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第二話
「姉さん、それは、無謀すぎる。なんで、一人でそんな男に声かけに行くの!」
朝ごはんを食べながら、昨日の不審者の話を秋人にすると、頭ごなしに叱られた。
「んー、でも、何もなかったよ?」
「それは、結果としてでしょ! その逃げ込んだ女の代わりに、姉さんが狙われる可能性だってあるし!」
秋人は箸を持ったまま力説をする。
「でもさ、逃げ込んできた女性は、すごい美人だったし、若い子で」
「姉さんだって、充分、若いからっ。もっと危機感持てよ!」
秋人の怒鳴り声に私は肩をすくめた。
「だいたい、その時間ならオレも帰っていただろ? ひとこと言えばいいじゃないか」
「すみません」
私は逆らうのをやめ、頭を下げた。
秋人の言う通り、あぶない可能性はあった。現実には、私を見て男の方が逃げちゃったけど。
そう思うと、ホッとすると同時に、なんか女として複雑な心境にもなる。
「それにしても、徹兄ィも、女送った後で、様子見に来るくらいしろよ。気が利かねえな」
ぶつぶつと秋人は呟く。
いや、金だして風呂に入りに来たのに、無理やり私に使われたのだし……と、思ったが、我が弟はすこぶるご機嫌が悪いので口にするのはやめた。
「今日は、昼間でも戸締りはしっかりしとけよ。本当に、危機感、ねえんだからっ」
どっちが年上だかわからない。秋人はしっかり指示をして、家を出て行った。
「危機感か」
思わず呟く。世間的に乙女を前面に押し出す年齢ではない。
周囲の女友達は、軒並み、結婚していて、しかも子がいる状態だ。
銭湯なんていう商売をしているせいで、顔は広い。かなり世間ずれはしていると思うけれど、恋人なんていたことがない。仕事ばかりの毎日をすごしている。
正直に言えば、銭湯を継ぐ気はなかった。
幼い頃の夢は、お菓子屋さんになることだった。
小さいころからお菓子を作るのが大好きだった。我が家にはオーブンはなかったけれど、料理好きの谷崎家には、オーブンがあって。私はおばさんに随分いろいろ教えてもらった。
でも。高校の卒業間際に父が倒れ。私は、銭湯の仕事を引き継いだ。その後、父は回復し、仕事に戻ったものの、私が二十歳になった時、交通事故であっけなく逝ってしまった。ゆえに、私は5歳年下の弟を学校に通わせながら、銭湯を続けている。
弟は大学に行かずに銭湯を継ぐことを望んだが、最近は、家風呂がある住宅が増え始め、銭湯の客はどんどん減りつつある。今はともかく、いずれは消えゆく商売だと思う。だから、私は、弟を大学に行かせた。
例えば、徹だって、職場には風呂があるらしい。普通に考えたら、勤務明けに、わざわざうちに寄る必要はないのだ。こまめに顔を出してくれるのは、徹の優しさだろう。
去年までうちに来てくれていた山梨さんは、家風呂のあるマンションへ引っ越していった。奥さんは、とってもうれしそうだった。
これからも、きっとそういう人は増えるだろう。
誰だって、特に女性なら、『家風呂』はアコガレだ。銭湯に来たいというひとがすぐになくなるとは思わないが、増える可能性は、まずない。
でも、とにかく弟が大学を出て、就職をして結婚相手を見つけるまでは、がんばらなきゃと思う。その後のことは、その時、考えればいい。
「やあ、千夏ちゃん」
外へ出ると、今からちょうど出社であろうか。谷崎剛、徹のお兄さんと会った。
徹も背が高いが、剛兄さんはもっと高い。日本人としては、高身長。顔も端整な顔をしていて、しかも一流企業に勤めている。年は私より二つ上。とっても、カッコいい。
「おはよう。剛兄さん」
「昨日、月の湯で何かあった?」
剛兄さんが興味深そうに私の顔を覗きこむ。
「徹が、ご機嫌で、風呂から帰ってきたんだけど」
「ご機嫌?」
はて? と、思う。風呂は烏の行水をさせてしまったので、ご機嫌になる要素はゼロだ。
ナイト役を無理やり押し付けた記憶しかない。
「あれ? てっきり、千夏ちゃんとイイコトがあったのかと思ったけど、気のせいか」
剛兄さんは首を傾げて、駅の方へと歩いていった。
「はて?」
それを見送りながら、ちょっと考えたものの何も思いいたらず、私は銭湯の入り口の掃除をはじめることにした。
初夏の気温に、暑苦しさを感じて、私は久しぶりに美容院へと出かけた。
仕事は夕方からだから、日中は少し時間がある。
私の年代になるとパーマをかける女性がとても多いが、私はショートカットが好きだ。若作りと言われかねないが、どうにもあのおかまのようなパーマの機械が好きじゃない。それに、子供どころか結婚もしていないのに、ミセスな髪型にはしたくないという意地もある。
「千夏ちゃん、お見合いする気ない?」
「お見合い?」
美容師の沢田さんが、私の髪に、はさみを入れる。
「実は、いい話があってね、千夏ちゃんにちょうどいいんじゃないかって」
沢田さんは手を動かしつつ、嬉しそうに笑う。
沢田さんは顔が広い。ここいらで未婚の男女を結びつけている、いわゆる世話好き凄腕仲人おばさんだ。
「私、弟が就職するまでは……」
「あら、でも、弟さんもじきに就職するでしょ。それに、お見合いしたからと言って、すぐ結婚しなくてはいけないわけでもないし」
「でも……」
「会ってみるだけ! 会ってみるだけでいいのよ、私の顔、立てて?」
とりあえず釣書を交換してからにと、条件を出すのが精いっぱいだ。完全に、沢田さんに押し切られしまう。私は複雑な気持ちで美容院を出た。
「ま、断られるのが関の山か」
沢田さんがどう思うかはしらないけれど、『26歳』という私の年齢は、かなり高い方だ。仕事をしている女とはいえ、都会的なあか抜けたものは何一つない。楚々とした美人でもなく、男の裸を見ても顔色一つ変えない、気の強い女だ。相手にだって、選ぶ権利はあろう。
とりあえず、承諾してしまったので、釣書用に写真も撮らねばならない。出費である。
私は駅前の商店街を歩きながら、大きくため息をついた。
「コーヒーでも飲もうかな」
駅前の喫茶店の前を通りかかったとき、大きなガラス窓が視界に入った。
「徹?」
窓際の席に徹と昨日の女性が、親しげにお茶をしているのが見えて。
私は、店の入り口を通り過ぎて、そのまま足早に家に帰ることにした。
なぜだか、胸が張り裂けそうに苦しかった。
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