくわかる。
警察ざたになれば、かえって彼女はあの不審者に名前をさらすことになりかねないし、恨みを買う可能性もある。そして、『まだ何も起こっていない』以上、警察が何かしてくれると期待するのは無理だろう。
私は彼女にとりあえず脱衣所に入るように言い、番台から、男湯の徹を呼んだ。
五分ほどして。
「何の用だ?」
徹の声に振り返ると、徹は、パンツ一丁姿で濡れ髪を拭いていた。
いや。そこ、着替えてからでいいから、と思ったが、彼なりに急いでくれたのかもしれない。
「つばくろまで女の子を一人、送っていってあげてよ」
「女の子?」
「変な男につけ回されているんだって。裏から送っていってやって」
「……俺、風呂、入ったばっかりだったンだけど」
「次は、無料でいいから」
私の言葉に、徹は首を振った。
「風呂はいいから、映画、一回おごれよ」
風呂代より、はるかに高い。しかも、なんで映画? と思ったけれど。
青ざめた顔で怯えて、逃げ込んできた女の子を放置できない。
「わかった。お願い」
私は番台から飛び降りて、もう一度外の様子をそれとなく探る。
うちの風呂屋の出口が見える道路の反対側で、男は相変わらず立っていた。しかも、サングラスをかけたままである。
「それで、どうするって?」
白いTシャツとジーンズ姿の徹が番台のそばで問いかけた。
「お嬢さん、こっちへ」
私は脱衣場にいた女性を呼び、男湯側の入り口のそばにある従業員用の扉を開いた。
「ここから、うちの裏に出られるから、ちょっと遠回りになるケド、こっそり帰りなさい」
「あ……ありがとうございます」
女性はぺこりと頭を下げる。
「徹、つばくろまで送っていってやって」
「わかったよ。約束、忘れるなよ」
ニヤリ、と、徹は私を見る。
「くれぐれも、徹が送り狼にならないでよ」
「なるわけねーよ。俺は、紳士だから」
紳士なら、パンツ一丁で声かけないでよ、と思ったが。私が『淑女』の範囲に入っていないだけなのだろう。
そう思うと、心の奥が苦い。
「じゃあ、よろしく」
私は裏口から出て行く二人を確認して、仕事に戻った。
それから、二時間ほどたったであろうか。そろそろ銭湯も終わりの時間だ。
ひょいと、番台を降りて外をうかがうと、相変わらず、不審者はそこにいた。
私は、思い切ってその男の方に声をかけた。
「ねえ、アナタ、ここで何しているの?」
男はぎょっとした顔で私を見て、脱兎のごとく走りだして。ステンと、ものの見事に転んだ。
「大丈夫?」
男は答えず、あわてて、顔をそむける。
暗い中、サングラスをしていれば、視野も悪かろう。
アスファルトの上であれほど派手に倒れれば、おそらく、ひどく擦りむいたと思う。しかし、男はそのまま、足を引きずりながら闇の向こうへと走り去っていった。
私はそのままそちらをしばらく見ていた。が、男が戻ってくる様子がないので、暖簾をしまって、灯りを落としたのだった。
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